あったかくて柔らかい手
目の前で、金色の髪が揺れている。髪と一緒に上下するのは、白い着衣の肩。
「ねえ」
暗夜は、いつも彼の早足を追うのに必死だ。彼は暗夜の声に気づかない。
「ねぇっ、おい、キーナ!」
暗夜の呼び声に気がついて、彼が、足を止めた。振り向いたその顔には、いたずらっぽい笑顔が刻まれていた。彼がよくする、いつもの表情。これでこの国の王子だというのだから、この国は先が思いやられる。――といっても彼は六人いる王の息子の中では一番変わっていて、他に変わりもの扱いされている王子といえば、暗夜の父親のレーデくらいだろうか。暗夜からしたら、彼らよりも他の王子たちのほうがいかれて見えるけれど。
「おー。暗夜おまえ足おせえなあ」
けだるそうに長い後ろ髪をいじるキーナ。暗夜は彼に呆れた視線を投げた。
「置いてくなよ。僕、迷子になるぞ」
「おまえ、オヒメサマだもんなあ。オレが連れ出してやらないと引きこもりってやつ」
仰々しい態度で暗夜の手を取ろうとしてくる。その手を叩き払う。「いって」痛くもないくせに、キーナは大げさに騒ぐ。
「うるさいな。好きで引きこもってるんじゃないよ」
「まーそうだな。おまえが出歩くとおやじどもがうるせーもんな。
――あれ、そういえばおまえ、今年でいくつになるんだっけ?」
このときなんと答えたのか、暗夜はよく覚えていない。
「まだガキだなあ」
「うるさいなおっさん」
暗夜が睨むと、キーナはいつもみたいにからからと笑う。
「あー、おまえからしたらおっさんかもなあ。よし、おっさんがかわいい甥っ子にメシを食わしてやろう。何食いたい?」
「鶏肉の揚げたの」
「おこちゃまだねえ」
からかわれて、暗夜はキーナに半眼をむける。キーナは気にしたふうもなく暗夜に背中を向けて、さっさと歩き始めながら声だけを暗夜に投げてきた。
「先に食ってから靴屋行くか」
「うん。キーナ、またステーキ食べるの?」
キーナはレーデや他の兄弟たちと比べると小柄な方だ。それでも、暗夜よりは背が高い。脚の長さが違うのに、キーナはそれに気を遣うこともなくいつもの歩調で歩き始める。早足で隣を歩く暗夜に向けて、キーナがにっと歯を見せた。
「おう。おまえも食う?」
「やだ。半生なの、ちょっと気持ち悪い」
「ふーん? 生肉が美味いのにな。焼かなくてもいーくらい」
「趣味悪ぅ」
「あら暗夜くん、人の趣味に文句つけてはいけませんのよ。お下品ですわ!」
ふざけた口調で暗夜を叱ってから、キーナが足を止めた。つられて足を止めた暗夜の目を、じっと見つめてくる。
「なあ」「輝夜様?」
聞き慣れない声が、暗夜の思考を割る。反射的に振り返った暗夜の目の前で揺れる金色の髪と、銀色のタグ。壁の国に所在がある証に彫られた四角い穴から、彼の向こうの景色がうっすらと見えた。
「あ、ああ、ごめん」
「いえ、ぼーっとしてらしたので……腕を掴んでしまって、すみません」
いつの間にか、手首を掴まれていた。ぼんやりと歩いていた暗夜はそれにすら気が付かなくて、
「服屋に着きましたよ」
にっこりと笑って、ドアを開けてくれる。キーナもテトラも暗夜に対する扱いは結構雑なので、こんなに丁寧に扱われることはなかった。お姫様みたいな扱いがなんだか恥ずかしくて、暗夜はうつむきながらそっとドアをくぐった。
「ああ魔王様、こんにちは。今日はどうされましたか?」
店の奥から駆け寄ってきた彼女を、暗夜は
魔物の肌に、こんな触れ方をすることは今までの人生で一度たりともなかった。いつもは敵意を持って接するような相手に、友好的な触れ方をするのに違和感がある。
