長く伸びた影

 城を出た暗夜が向かったのは、三日前に足の捻挫を手当してくれたネオンがいる森の中の家。彼女を初めて見かけたときは街なかに立って客引きをしていたが、そんなことをしなくても客は来るらしい。暗夜には意味が理解できなかったけれど、ネオンは安全な娼婦・・・・・なのだそうだ。だから客足が絶えないと彼女は言っていた。


 彼女に自覚があるのかどうかはわからないけれど、ネオンは結構、見た目がいい。大人っぽくてシャープな雰囲気の顔つきはなんだか蠱惑的こわくてきで、金色に光る目と、不思議に光を反射する肌。人間には存在しない色素の青くて長い髪。魅力的な雰囲気にそぐわないあまりにも子供っぽい体型とのアンバランスさとも相まって、彼女は不思議な引力を持っている。彼女が娼婦としてやっていけているのは、これも大きな理由の一つだろう。


 何が楽しいのかわからないけれど、ヌヌは今日も家の前の小さな池で水面をつつき回している。昨日も一昨日もそうだった。こちらに向かって歩いてくる暗夜に気がつくと、顔を上げて輝くような笑みをこぼした。


「暗夜! ネオンに会いに来てくれたの? お家で待ってて! もうすぐ終わるから!」


 ヌヌに手を振って言われるままに家へ入る。家の中では足の悪いユユと喋れないムムがテーブルの上に紙を広げてお絵かきをしていた。


「やあ。何描いてるの?」


 椅子に座りながらふたりが描いた紙を覗き込む。紙面にはぐにゃりとした線がのたくっているだけで、暗夜には何が描かれているのか認識できなかった。


「お花とネオンだよー。暗夜も描こうよ」「むあー」


「えええ、いいけど……」


「お花描いて!」「むぃー」


 ムムが渡してくれた紙と鉛筆を受け取って、暗夜は呻き声を上げた。暗夜は花なんかまともに見たことがないのだ。しばし逡巡してから紙に黒い線を走らせると、向かいに座ったふたりが目を輝かせた。


「すごい! 上手! ネオンも上手なんだよ!」


 自分の絵が上手いか下手かは暗夜には判断できなかったけれど、素直に褒められると嬉しいものだ。もぞもぞとしながら礼を述べると、背後から涼やかな声がかけられた。


「あらお上手。城のお仕事はいいのですか?」


 暗夜が振り向くとそこには、目を細めているネオン。完全に子供扱いされている。少し不服な気もするけれど、別にいい。

 彼女に自分の詳しい事情は話していないので、彼女が暗夜のことをどう思っているかは暗夜にはわからない。なんとなく、城の暮らしに馴染めなかったはぐれ者くらいの認識しか無いように思う。

 こんなに城が近いところに暮らして、魔王のフリをしている暗夜の顔を見てもなんとも思わないのだ。なんだか妙に世間ずれしている彼女は、きっと、そんなふうだから今こんな暮らしをしているのだろう。


 自分が勇者であることも魔王であることも、誰も知らない。この環境が妙に心地よくて、息が詰まる城にいるよりも落ち着く。輝夜はしがらみのない話し相手として娼婦を利用することがあったとオクリは言っていた。今なら少し、暗夜にもその気持ちがわかる。


「いいんだ。僕みたいなのは、いなくったって一緒なんだ」


「あらそうなの? わたしは暗夜がいた方がいい

ですけどね」


 こともなげにそう言うネオン。暗夜はなんだかむず痒くて、密かに身じろぎをした。


 彼女の言葉が本心からなのか、それともいわゆる営業トークというものなのかは暗夜には測りかねる。けれど、冗談だっておだてるための嘘だって、言われると嬉しい。

 暗夜のことなんか自分のための処刑人形としか思っていなかったキーナのことを暗夜があれだけ好きだったのも、自分を大切に扱ってくれているという幻覚に騙されたからだ。暗夜だって、今は輝夜に預けてしまったけれど、自分の剣はよく手入れして大事にしていた。キーナの暗夜に対するあの態度は、もしかしたらそれと同じなのかもしれない。

 ちなみに暗夜は、その自分が大切にしていた剣を輝夜に早々に折られてしまっている事なんか知る由もない。どちらにせよ半年に一度ほどは折ってしまうので、その個体に対してこだわりがあるわけではないのだけど。


 ネオンが出してくれたお菓子を一口齧る。細かく切った芋が混ざった硬めのケーキだ。素朴な甘さがある。


 ヌヌから生活があまり豊かでないことを聞いているので、はじめにお菓子を出してもらった時にお金を払おうとしたが、断られた。これはほとんど畑で採れたもので出来ているからいいのだと。


