第27話 中嶋
「何やってんだテメェ…!」
アパートの駐車場に柄の悪い怒号が響いた。
午前8時。戸締りをして後から追いかけてきた夕月が慌てて人差し指を立てる。
「翔吾……、しーっ! そんな声出してたら追い出されちゃうよ……!」
舌打ちをした翔吾の視線の先には見覚えのある少年の姿があった。
今日は制服らしいブレザーを酷く着崩した格好をしている。
もう腕は吊っていなくて、ギプスの為か、ブレザーの片腕が膨らんでいた。
「夕月さん、翔吾さん! おはようございます!」
「あ、中嶋くん…、どうしたの?」
「お2人のお荷物お持ちしようかと!」
中嶋は今日も元気に頭を下げた。
「荷物持ちなんか必要ねぇ。なんでここがわかった…!?」
「翔吾さんのスーボルって珍しいんで!」
「あー、くそっ!」
翔吾は頭を抱えた。
「夕月、引っ越すか? こいつ絶対また来るぞ。」
「別にいいよ、そこまでしなくても。」
朝から凶悪な顔になっている翔吾と目をきらめかせる中嶋を見比べて、夕月は微笑んだ。
「中嶋くん。今日はバイクで行くから、本当に必要ないよ。自分の学校ちゃんと行かなきゃダメだよ。」
「はい! 夕月さんがそう仰るなら、今日はこれで失礼します!」
中嶋はもう一度頭を下げて、傍らの自転車に飛び乗る。
その腰に下がったチェーンに、折りたたみナイフが揺れていた。
微かに強張った夕月の笑顔に翔吾はすぐに気付いた。
「おい中嶋ぁ。……夕月に会おうと思ったんなら、せめてまともな格好すんのが礼儀だろうが。……2度と来んじゃねぇぞ。」
「はい! 頑張ります!」
中嶋は聞いているのかいないのか、嬉しそうな笑顔で自転車を漕いで行った。
その日の帰り、大学の駐輪場に停めてあった翔吾のバイクにコンビニの袋が掛かっていた。
中には『ゆきさんへ』のメモと一緒に、紙パックの紅茶とゼリーが入っていた。
「000…中嶋くんかな?」
「きったねぇ字だな……、夕月だけかよ。」
「欲しかったの?」
「いらねーよ!!」
ある日のスーパーからの帰り道、夕暮れの空気がアスファルトから湿った匂いを立ち上らせていた。
「中嶋くんだ。」
アパートの前に1人の高校生が俯いて立っていた。
明るい色の髪を逆立てず、ネクタイをきちんと締めている。
翔吾が舌打ちして夕月の前に出ると、その袖を夕月が引いた。
「私、今日は1人で話してくる。きっと大丈夫だから。翔吾はここでちょっと待ってて。」
翔吾は立ち止まった。
その言葉に、静かに目を細めて彼女を見る。
「駄目だ。またなんかあったらどうする。あいつが何したか忘れたのか。」
「忘れてない。でも、中嶋くん、今日はちょっと違うし。ゆっくり話してみたい。」
翔吾は西陽の中でしばらく黙っていた。
片手に下げていたスーパーの袋を一度持ち直して口を開く。
「……無理だ。現実はそんな甘くない。お前の優しさと正しさだけじゃどうにもなんねぇ事があるって、もうわかってるだろ。」
その声に、夕月の眉が小さく揺れた。
夕月は目を逸らさない。ただ、言葉を探しているようだった。
「じゃあ……守るってなに? 私がこうしたいって気持ちは守ってくれないの?」
翔吾は少し俯いた。低く呟く。
「……嫌だ。」
「翔吾。」
「俺は、俺の手が届く所しか守れねぇ。行くな。」
夕月はただの女ではなかった。
腐っていた自分に安らぎを与え、道を示した人。
夕月は翔吾の世界そのものだった。
夕月が消えた時に感じた「失うかもしれない」という恐怖は想像を絶するもので、翔吾はそれを忘れられなかった。
「お前に何かあったら、今度こそ俺はあのガキを殺す。」
それは、夕月に対する脅迫だった。
夕月の選択を蔑ろにしている事に気付きながら、その真心を天秤にかけさせた。
「わかった。」
夕月は静かに頷いた。
「私は行きたい。でも翔吾がどうしても嫌なら、一緒に行こう?」
それだけ行って、翔吾をかわして中嶋に向かう。
翔吾は2歩分遅れて、華奢な背中を追った。
夕月の心は手の届く所には無かった。
それでもその歩調は、翔吾を待ってくれているようだった。
「夕月さん、翔吾さん。」
2人が近づくと、中嶋の薄い眉が下がった。
「中嶋くん、今日はどうしたの?」
「今日はちょっとご挨拶に来たっス。」
中嶋は少し言い辛そうに口をもごもごさせた。
「あの、俺とタメの奴が……、あの時、いたんすけど。」