「ああ、えっと、今日は……」
もごもごと口の中で返答する暗夜に向けて、彼女は器用に喉からごろごろと音を出して、薄く開いた目で暗夜を見つめる。
「今日は私の服が欲しくて」
口ごもる暗夜の声を、アドレインが遮る。
「あら、アドレイン様の? お休みまで一緒なんて、仲がよろしいんですね」
彼女が両手で頬を押さえて、目を細めて笑う。彼女の左手のひらと右手首に押された頬がむにっと上に持ち上がった。それがあまりにもかわいくて、暗夜は口元が緩むのをそっと殺す。
彼女の声に反応して、アドレインがこちらを見たような気がする。彼がしているであろう含みのある表情を見るのが嫌で、暗夜はそちらを見なかった。
「えっと、いまある白い服は――」
「白じゃないものがいいんです」
「あら、私服ですか?」
「私服ではないのですが、事情がありまして」
「そうなのですね。何色になさいます?」
アドレインの金色の目が、こちらを見た。暗夜が決めろと言うことだろう。しばらく目を泳がせて、暗夜が口を開く。
「青かな。濃い青」
キーナの着ていた白とも、暗夜の嫌いな赤とも違う色。別に黄色でも良かったのだけど、髪から何から黄色になってしまったら、アドレインの見た目が面白くなってしまう。目に優しくない色の彼を想像するとなんだかかわいそうな気がした。それに、自分と同じ黒い服を着せるのも嫌だった。彼が喜びそうだったので。
「まあ、素敵。いまお持ちしますね」
そう言って、よたよたと歩いて店の奥へと消えていく。歩き方が人間と比べておぼつかないのは、体のつくりが人間と違うからだろうか。しばらくして戻ってきたのは、青い服がたくさん掛かった洋服掛けを引いた彼女と、もうひとり、彼女と似たような背格好の、小柄というにはあまりにも小さな青年だった。
「やあおふたり、お久しぶりです」
暗夜に向けて、彼が手を差し出した。その指先には、異形の爪が生えている。骨格は人間のようなのに、爪だけが異様に際立っている。それをみた暗夜は一瞬、彼に向けて出した手の動きを止めた。そのことに気がついらしい。彼は差し出した手を引っ込めて、凶悪な形にとんがったつめさきをさすりながら苦笑いを浮かべる。
「ああ、ごめんなさい。長く引きこもってる生活だと、つい爪を切り忘れてしまって」
「兄さん、わたし昨日も爪切りなさいって言ったのに。ごめんなさいね、魔王様」
「全然、大丈夫。びっくりしちゃって……ごめんね」
暗夜が首を傾げると、彼の黒とピンクで斑模様になった皮膚の奥で、茶色い瞳が優しく細められた。
「さあ、服を選びましょうか。アドレイン様のでしたね」
洋服掛けからふたりが三本の手で一枚ずつ服をとって、次々にこちらに見せてくる。アドレインはそのたびにこちらの様子を伺う。暗夜からしたら他人が着る服なんて何でもいいのだけれど、きっと、おひとよしの輝夜ならば真剣に選ぶのだろう。そう思って、暗夜も真剣に彼の新しい服を選んだ。
長く悩んで、ようやく服が決まった。袖と脚の丈を詰めると言って、兄の方は店の奥に消えた。妹の方――名をフラフと言うらしい――が、飲み物を出してくれたので、ふたりは壁際に並んだ木製の長椅子に座って、少し離れたカウンターの奥に立つフラフと話をしていた。
「兄さん、あの爪で本当になんでも壊しちゃうんです。昨日だって、わたしが刺繍しようと思って枠に張ってた布を破っちゃって。本人的にはただ持っただけって言ってたんですけど、ひどいですよね。だからわたし、爪切ってっていったのに!」
