白い顔、赤い血
訓練場の奥の長椅子に座って、暗夜は眼前で繰り広げられる戦闘訓練を見ていた。ふたり一組になって剣の型を練習している様子だ。暗夜の視界の奥で兵士たちを鋭い目つきで観察しているオクリは、時折こちらの様子をにしているように見えた。
『アドレインに話した方がいいんじゃないか?』
昨日、オクリは暗夜にそういった。セイカも同じ意見だったけれど、暗夜はそれを拒否した。アドレインの普段の様子を見ると、今目の前にいる自分が輝夜じゃないと知ると錯乱してしまいそうだったから。それに、ちっぽけな、くだらないプライドもある。人間の国で酷い目に遭って逃げてきたなんて、事実ではあるのだけど、平和そうに過ごしているこの男に知られるのは嫌だった。だから、暗夜は今でも輝夜のふりをしている。
こちらに心配そうな視線を向けるオクリに目配せをして、暗夜は隣で座っているアドレインに視線をやった。目が合うと、アドレインが目を細める。
「輝夜様、昨日、お母様に会いに行ったんですよね。お元気でしたか?」
「うん。最近咳も出なくて落ち着いてるんだって」
「そうなのですね。それは良かった。またなにか、差し入れをしに行きましょうね。今度は私もお供しますよ」
「うん。何がいいかな」
何気なく聞いてから、暗夜は
乾いた砂地に視線を落とした暗夜のつむじに向けて、アドレインが柔らかい声を降らせる。
「春になったら、苺のタルトとかはどうでしょう? セイカ様、苺お好きでしたよね」
「いいなあ、それ。僕、作ってみたいな」
「ああ、いいですね。今度厨房を借りて練習しますか? 失敗しても私が食べるので、大丈夫ですよ」
「自分が食べたいだけでしょ? 食いしんぼ」
暗夜が笑うと、アドレインは一瞬、不思議な顔をした。それから、訓練場に散らばっていたふたり組み達が撤収したのを見て、暗夜に語りかけた。
「輝夜様、では、私と手合わせをお願いします」
頷いて、立ち上がる。アドレインから刃先を潰した剣を受け取って、円形に開かれた兵士の輪の中心に立つ。お互いに見つめ合って、構える。
日光を浴びて光るのは、アドレインの金色の目。
最初に動いたのは、暗夜だった。昨日、オクリに簡単な稽古をつけてもらった。オクリによると、暗夜は結構、覚えがいいらしい。オクリが今までに輝夜に教えてきた動きを習得した暗夜は、輝夜の動きで、アドレインに向けて剣を薙いだ。弾かれる。互いに距離を取って、再び構え。今度はアドレインが動いた。
いつものふにゃふにゃした軟弱な態度からは想像もつかなかったけれど、アドレインは暗夜が想像するよりもずっと腕が立った。
壁の外に暮らしている野生の魔物ばかり相手にしてきた暗夜には、戦闘に慣れたものと戦う機会はあまりなかった。
単純な力量差もあるのだろうけれど、きっと、暗夜がオクリに勝てなかったのは、そういうことだ。負けず嫌いの暗夜はそう思っている。今だって、余裕な感じで剣を振ってくるアドレインにこちらから攻める余裕を持てないのは、きっとそういうことだ。
バカにされているようで腹が立つのだけど、アドレインは全然攻めてこない。
壁の国は、魔物の国の中で一番の武力を誇る国らしい。オクリが言っていた。
壁を守り、こちらに害意を持つ人間を侵入させない。また、壁の中からも人間にとって害になる魔物を流出させない。そのためには、壁の国に武力を集中させる必要があり、必然的にそうなったらしい。
兵士ですらないアドレインでこの強さなのだ。長い歴史の中で人間達が何度壁を越えようとしても叶わなかった理由がわかる。いっそ攻め込んで、全て壊れてしまえばいいのに。
「ねえ、本気でやってよ。手加減しないで。僕、もう疲れた」
「ああ輝夜様、すみません。手加減していた訳ではないのですが、いつもより輝夜様の動きがよくて、嬉しくてつい、ながびかせてしまいました」
軽やかな剣戟音。アドレインがはにかむ。
「でも、今日はあまり攻めてこないのですね。あっ、もしかしてまだ緊張しておられますか? 配慮が足りなくてすみません」
そう言ってアドレインが剣を振り上げた。暗夜はその剣を受けようとしたが、背後から近づいてくる者の足音に気が付いて体を反転させた。同時にアドレインも気がついたらしい。手にしていた練習用の剣を投げ捨てて、懐から短刀を取り出した。
「輝夜様!」
アドレインの悲鳴が暗夜の鼓膜を刺す。
乾いた色の砂に飛び散る血。雄叫びのような悲鳴。地面に落ちた一振りの剣は、この場にそぐわない、よく研がれた刃先をしていた。
アドレインが地面に落ちた剣を拾った。アドレインの短刀により出血している首と腕を押さえてうずくまった毛むくじゃらの魔物に、切先を向ける。
「砂の国の者か?」
