いつだって守られていた

 今日は湯船に浸かろうと思ったが、なんだかよくわからない毛や脂が浮いていて汚かったので諦めた。前回と同じように体を流して、身支度を整えて外へ出る。ドア横の壁にもたれていたテトラが、壁から背中を離して、湯上がりで上気した輝夜の顔から目を逸らした。


 外の冷たい空気に触れて、濡れた毛先が輝夜の首筋を冷やす。固く乾いた空気の中に、ふたりが砂を踏み締めるかわいい音だけが響く。


 来た時とは逆に、城の裏手から城内へ入る。こつん。石床を叩く軽やかな音。洗濯物のかごを持った使用人が歩いている。耳を澄ませると聞こえるのは、食器を洗う小さな音に、朗らかな会話の声。穏やかに営まれる、人々の日々の生活音。その音は、階段を二回登りきると一変する。自分たちの靴音と、三階に上がるときに輝夜に再び付けられた鎖が揺れる音だけが響く、静かな空間。時折どこかの部屋から会話が漏れきこえてくるけれど、下の階で聞くような声とは違って、なにか緊張感を孕んだ空気を感じる。


 しばらく歩いて、角を一つ曲がる。対面の角から、妙に大きな足音。声。急に足を止めたテトラにぶつかりそうになって、輝夜は上体を反らせて立ち止まった。前方の角から現れたのは、緑色の服。金色の髪。テトラが振り向いて、小さな声でささやきかけてくる。彼の眉間には皺が寄っている。


「トーア様です」


 輝夜は黒目を上に向けて、食事中にしたテトラとの会話を思い出す。彼の話によると、暗夜を目の敵にしてたびたび突っかかってくる厄介なヤツらしい。視線を前方に戻すと、彼の茶色い瞳と目が合った。彼は分かりやすくその目の奥に嫌悪の色を宿している。


 テトラが彼に向けてそうしたのにならって、輝夜も彼に頭を下げる。トーアが歩調を早めた。輝夜の目前まで歩み寄ってきて、輝夜を睥睨へいげいする。反応に困った輝夜が眉尻を下げて彼を見上げると、勢いよく、輝夜の首から伸びる鎖を掴まれた。鎖をぐいっと引き寄せられて、テトラの手から外れた鎖が石の床を打った。


