Runaway
「あぁ、いてて……」
まだ痛む左足を引きずりながら、暗夜は土を踏みしめた。立ち止まって振り返る。先程まで自分が迎え入れられていた小さな家。建付けの微妙な隙間から、暖色の光がこぼれている。その隣の小さな小屋の扉が開いた。暗夜はとっさに身をかがめたけれど、そこから出てきたネオンは暗夜の姿を捉えて、こちらに駆け寄ってきた。ネオンに続いて小屋から出てきたひと影は、気配を殺すように、木々の間へと消えていった。
「あら、まだ痛むでしょうに、無理しないで。どうしても帰りたいのなら、送るけれど……」
暗夜に体を寄せて、ネオンは暗夜を支えてくれる。汗のにおいがする。暗夜は別にそんなに
「ごめんね。ひとりで帰るから、大丈夫。
――僕は、きみたちのそばにいちゃいけない気がする。僕は、盾の国で、何も悪いことをしてない魔物をたくさん殺したんだ」
「そうなのですね。でも理由があるのでしょう? あなたが理由なく魔物を殺すようなひとなら、私たちはもう殺されているでしょう」
怯えた様子もなくそう言われて、暗夜は目をしばたかせた。朝露でぬかるんだ土を踏みしめる靴先を見て息を吐く。
「国の命令で……僕は、逆らえなかった。父さんを人質に取られて。でも、殺した僕が悪いんだ。魔物を殺したのは、国じゃなくて僕なんだ。僕が死ねばよかったのに。あの時僕はキーナに殺されていればよかったのに」
素直に答える必要なんかなかったのに、自然に口をついて出た。
ネオンは困ったように眉根を寄せて、暗夜の目を見る。
「私は、あなたが悪いようには思えないけれど」
「きみは他人を信じすぎだよ。よその子ども育ててるのだって、僕にはよくわからないよ」
暗夜の苦い声に、ネオンが大げさな仕草で頬を押さえて首を傾げた。
「そうかしら。そうかも。でも私、こどもが好きなのよ」
「じゃあ僕のことも好き?」
「どうでしょうね。少し好きかもしれません」
ふふふ、と静かに笑ってから、ネオンが細めていた目を開いて暗夜を見つめる。まっすぐに射抜かれて、暗夜は思わず姿勢を正した。
「暗夜。戦争で敵対者を殺めたものは、悪い人なのですか?」
「……」
「戦わなければならない環境に送って、敵対者を殺せと命じる国が悪いのでは?」
「でも、罰を受けるのを怖がって魔物を殺すひと
より、魔物を殺さずに罰を受けて、それで死んだひとのほうがいいひとだよ」
「――罰を与える国がおかしいとは思わないのですか? それに、戦いを回避する方法だってきっとあるのでしょう?」
「……わからないよ。僕には」
うつむいたまま黙した暗夜。早朝の弱い日差しが、梢の隙間から光を落とす。風の音。小さな池の水と畑の植物がさざめく音。
しばしの間黙っていたネオンが、おもむろに口を開いた。
「暗夜。魔物たちに伝わるおとぎ話をしてあげましょう」
支えた暗夜の身体をそっとその場に降ろされる。柔らかく湿った土の上に座った暗夜の横に、ネオンが静かに腰を下ろした。
「私達の命が十回めぐるくらい前。その頃は、魔物はいませんでした。人間たちが、新しい自分たちの形を求めて生み出したのが、魔物です」
いきなりこんな話をしてくる意味がわからなくて、暗夜はネオンを見る。風がネオンの青い髪を揺らす。ネオンは静かに、語りを続ける。
「人間はたくさん魔物を増やしたけれど、人間の理想と違う魔物が生まれたり、増やしすぎたりしてしまって、自分たちが生み出したのに、魔物をすべて消してしまおうとします。
そうして大きな戦争が起きて、人間たちが長い時間をかけて作った世界は壊れて、魔物と人間は一緒に暮らせなくなったのです」
落ち着いた調子で語るネオンの声が心地良い。心の中に沁みるような柔らかい声だった。
「そういうおとぎ話があるのです。魔物の中にはこれを信じて人間を嫌う者もおります。でも、わたしはあんまり信じてないです。けれど、もし本当なら、人間は身勝手で意地悪ですよね」
ふふふ、と笑うネオンにうなずいて返す。人間の国にそんなおとぎ話はなかった。魔物に関するものはあったけれど、そのどれもが突然湧いて出た魔物に困らされるような話ばかりだった。
暗夜がネオンの目を見ると、その目が柔らかく細められた。
「でも、今この世界に生きている者で、そのときに生きていた者はもういないのですよね。魔物と人間が別れてから産まれたものしかいないのですよ。だから、個人的な因縁もないのにいがみ合って殺し合う理由は私にはわかりませんね」
「……」
「暗夜。あなたはもう、壁の国にいるのです。外から壁の中に入った者が再び外に帰ることはないのですよ。あなたは何に怯えているの?」
ネオンの静かな、低い声。風が暗夜の細い黒髪を巻き上げて、遠くの方で落ち葉がささめく。
「僕は、違うんだ。帰らなきゃいけないんだ。帰らないと……」
「帰らなければいいのでは?」
「だって、僕、父さんが……」
「どちらかを選ばなければならないのですね」
「……」