かわいらしく頬を膨らませて怒るフラフ。柔らかく整った毛並みは、キーナが暗夜によく買ってきてくれた、こんがり焼けたミートパイみたいな色をしている。キーナはミートパイをかじりながら「ひき肉は美しい肉なんだ」とか言うようないかれたやつだった。きっと、だから、暗夜は彼を手にかけた。
「爪が鋭いと力加減が難しいのですね。私は、手は人間と同じなので……」
アドレインが、自分の手の甲を眺めながら神妙な顔で相槌を打つ。
全身がもふもふしたフラフと、皮膚の色こそ違えど、人間と変わらないような毛の生え方をしたフラフの兄。アドレインと街を歩いて、暗夜は
人間の国で育った暗夜は知らなかったけれど、彼らにとって、血のつながったきょうだいでさえも自分と全く違う姿をしていることは当たり前のことなのだろう。
「そうなんです! だから気をつけてって言ってるのに。……でも、服の形になったら絶対に破らないんですよね。不思議なんですけど」
「だってそりゃあ、服になってから破ったら大変でしょ」
ははは、と笑いながら、店の奥から兄が出てきた。フラフが丸い頬をぷくっと膨らませて、すねた仕草を見せる。
「兄さん! 何壊したって大変なの!」
「あっはは。――服が仕上がりましたよ、アドレイン様」
*
服屋で受け取った新しい服。それが入った布の袋を、取っ手を掴んで持てばいいのにわざわざ抱きしめるように左手で持って、空いた右手をふらふらと振りながらアドレインが歩く。間抜けに緩んで開いた彼の口から覗く凶暴な造形の歯牙に呆れた視線を送って、暗夜は彼の右隣を歩く。
「輝夜様、ありがとうございます! いい服が買えましたね!」
『おっ、いい服選んだじゃん。でも白いののがかっこよくねえ?』
『嫌だよ、白汚れるもん。キーナ、いつも血まみれになってきたねーもん』
上機嫌なアドレインの声に重なって、幻聴が聞こえる。いつだったかにキーナと交わした会話。
キーナは白い服しか着なかった。盾の国の王族は明るい色の服を嫌っていて、特に白い服は、処刑の儀式のときにしか着なかった。それなのに好んで白い服を四六時中着ていたキーナは、城の兵士たちからは陰で『処刑王子』なんて呼ばれていた。
「輝夜様、城に戻ったら戦闘訓練の見学ですが」
アドレインが左側から声をかけてきた。歩きながらそちらに顔を向けると、彼が足を止める。つられて暗夜も止まる。
「りんご、買って帰りませんか? 一汗かいたあとのおやつになにか作ってもらいましょう」
彼の背後には、果物屋。店の外に並べられたテーブルの上には、大きなかごに積まれたたくさんの果物たち。りんご、レモン、いちご、みかん。
「輝夜様、どれが一番赤いですか?」
山積みになったりんごの前に立ったアドレインが、問いかけてくる。
「え? これかな」
聞かれたとおりに、素直に赤そうなりんごを指差す。アドレインがそれを手にとって目を細めた。
「じゃあそれにしましょう。――いや、一つじゃ足りないかもしれませんね。ほかはどれが赤いですか?」
「うーん? どれも赤いけど、これとか、この辺のやつ、結構赤いよね」
わざわざ暗夜に選ばせる意味はよくわからない。自分で選べばいいのになんて思いながら、赤いりんごを指差していく。
「ありがとうございます。輝夜様、美味しい果物を選ぶのがお上手で素敵です」
そう言って暗夜の指したりんごを手に取るアドレイン。暗夜は苦笑いを浮かべる。
「僕だって上手じゃないよ。ハズレ選んでも怒らないでね」
「ウチの果物にハズレはないよ」
真っ黒な布を被った大柄な店主にそう言われて、暗夜は思わず背筋を正した。
「あっ……ごめんなさい」
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