「畜生のくせに、堂々とこんなところを歩くんじゃない」


 輝夜は何も言わなかった。――言葉が出てこなかった。テトラに助けを求める視線を送るが、彼は固く目を閉じていて目が合わなかった。


「すみません。部屋に帰ろうとしていただけなので」


 首を詰められているせいで声がかすれた。まっすぐにトーアを見つめ返す。


「――髪が濡れてるな。風呂入ってきたんだな。自分の仕事もまともにこなせないくせに?」


 平手を頰に食らう。反射的に輝夜は目つきを鋭くして――『次に何か問題を起こしたら、テトラの首を刎ねる』王の言葉を思い出して失速した。俯く。


「なんだよ、今の目」


「……なんでもないです」


「気に入らねえなあ」


 後ろに控えた黒髪の青年に目配せをする。彼は無言で頷いて、輝夜に冷徹な視線を送る。


「もう失礼してもいいですか? ぼくがここにいると不愉快なようなので、ぼくは部屋に帰ります」


 鎖を握るトーアの手を掴む。輝夜のそれよりも大きくて節ばったトーアの手は、ぞっとするほどに冷たかった。


「もうちょっと、オレと遊んでけよ。

 ――なあお前、なんでキーナ兄様を殺したんだ?」


「それは……」


 輝夜は口ごもった。そのことについては、何も聞いていないのだ。


「言えよ。なんで何回聞いても答えないんだ?」


「すみません。その時の記憶がないのです」


「記憶がなければ、兄様を殺してもいいとでも? おまえみたいな畜生が、この国の宝だった兄様を?」


「……すみません」


 言葉をなくして、輝夜が目を閉じる。鎖を引かれて、首を詰められて咳き込んだ。


「なあ、言えよ。言いたくないだけだろ? 言わないと部屋に帰してやらねえぞ」


 トーアの低い声が床を這う。輝夜の背後で、テトラの靴が石床を叩く音がした。


「トーア様、勇者様をあまり――」「ぼくじゃなくて、魔物に殺されました。大きな、熊みたいな獣です」


 テトラの声を遮るように、輝夜は反射的に口を開いていた。トーアの茶色い瞳が、驚いたように見開かれている。輝夜がその目を見つめながら、言葉を続けた。


「――それとも、嫌いだったからぼくが殺しましたって、言った方がよかったですか?」


「ふざけんな!」


 トーアが剣を抜いた。輝夜の目が光る。丸腰の輝夜に向けて振り下ろされた白刃。輝夜はそれを手で払おうと構えた。しかし、それは叶わなかった。

 くすんだグレーの床を、赤い血がぽたぽたと落ちてまだらに染める。――テトラの血。輝夜を守ろうとして咄嗟にテトラが出した腕を、トーアの剣が薄く裂いて血を零した。

「うああ……」

 テトラの低い呻き声。


「テトラ!」


 輝夜の悲鳴。鋭い眼光をトーアに向けた輝夜の肩を、テトラの無事な手が掴んで引いた。


「テトラ、止めなむぎゅっ」


 手のひらで口を塞がれた。怪我人を振り払うこともできずに、輝夜は黙して顔を伏せる。


「――今日は、これで許してもらえませんか? おれは事情は知りませんけど、本人も記憶がないようなので。おれも早いうちに医務室に行かないと死にそうですし」


 青醒めた顔で、テトラがトーアに向けて言う。床には赤黒い色をした小さな水たまりができている。

 床から顔を上げたトーアが、吐き捨てるように答えた。


「……次はないぞ」


 すれ違いざまに輝夜の肩にわざと腕をぶつけて去っていったトーアと、彼の従者の背を見送る。目を平らにして歯ぎしりする輝夜の肩に、テトラの声が降ってくる。


「すみません。いつもはトーア様が来ている時は部屋から出ないようにしているんですけど」


「それより、テトラくん、腕! ごめんね! 痛いよね。一緒に医務室行こ?」


「いや、一人で行くんでいいです。部屋で待っててください」


「でも……」


「またトーア様と鉢合わせるとまずいので、部屋に帰ってください。送ります」


 部屋の方へ向けて肩を押される。その手を避けて、輝夜はテトラの痛めていない方の手を掴む。


「いいよ。早く処置しないと!」


「いや、見てください。そんなに深くない。血ももう止まってます。おれの演技がうますぎてあんたまで騙されましたね?」


 冗談めかして笑うテトラ。確かに血はもう止まった様子ではあるが、怪我は痛むだろう。テトラの冗談の意図を察して、輝夜は小さな声を床に落とした。


「……ごめんね、テトラくん。ぼくがあんなこと言ったせいで」


「あれは輝夜様、悪くないですよね」


「でも、ぼくのせいで、きみに怪我させた」


「暗夜様もあんたもやんちゃで困りますね。

 暗夜様は肩に怪我させて逃げたと思ったらあんたと入れ替わってるし、あんたはあんたで喧嘩っ早いし」


「ごめんね。……ぼく、本当に何もできない無能だ。向こうでも、ぼく、守られるだけだった」


 はー。頭上から、テトラのため息が降ってくる。


「おれは別にそれでいいと思うけど。だって、勇者も魔王も民を守るのが仕事ですよね。たまには守られる側に回ってもいいんじゃないですか? 