暗夜は何も答えなかった。ネオンがこぼれた髪を耳にかけて、まばたきをする。彼女の頬に微かにある鱗。それが朝の光を浴びてきらりと光った。
「あなたのような子どもが、お父様でなく自分自身を選ぶことのどこがいけないことなのでしょうね。お父様は、あなたを助けようとしてくれたのですか?」
「……」
暗夜は口をつぐんで、うつむいた。レーデは自分を助けようとして、結果的に“なにもせず、自分の息子が傷つくのをただ見ている”という行動をとっているのではないかと暗夜は思っている。
キーナがいなくなってからはろくに会話もしていないけれど、時折部屋の前にチョコレートを置いて行ったり、暗夜が討伐に出ている間に机の上に甘いパンなんかを置いているのを暗夜は知っている。だから、父親が自分に愛情を持っている
とは思っている。けれど、自分がひどい目に合っているのを黙って見ている彼を見ると、その愛情に自信が持てなくなるのも事実だ。だから暗夜は、レーデと会話をするのをやめた。
――本当は自分のことなんかどうでも良くて、ただ暗夜を都合良く使うために愛情を持っているふりをしているのではないか。暗夜の中に存在している輪郭のぼやけた疑念が、確信に変わってしまうのが怖い。だから暗夜は、父親を嫌っているふりをして遠ざけた。
そうしてレーデから逃げ続けて、目をそらして向き合わずにいたせいだろうか。暗夜の心は、ネオンの短い一言で、いともあっけなく、瓦解しそうになっている。
風の音だけが闊歩する長い沈黙を破ったのは、ネオンの静かな声だった。
「暗夜。どこにもいられないのなら、ここで一緒に暮らしましょう。あとひとりくらいなら、どうにでもなるわ」
「なんで僕に、そんなこと言ってくれるの?」
「だってあなた、捨てられた子どもみたいな顔してたのよ。わたし、子どもが好きなの。あんなに辛そうな顔、見たくないのよ」
「僕、もう子どもじゃないよ」
「さっきは自分のこと、子どもみたいなこと言ってたのに?」
いたずらっぽくネオンが笑う。暗夜は答えず、むくれた表情を作った。
「僕、今日はもう帰るよ。また来てもいい?」
「はい。じゃあ、城のそばまで送りますね」
ネオンはそう言って、暗夜の身体を支えて立ち上がらせる。支えられながらしばらく歩くと、前方の森の中に明かりが数個灯って移動しているのが見えた。内容まではわからないが、誰かを呼ぶような声がかすかに聞こえる。――おそらく、城のものたちだ。
「ネオン、ありがとう。僕、もう帰れるよ」
肩に寄りかかっていた腕をほどいて、暗夜がネオンから離れる。ネオンは怪訝な顔をして、暗夜を見て首を傾げた。
「大丈夫なのですか? あの灯りは?」
「多分城のひとだよ。僕が急に消えたから、探してるんだと思う」
「じゃあそこまで」「大丈夫。きみが見つかるとまずいかもしれないから」
ネオンの言葉を遮って、強い声で断る。ネオンの丸い瞳が暗夜を見た。数秒見つめ合ってから、ネオンがそっと息を吐いた。
「そう……」
暗夜を近場の木にもたれさせると、ネオンは暗夜に手を振って森の奥へと消えていった。木々の隙間の中に彼女の背が消えるのを見届けてから、暗夜はまだ痛む足を引きずりながら灯りの方へと足を進めた。
「輝夜様!」
アドレインの声。暗夜の視界に点在して映るランタンの灯りが、一つだけひときわ強くなって声の主の方向を示す。
こちらに駆け寄ってきたアドレインは、暗夜からあと数歩の距離に来て、急に失速した。
「ご無事でしたか? お怪我は?」
彼は決して主の身体に触れることはしない。ただ、心配のあまりに身体が落ち着かないようでそわそわと忙しなく揺れている。身体の前で暴れる彼の指先を見て、暗夜はかすかに喉を揺らした。
「大丈夫……捻挫しちゃったんだけど、親切なひとに助けてもらって、手当てしてもらったんだ」
「そうなのですね。落ち着いたらお礼をしに行きましょう。足は医務室できちんと見てもらいましょうね」
ほっとした様子で目尻を下げるアドレイン。彼の金色の頭を、黒い影が覆う。
「魔王様、ご無事でしたか」
低い声。アドレインの背後から現れたのは、真っ黒で大きな魔物――オクリ。なんとなく気まずくなった暗夜は、彼から目をそらす。
アドレインが暗夜に背を向けて、オクリの方に身体を向けた。
「オクリさん。輝夜様、足を捻挫してしまったようです。医務室まで連れて行っていただけませんか?――その、私ではまずいと思うので……」
「ああ、わかった。ではお身体失礼しますよ」
そう言ってオクリが暗夜の眼前でかがみこむ。米袋でも担ぐような雑な持ち方で持ち上げられて、暗夜の身体は宙に浮いた。
「うわぁっ」
――視界が高い。あまりにも高い。はじめて体験する異形の長身の視界。オクリが歩くたびに自分の意思に反して不規則に揺れるものだから、暗夜は酔いそうでたまらなかった。
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