アドレインの声。魔物は口を動かしてなにか言おうとしたが、喉の負傷のためか声は出なかった。アドレインは息を吐いて、刀身を魔物の首筋に当てる。後ろに後ずさろうとする彼の着衣の肩を捕まえて拘束する。
「おまえのようなものも、輝夜様の海に還るのだな」
短刀を引く。飛び散った血が、アドレインの金色の髪と白い顔を汚した。暗夜の心臓が跳ねる。血に染まったアドレインの顔。こちらに向けられた彼の顔に、暗夜の心に深く根付いた光景がフラッシュバックする。
「輝夜様、お怪我はないですか?」
『なあ暗夜、もういいよな?』
アドレインの声が、幻聴と重なって聞こえる。暗夜は数歩後ずさって、乾いた砂にかかとを取られて地面に尻をつけた。アドレインが、こちらに手を伸ばしてきた。近づいてくるのは、キーナの顔。真っ赤な血に濡れて、その中で、赤茶色の虹彩がぎらぎらと輝いている。
「キーナ」
暗夜が、震える声を吐いた。暗夜の異変を察したアドレインが後退する。彼が駆け寄ってきたオクリに声をかけるのが、暗夜の視界にも映ったはずだ。しかし、暗夜にはもう現実なんか見えていなかった。数秒後にアドレインがこちらに戻って来たのを捉えて、暗夜は、逃亡した。
暗夜は走った。夢中で走った。
気がつけばいつの間にか林の中を走っていて、木の根に足を引っ掛けて転んだ。足を挫いた。足の痛みと地面にぶつけて出た鼻血のおかげで現実に引き戻された暗夜は、手近な所にある木にもたれて天を仰ぐ。
まだ空は青い。夕が遠い時間帯の薄青が、逆光で黒く見える木々の間から覗く。ここはどこだろうか。自分がどこから来たのかも、どこへ行けば街へ出られるのかもわからなくなってしまった。
今頃、アドレインは困惑しながら必死に自分を探しているだろう。足も挫いてしまったし、ここを動かない方がいい。けれど、今アドレインの顔を見て、暗夜は正気を保っていられる自信がない。また彼を傷つけてしまうだろう。
暗夜は盾の国から、勇者から逃げたかった。逃げれば、絶えず自分の心を焦がし続けるキーナから解放されると思った。けれど、ここにも暗夜の安息はなかった。これはきっと、暗夜への罰なのだ。キーナの言いつけを破って、キーナを殺した罰。暗夜は永劫、その罰を受け続けるしかないのだろう。
*
「私も本当のことは知らないのだが」
レーデはそう言って、キーナと暗夜の間に起こったであろうことを輝夜に語った。
要約すると内容はこうだ。キーナは尋常でない嗜好を持っていて、何かのはずみで、その嗜好が暗夜に向いた。そして、それに抵抗した暗夜が彼を殺した。それが理由で、暗夜は壊れてしまったのではないか。
輝夜はしばらくの間言葉を失って、レーデの黒い瞳を見つめた。しばしの間見つめ合って、ようやく輝夜が口を開く。
「……なんで? キーナって人の趣味はあなたも知ってたんだよね? なんで、暗夜から離さなかったの?」
「……あの趣味が、勇者に向くとは思っていなかったんだ。勇者がいなくなって、一番困るのはキーナだから。それに暗夜はキーナによく懐いていたし、キーナも暗夜を自分の弟よりもかわいがっていたんだ」
「最低だ……」
信じていた人が自分の敵だった悲しみは、輝夜だって知っている。でもそれは、口外するなとの言いつけを破って、人間に自らが魔物だと告げた輝夜自身が悪いのだ。しかし暗夜の場合はどうだろうか。周りの誰もが暗夜に何も言わず静観して、結果、暗夜はひどい目にあった。
「ぼくが、暗夜だったら良かったのに」
小さな声で呟いた輝夜の肩を、レーデが抱く。彼の胸を、輝夜が強く押して彼から離れる。
「嫌だ。今は嫌だ」
「……すまない」
「それはぼくに言う言葉じゃない。暗夜に言うべきだ」
「……」
何も言えずに黙ったレーデを睨みつけて、輝夜は彼に背を向けて部屋を出た。
行きと同じようにこそこそとしながら輝夜が部屋に帰ると、部屋の中にはテトラがいた。
「どこに行ってたんですか? ひとりで出歩いてるのが見つかったらどうするんですか」
こちらを咎める視線に刺されて、輝夜は目を泳がせた。
「ごめんなさい。レー……父さんのところに」
「レーデ様の?」
きょとんとした顔をして、テトラの低い声が一段高くなった。
「暗夜と、キーナって人とのことを聞いたんだ。勝手に聞いて暗夜には悪いけど……でも、ぼくは今は暗夜なんだ。聞く権利はあるよね」
「それで、――ああ、いや、おれは暗夜様に直接聞きます」
テトラは首を左右に振った。テトラにうなずいて返して、輝夜は苦い息を吐いた。
「暗夜は、悪くないと思うよ。ぼくは」
手のひらをぎゅっと握る。輝夜の首元で、長い鎖がじゃらりと鳴った。
「おかしいのは、この国だ」
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