 ていうか、子供にそんな仕事任せるのがおかしいですよね。どっちもどっちだ」


 輝夜が顔を上げるのと同時に強い力で肩を押された。無理矢理に身体を部屋のある方向へと向けられて、輝夜からはテトラの表情は見えなくなった。


「おれもう行きますね! まっすぐ部屋に帰るんですよ!」


 ぱたぱたと遠ざかっていくテトラの足音。輝夜はゆっくりと息を吐いて、首元から垂れ下がる長い鎖を引きずりなから帰路についた。



 今よりももっと幼い頃の輝夜は、今よりももっと純粋で、人間と魔物の間に壁なんかないと思っていた。


 壁の国の中では“王子”として顔がしれているので、街中でボール遊びに興じる子供たちも、輝夜の姿を見ると輝夜に間違ってもボールが当たらないように遊びをやめてしまう。一緒に遊んで欲しいなんて、とてもじゃないけど言えそうにもなかった。


 壁の外の人間たちが輝夜のことを知らないと気がついたのは、十一歳の頃だった。そのころはまだ母親が身体を病む前で、アドレインと輝夜を連れてたまに壁の外へ連れて行ってくれた。

 壁から一番近い村に住む子供たちと仲良くなった輝夜は、アドレインを連れて頻繁に壁の外へ行くようになる。女の子たちとおままごとをしたり、男の子たちとボールを追いかけ回したり……

 あたりが暗くなるまで遊んで、心配したアドレインに引きずられて帰ったりもした。


 あの時の輝夜はまだ、子供だったのだ。人間が魔物を嫌っていて、その者が“魔物”だったというだけで迫害なんてしないと思っていた。母親にもアドレインにも、自分が魔物であるということは隠せと言いつけられていた。

 ――けれど、輝夜は言ってしまった。仲良くなった子供なら、輝夜が人間じゃなくても、変わらず仲良くしてくれると思ったのだ。


 次に村に行った輝夜を出迎えたのは、たくさんの光る剣の切先だった。


 その時に輝夜は腹に一生残る傷を負って、アドレインが輝夜を庇って手を汚して、そして怪我をした。


 輝夜はいつもそうだ。自分の愚かさで他者に皺寄せを押し付けて、手を汚させて、酷い目に遭わせて、護られている。あんなことがあっても人間と魔物の和平を望むなんて、甘ったれているのは自分でもわかっている。こんなにも無力な自分に、壮大な理想が叶えられる気もしない。


 輝夜はうつむいて、息を吐いた。脳裏に浮かぶ、いつか聞いた暗夜の言葉。


『自分の手を汚したことがないなら、きみのそれはきれい事だよ』『それは、犠牲を払ってでも叶えたいと思うかい?』


 ――ああ、そうだ。今の輝夜は、壁の中で守られながら空を見上げて、いつか、誰かが自分に与えてくれることを祈りながら空に浮かぶ星を羨望しているだけなのだ。自分の手で壁を壊して、自分の足で歩いて、自分で作った道を進まなければ、星のふもとにだって辿り着けないというのに。


 輝夜はベッドから立ち上がって、ドアを開けた。トーアや他の王族たちと鉢合わせしないようにあたりの音に耳を澄ませ、柱の影に隠れたりなんかしながら、少し前にテトラに教えてもらった部屋の前に立つ。

 小さくノックをしてから部屋を開けると、部屋は真っ暗で、中には誰もいなかった。部屋に入って、扉を閉める。部屋の奥に置かれた机まで歩いて、その前に置いてある椅子に腰を下ろして部屋の主の帰還を待つ。


 数刻、輝夜はそうして椅子に座っていた。途中、少し眠ってしまった。眠たい頭を振って窓から差す月明かりに目を向けていると、廊下の方から足音が聞こえてきた。足音は数秒間続いて、部屋の前で止まる。蝶番の軋む音がして、扉が開いた。部屋の中で立ち上がった輝夜の姿を捉えて、部屋の主――レーデが、目を見開いて猫背気味の背筋を伸ばした。


「輝夜――」


 言いかけて、口を閉じる。扉を閉めて、襟元をいじりながら、輝夜に歩み寄る。レーデが何か言うよりも先に、輝夜が口を開いた。


「ねえ、キーナってひとと暗夜は、何があったの?」

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