第7話
エラーラが進む先にあるのは、この地方で最も高く、そして最も危険とされる「月詠山(つくよみやま)」だった。山頂には、強力な魔力を持つ魔物が生息していると言われ、麓の村人たちでさえ、滅多に足を踏み入れることはない。
彼女は、その山の頂を目指していた。サンペタル・デューの調合に不可欠な最後の素材が、そこにあるに違いない。
道中、何度か森の獣に遭遇したが、エラーラは冷静だった。彼女はリュックから調合した薬を取り出し、獣の進路に撒く。それは、獣が嫌う匂いを放つ忌避剤だった。獣たちは鼻を鳴らし、彼女を避けるようにして去っていく。彼女は、祖父から教わった錬金術の知識を、見事に活用していた。
夜通し歩き続け、夜が白み始める頃、エラーラはようやく月詠山の麓にたどり着いた。そこからは、急な登りが続く。彼女の呼吸は荒く、額には玉の汗が浮かんでいた。だが、その足取りに迷いはない。
俺は上空から、彼女の小さな姿を見守り続ける。鳥の身体は本当に便利だ。疲れることを知らないし、腹が減ればその辺りの木の実や虫を食べればいい。ちょうど、近くの木に美味そうな木の実がなっていた。
【名称】 サンライズ・ベリー
【味傾向】 濃厚な甘酸っぱさ。太陽の光を凝縮したような味。
【食感】 プチプチとした小さな粒が、口の中で弾ける。
【効能】 疲労回復(大)。体温上昇。
数粒食べただけで、全身に活力がみなぎってくる。さて、観察の再開だ。
エラーラは、岩肌にしがみつくようにして、険しい崖を登っていた。一歩間違えれば、谷底へ真っ逆さまだ。俺はハラハラしながら見守るが、俺にできることは何もない。
彼女が、あと少しで崖を登り切るという、その時だった。足をかけた岩が、突然崩れ落ちた。
「きゃっ!」
エラーラは悲鳴を上げ、宙に投げ出される。万事休すかと思われたが、彼女は咄嗟に崖の途中に生えていた木の根を掴んだ。かろうじて落下は免れたが、片手で全体重を支えている状態だ。このままでは、力尽きて落ちてしまうだろう。
彼女は必死の形相で、もう片方の手を伸ばし、崖の突起を探す。だが、都合のいい場所には何もない。彼女の腕が、ぷるぷると震え始めた。
その時、俺は彼女の魔力が大きく揺らめくのを見た。青い光が、彼女の手から溢れ出す。
「……お願い、力を貸して!」
彼女がそう叫ぶと、掴んでいた木の根が、まるで生き物のように動き出した。根は自ら伸びて、彼女の腕に絡みつき、その体をぐっと崖の上へと引き上げたのだ。
崖の上に転がり込んだエラーラは、ぜえぜえと肩で息をしながら、自分が助かったのが信じられないという顔をしていた。
「……今の、は……?」
彼女は自分の手を見つめている。植物を活性化させる、初歩的な錬金術。祖父から教わってはいたが、成功したのは初めてだった。火事場の馬鹿力というやつだろうか。彼女の魔力が、危機的状況で覚醒したのかもしれない。
しばらく休憩した後、エラーラは再び山頂を目指して歩き始めた。先ほどの出来事で、彼女の表情には自信が満ちているように見えた。
日が傾き、再び夜の帳が下りる頃、彼女はついに山頂へとたどり着いた。山頂は開けた岩場になっており、遮るものは何もない。空には、満月によく似た白銀の月「セレネ」と、赤銅の月「アレス」が、すぐそこに手が届きそうなほど大きく輝いていた。
そして、二つの月の光を浴びて、岩場のあちこちに、淡い光を放つ花が咲いていた。銀色の花びらが、まるで月の光をそのまま固めたかのように、幻想的に輝いている。
「……あった。これが、『ムーンドロップ・フラワー』……!」
エラーラは、感極まったように呟いた。彼女はずっと、この花を探していたのだ。サンペタル・デューを完成させるための、最後の素材。
彼女はリュックから特別なガラス瓶を取り出すと、祈るように、一輪一輪、丁寧に花を摘んでいく。全ての瓶が花で満たされる頃には、彼女の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「これで……おじいさまを、助けられる……!」
俺は、その光景を静かに見届けていた。彼女の努力が、ついに報われたのだ。
花を摘み終えたエラーラは、一刻も早く祖父の元へ帰ろうと、急いで下山を始めた。その足取りは、登ってきた時とは比べ物にならないほど軽い。
俺は、彼女より一足先に小屋へと向かった。小屋では、アルフォンスが心配そうにベッドから身を起こし、何度も扉の方を見ていた。
「エラーラ……。無茶をしおって……」
彼の声は、後悔と不安に満ちていた。
やがて、遠くからこちらへ向かってくる小さな明かりが見えた。エラーラが帰ってきたのだ。扉が開かれ、泥だらけになった彼女が姿を現した。
「おじいさま! ただいま!」
「エラーラ! おお、無事だったか……! 一体どこへ……」
「見て! ムーンドロップ・フラワーよ! これさえあれば!」
エラーラは、リュックからガラス瓶を取り出して見せた。瓶の中で、花が神秘的な光を放っている。アルフォンスは、それを見て目を見開いた。
「まさか……お前、一人で月詠山へ……? なんという無謀なことを……!」
「ごめんなさい。でも、こうするしかなかったの。待ってて、今すぐ薬を完成させるから!」
エラーラは、休む間もなく錬金釜に火を入れた。彼女の動きに、もはや迷いはない。ムーンドロップ・フラワーを乳鉢で丁寧にすり潰し、他の薬液と調合していく。
釜の中の液体が、黄金色に輝き始めた。小屋中に、甘く、芳しい香りが満ちていく。
「……できた。ついに、できたわ……! サンペタル・デューが!」
エラーラは、完成した黄金の液体を、震える手で小瓶に移した。そして、それをアルフォンスの元へ持っていく。
「おじいさま、これを飲んで」
「……ああ」
アルフォンスは、孫娘の想いが詰まった薬を、ゆっくりと飲み干した。すると、奇跡が起こった。彼の全身が、温かい光に包まれる。消えかかりそうだった薄緑の魔力が、力強い若葉の色を取り戻していく。土気色だった顔に、みるみる血の気が差し、浅かった呼吸が、深く穏やかなものに変わっていった。
光が収まった時、アルフォンスは、まるで長年の呪いが解けたかのように、すっきりと晴れやかな顔でベッドから身を起こした。
「……なんと……身体が、軽い。長年わしを苦しめてきた病の気配が、完全に消え去っておる……」
「おじいさま……!」
「よくやったな、エラーラ。お前は、わしの誇りだ」
二人は、固く抱きしめ合った。小屋の中は、安堵と喜びに満ちた、温かい魔力で溢れていた。俺は、その光景に満足し、静かにその場を飛び立った。
数日後、俺が南へ向かって飛行していると、麓の街で何やら騒ぎが起こっているのが見えた。上空から【千里眼EX】で覗いてみると、ゲッコー商会の前に、王都から来たらしい立派な鎧の騎士たちが集まっていた。
そして、ゲスな商人ゲッコーが、顔面蒼白で兵士に縄を打たれている。どうやら、病が完治したアルフォンスが、彼の悪事を王都に報告したらしい。元宮廷錬金術師の告発だ。王家も無視はできなかったのだろう。違法な薬の密売や、詐欺まがいの取引。彼の悪事は、次々と明るみに出たようだ。
自業自得というやつだ。実に、胸のすく光景だった。
俺は、森の方向を振り返る。あの小屋では今頃、アルフォンスとエラーラが、穏やかな日常を取り戻していることだろう。
さて、俺も先を急ぐとしよう。南の地平線には、今まで見たことのない、巨大な港町の影が見え始めていた。活気のある声が、風に乗ってここまで聞こえてくる。次は、どんな人間たちのドラマが見られるのだろうか。俺は期待に胸を膨らませながら、さらに高度を上げていく。眼下に広がる世界は、どこまでも続いていた。空を飛ぶのは、本当に気持ちがいい。特に、今日の風は心地よく、どこまでも運んでくれそうだった。
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