 娼婦というのは、利用する男達以外からはあまりいい目で見られないらしい。だから、隔てなく接してくれる存在は貴重なのだという。だからたまに顔を出して、あわよくば子どもたちの相手をしてくれればそれでいいのだと言われた。なんだか申し訳ない気がしていまいち納得がいかなかったけれど、いらないと言ったものを無理に押し付けるのもどうかと思ったので、暗夜は素直にそれに従った。


「ねえ、ネオン」


 手作りのケーキの感想をひとしきり言い終えた暗夜が、ネオンの方に向き直った。名前を呼ばれたネオンは穏やかに首を傾げて、無言でそれに応える。


「きみがこの前言ってた人間を連れてきた魔物って、今どこにいるの?」


「暗夜は壁の外から来た人間が好きですねえ。その方なら、確か西の農場のそばに入れてもらったとか聞きましたけど」


「そうなんだ……ありがとう」


 口元を緩める暗夜。ネオンは怪訝な目を彼に向けた。


「外から来た者の居場所は城が把握しているでしょう? 城に住んでいるのならわたしに聞かなくたってわかるでしょうに」


 不思議そうに声を上げるネオンの疑問を、暗夜は曖昧な表情を作って流した。


✳︎


  夕飯までには戻ると約束した。暗夜ももちろんそのつもりだった。けれど、思った以上に時間がかかりすぎてしまった。今日の彼は意志が強くて、承諾させるまでに結構な時間を要したから。


 暗夜が城に戻るころには夕飯の時間はとっくに過ぎていて、長くて暗い城の廊下を照らすのは、暗夜が持った小さなランタンの灯りだけ。


 暗夜はオクリの部屋にいるということになっているはずだけれど、主の帰りがあまりにも遅いのを心配したアドレインが迎えに行っているかもしれない。そうしたら暗夜が部屋にいないことがバレてしまう。けれど、それならばきっとこの前みたいに捜索されているだろう。街中を歩く者たちにそんな雰囲気のものはいなかったので、アドレインは今も健気に主の帰りを待っているのかもしれない。


 廊下を歩く。靴音が妙に耳に響いて聞こえる。自分の部屋の前に立つ。扉のノブに手を掛けたところで、隣の部屋のドアが開いた。


「輝夜様」


 静かに主の名を呼ぶ彼の顔は、いつものような笑顔は浮かんでいなかった。


「オクリさんから事情は聞きました。世間を学ぶために外出しているのですよね。

 なぜ私がおそばにいてはいけないのですか? それに、輝夜様は最近危険な目に遭われたばかりなのですよ。ひとりの時にまた襲われでもしたら――」


 アドレインは、憔悴しょうすいしている。輝夜にあれだけ傾倒けいとうしているのだから無理もない。けれど、彼と一緒に行動することはできない。


 もとより、輝夜が娼婦とお喋りをするのにも反対するような彼だ。暗夜がネオンに会っているなんて知ったら阻止しようとするだろう。自分が盾の国に帰るまでの短い間だけだとしても、居心地のいい場所を奪われるのは嫌だった。それに、暗夜が壁の外から来た魔物と会話している姿なんて見られるわけにはいかない。


「ひとりじゃないとだめなんだ。僕が魔王だって知らないひとたちの暮らしが見たいんだ」


 困ったように眉を下げて答える。アドレインは視線を床に這わせて、逡巡する仕草をした。それを見て、暗夜は内心微笑む。


 キーナにどうしようもなく心を壊された暗夜は、ここに来て、もっとどうしようもなく壊れてしまった。自分が輝夜と再び相見あいまみえるときに、盾の国に戻るか、壁の国に帰るのかは暗夜にもわからない。けれど、このままではどちらにも暗夜はいられないのだ。

 自分をこんなふうに壊した盾の国を同じように壊してやりたい。しかし、こちらから兵をやることはできない。今の魔王にそんな権限はないから。向こうに戻ってしまえば暗夜は無力だ。輝夜がここに戻れば、暗夜の侵攻を止めるだろう。だから、今ここにいる暗夜が、壊すしかないのだ。


「ですが、輝夜様のお身体は、この国の何よりも大切なものなのです。無為に危険に晒すのは、私は反対です。私がおそばにいれば輝夜様をお守りできるのですが……」


「きみじゃだめなんだよ! わかるだろう!」


 思わず声を荒らげてしまった。暗夜がそっとアドレインを見ると、彼の金色の瞳が揺れていた。――ああ、彼を、傷つけてしまった。


「……ごめん」


 ぽつりとつぶやくように言った声が彼に届いたのかはわからない。彼の顔を見るのが怖かった。だから暗夜は、俯いたまま、輝夜の部屋へと逃げ込んだ。


 次の朝は彼が起こしに来るよりも早く起床して、暗夜は城を飛び出した。向かう先は一つ。この世界で自分が唯一存在を許される、森の中にあるあの家。



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