「あの時」と言った時、中嶋はちらっと翔吾を見て、夕月を見た。
一瞬あの廃倉庫の臭いを思い出して、すっと喉の奥が冷たくなるのを感じたが、夕月は出来るだけ冷静に頷いて先を促した。
「……そいつも俺と一緒に、抜けようって言ってて。……そいつが、こないだ詰められました。」
後ろに立つ翔吾が、静かに深く息を吸ったのが聞こえた。
夕月には詰められるという言葉の意味はわからなかったが、良いことでないのはわかった。
「……だから俺、北海道の婆ちゃんちに行くっス。ここのことは誰にも言ってないんで、安心して下さい。」
「……そいつは、どうした」
翔吾が訪ねると、中嶋は少しだけ笑った。
「普通に……、生きてます。別に、翔吾さんのせいとかじゃないっスから。俺らがちゃんと選んだ結果っス。」
「そうか。……気を付けて行け。」
夕月は感情を抑えた翔吾の声に少しだけ驚いた。
「中嶋くん。」
出会いは最悪だったが、拒まれ続けても別れを言いに来てくれた中嶋に言葉を選んだ。
「わざわざ来てくれてありがとう。…本当は、中嶋くんの事怖かった。多分、今も怖い。でも、中嶋くんが会いに来て謝ってくれたから、ただの悪い人って括りの記号じゃなくて、一人ひとり考えが違う人たちなんだってわかった。」
具体的な言葉の意味がわからなくても、今の彼に身の危険が迫っているという事は感じ取れた。
翔吾に年上ぶるなと言われた事を思い出す。
けれど、俯いている少年があの日の自分と同じ恐怖を味わっているかも知れないと思うと、何か優しい言葉をかけてやりたかった。
「中嶋くんに、ちゃんと私の言葉が届いてたのわかるよ。怖いけど、嫌いじゃない。だから、元気でいてね。」
「夕月さん、」
中嶋は深く腰を折った。
「俺、お2人に会わなかったら、抜けようって思えませんでした。……夕月さんにもあんな事しちまったけど……、翔吾さんにあそこで腕折られなかったら、もっとどうしようもない奴になってた。多分本当にクスリも殺しもやったと思う。翔吾さんに怒鳴られるのも当然っス。」
中嶋の言葉は道端に土下座していた時よりも余程真摯に響いた。
「前も言ったけど、お2人は俺の恩人っス。勝手だけど、俺に背中を見せて頂いて、ありがとうございました。」
中嶋は連絡先も教えずに、笑って去って行った。
自転車を漕いで行く薄い背中を見送って、翔吾は苦々しく呟いた。
「……あいつを変えたのは夕月だ。」
「翔吾?」
「……お前を、俺の側に留めておけば、守ってやれると思った。でも俺が閉じ込めただけじゃ、中嶋と知り合わなかった。お前は自分の足で歩いて行って、あいつを守ったんだ。……俺もそうやって救って貰ったのに、夕月が1人で立てる女だって忘れてた。」
「翔吾……。でも翔吾が見ててくれるから、私は立ってられたんだよ。私を守ろうとしてくれたの、ちゃんとわかってるよ。」
夕月が触れると、買い物袋を下げた翔吾の腕は硬く強張っていた。
「……中嶋を切り捨てたら、多分俺はもっと調子に乗って、お前のこと囲い込んでた。どこにも、誰にも触らせないように。そんなのもう『守る』じゃねぇよな」
「……守るって、外の世界から切り離すことじゃなくて、切り離されないように、側にいてくれることだと思う。それに私だって、翔吾を守りたい。」
どちらかの一方的な庇護ではなく、共に立ちたいと、夕月は伝えたかった。
翔吾の顔は夕月よりもずっと高いところにあって、その目の色は寄り添ったままではよく見えなかった。
「だから、お願い。私が選んだひとが壊れないように、そんなに自分を責めないで、自分の心も護って。」
翔吾が俯くと、夕月の目にもその悔しそうな表情が見えた。
夕月と目が合う事を意識していなかったのか、翔吾は一瞬目を見開いてから、目を細めて僅かに笑って見せた。
そんなに長く立ち話をしたつもりはなかったが、いつのまにか空は大部分が藍色に染まり、西の空の夕焼けはほんの僅かになっていた。
「……とりあえず、私の選んだお肉が傷まないうちに、中に入らない? ちょっと寒いし。」
冗談めかして夕月が提案すると、彼もそうだな、と頷いた。
日々の小さな積み重ねを手のひらで包むこと、それが2人の選択だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます