22 世界の色

 マノリア様が笑ってくれたのは初めてのことでした。


 それに動揺して、尻尾をさわるという提案を受け入れてしまったのかもしれません。

 心地良い感触です。一度指を埋めてしまうと、抗える人はなかなかいないでしょう。


 指先の感覚にぼんやりと浸っていたせいで、「好き」という言葉の真意も聞き逃してしまってとんちんかんな受け答えをした気がします。


 ――少し頬が熱いです。


「知りたいのは、神様のことでいいですか? それともわたくしのこと?」

 通り一遍の説教のあと、単刀直入に聞いてみます。


 マノリア様の耳が動きました。わかりやすい。椅子の上であぐらをかきながら足首のところで両手を揃えて聞いています。

「リベラのこと」

 子供みたいだと思いました。


「わかりました。そうですね――」


 しばらく考えながら、膝の上にある尻尾を撫でます。


「――わたくしの世界に色はありません」


「え。――え?」


「瞳を見てください」

「……あ。瞳の色。それは、なんとなく思ってた」

 見つめあう数秒。

 いつも彼女のほうが先に視線を逸らします。


「神の声を聞く前に起こった出来事で、わたくしの世界からは色が失われました」

「……うん」

「けれどそのおかげか、奇跡を扱えるようになったのです」


 もう一度うん、と頷いてマノリア様がこちらに身を乗り出してくださいました。

 何かとてもつらい告白をしていると思っているのでしょうか。それで親身になる姿勢を示しているのでしょうか。

 優しくありがたいことだとは思いますが、わたくしに必要なことではありません。無意味です。


「気にしないでください。祝福か、あるいは呪いか。どちらかを帯びているものには色がつくのです」

「……? ……そうなんだ」

「わたくしは、神官として必要な資質を得たと思っています」


 わたくしの色彩は失われて久しいです。普段、視界に映るのはほとんど白と黒の濃淡です。


 しかしマノリア様は違いました。出会ったそのときから。


「……今も」

「うん?」

「マノリア様には色がついています」

 黒髪と健康的な肌。まっすぐに見据える瞳の少し灰色がかった紫。細く丸い肩は肌が薄い場所の朱色を映しています。通った鼻梁は少年と少女を同時に想わせて。


「そうだったんだね」

 マノリア様が静かに目を閉じます。何か反省するように。どこか噛みしめるように。


「この街のこと……」

 伏せた目。長いまつ毛。視線が流れるように動いてわたくしを見ます。潤んだ瞳の薄紫の光沢は美しい。


「私のことも……。出会ったときから」

「ええ」


 わたくしにとっては呪いの元をたどるのは難しくありません。色がついている場所を追いかけていけばいいのですから。

 ただその感覚について説明しづらいのは事実です。


「……あ。じゃあ。あの……」

「はい。何でしょう」

「私にしたお化粧は?」


「それは、久しぶりのことで、楽しくなってしまって」

「口紅の色も思い出せた? じゃあ良かった」

「……ええ」

 身を乗り出したままマノリア様が微笑みます。今日二度目の笑み。

 本当は、もっと笑う方なのかもしれません。


「私も楽しかった」


 今もマノリア様の唇は色づいています。その血色は薄いほうなので、視線を奪われることはありませんが、そのぶん紅を引いたときのことを思い出します。

 ……柔らかさも。


「食べ物にも色がないの?」

「そうですね。聖別されたパンやぶどう酒なら別ですが」

「ふーん……。それだとおいしそうに見えないよね」


 少し思案してから、マノリア様は立ち上がりました。やっとわたくしの膝から尻尾が離れて、どこかさびしいような、ほっとするような。


 マノリア様はパン屋の袋を持ってきて、中に入っていたチーズのパンをわたくしに見せます。


「これも色がない?」

「ええ。ですが幼い頃の記憶となんとなくで、どういうものかはわかります」


「だったら、私のほうこそ、“あーん”ってしてあげたほうがいいんじゃない?」

 ……確かに。


 マノリア様が手に持つとパンに色彩が加わっています。残った祝福なのか、それとも彼女が囚われている呪いゆえか。どちらでも構いません。根は同じものですから。


「リベラのひとくちは小さいよね」

 言いながら小さくパンをちぎって。


「あーん……」

「…………」


 素直に従って。


 口のなかに滋味が広がります。小麦の香り。外側の焼けた茶色と中の白さ。発酵で含んだ空気の層もはっきりと見えました。


「おいしい?」

「――ええ」


「よかった。まだいるよね」

「…………」


 わたくしの沈黙を肯定ととったのか、マノリア様が再びパンをちぎって差し出してくれます。


 ……正直、色のついた食事はおいしそうで。

 抗うことは難しい。


「口、小さいね」

「むぐ……。そうでしょうか」

「可愛い。雛鳥みたいで」


 もう一度、さらにもう一度と口に運ばれました。

 お水も手渡されて――透明、という色の好ましさを思い出します。


「でも……うーん。ずっとするのは大変だから」

「……?」


 おもむろにマノリア様がわたくしの手をとりました。


 片手で掲げるように持って、整った鼻梁の前に近づけて――手の甲に軽く口付け。


 柔らかい唇の接触。少しだけ湿って――。


 戸惑うわたくしをマノリア様が一瞬、上目遣いに見ました。騎士のように口付けたまま。

 でも目線は妙に鋭くて、どきりとしたところで……。


 軽く肌を吸われたのを感じました。


「はい。これでどう?」

 切れ長の双眸。流して射抜くように。なぜか胸の奥が苦しいのを感じます。息をひとつ吐いて冷静になると、わたくしの手のまわりの光景に色彩がもたらされていました。


「……これは」

「いつも祝福もらうみたいに。私からあげることもできるのかなと思って」


 色が失われたはずの私の世界に、彩りが帰ってきました。

「……すごい」

 長くは保たないでしょうが、十分な感動がありました。たとえこの光景が呪いによる無意味なものであっても。

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