12 ふれるときの決まり事
「ごめん、正直に言うと、リベラ」
「はい」
「お化粧はいいんだけど、化粧落としが苦手で」
「苦手とは?」
「……口に入ると苦いから」
素直に告白してくれたのだから、笑ってしまうと失礼にあたるかもしれません。
「少しだけですから。大丈夫」
「うーん……。うん」
まだ納得しきっていないようですが、あからさまに拒否する気はなさそうでした。
「いいですか?」
「うん。リベラがしてくれるなら」
「はい」
少しばかりの悦に浸りながらまず櫛を取り出します。
「間近で見ると……獣人族の方の髪の毛の生え方は不思議ですね」
「うん。二重になってるから」
マノリア様は黒髪だと思い込んでいましたが、根本には銀に近い柔らかい毛があるようです。
櫛で髪を梳かし、一房だけ銀が表面に現れるように整えました。これだけでずいぶん印象が変わるでしょう。
「肌も綺麗ですね」
「リベラみたいに白くないよ」
下地を少しだけ整えて、唇に紅を。それから紙を食んでもらいます。
「……ん」
素直に紙を唇で挟む姿を愛らしく思いました。
紅の痕。そこに唇がついていたというしるし。鮮やかさがどこか懐かしくも感じます。
「そういえば」
「うん?」
「マノリア様は、犬歯が小さいのですね」
「……うん。私の氏族はみんなそう」
紙を挟む際に小さなそれが垣間見え、そういえば今まで強い印象がなかったことに思い当たったのです。
「犬じゃないよ。オオカミ」
「はい」
「……でも、肉食が得意じゃなくて。犬歯も小さい」
「そうなのですね」
氏族の遺伝的特徴なのかもしれません。
「……見せてくださいますか」
「え? うん。いいけど……」
マノリア様がわたくしに顔を向け、それから唇の端を手で持ち上げます。
「……ふぉれでいい?」
小さな犬歯が確かに見えました。
「ええ」
「安心しました。紅が糸切り歯についてしまうことはなさそうですね」
「あ、そっか。そうだね。ありがとう」
……例えばマノリア様の唇がどこかやわらかい場所に接触するようなことがあったとしても、犬歯が邪魔になることは無いでしょう。
あるいは噛まれるようなことがあったとしても痛くはないのかも。
ちょっとした確認を首尾よく済ませ、わたくしは化粧道具を片付けました。
二人で宿を出てすぐそばの酒場に入ります。
酒場で情報収集をするといっても、大したことをするつもりはありませんでした。
二人で向かい合って片隅の席に座り、なんとなく雰囲気を感じ取るだけです。
あるいはマノリア様なら、その目立つ耳で聞き耳を立てることができるのかもしれませんが。
「今更だけど、神官の格好のまま酒場に来てよかったのかな」
「食事だけでも良いと書いてありました」
「じゃあ私はお酒も少し頼む……。軍にいたころに教わったから。そうするのが礼儀だって」
「はい」
少し落ち着かない様子で座っているマノリア様を眺めます。
「今までは、情報収集はどのように?」
「こういう場所ではあまり。野良作業を手伝ったりとか」
酒場の喧騒。やはり平和そのものです。
席は狭く、わたくしとマノリア様の膝がくっついてしまうくらいですから、男性同士だと大股を開かざるを得ないでしょう。
「ごめん、当たってる」
「いいえ。この狭さですから」
女が二人。時折声をかけられそうになっているのですが、わたくしが神官だと気づくと引いていきます。あるいは、腕に覚えのある方はマノリア様の雰囲気で躊躇するのでしょう。
獣人族の剣士や戦士は精強で、かつ主人に忠実だと言われています。
「耳には何か聞こえてきますか?」
「大した話はないと思うけど……もうすぐ何か式典があるって」
「ああ、その掲示ならわたくしも見ました。ちょうど明日だったかと」
「そっか。行ってみる?」
「ええ」
会話を交わしながら座り直します。ずっと膝が触れていてあたたかい。
「リベラは」
「……?」
「怒るとほっぺがふくらむ」
「何のことでしょう」
言いながら少し自覚はあります。幼い頃にも指摘されたことが何度か。
マノリア様が微笑みます。
化粧のせいでその笑みは艶やかに見えました。
「この街は平和そうだねって言ったとき、ぷくって」
「忘れてください」
「ううん」
少しお酒が入っているせいかもしれません。マノリア様の表情が柔らかく、また緊張感も薄れているようです。頬の朱。
今までも安心してくれているものと思っていました。実際それは勘違いではないはずです。ただ、人の心にはたくさんの部屋があるのでしょう。
「リベラ」
何の用もないとわかる声色で呼んでから、マノリア様がわたくしの手に触れました。
「はい」
「……?」
あれ、という表情のマノリア様。
触れられたとき、わたくしがいつもは驚いて――きゃ、と声をあげて――しまう理由がわかりました。精強な剣士の性なのか、マノリア様は自然とわたくしの意識の隙をついてしまうのです。
触れようとしているのはわかっているのに、わたくしにはそれが防げない気がするし、どこか意識の外から触れられる感覚がありました。
今はお酒と狭さと雰囲気のせいでマノリア様の感覚が曖昧に優しくなっていたのでしょう。
「……もしかして怖がらせてた?」
「いえ。怖くはないです」
「ごめん」
「気になさらないで」
マノリア様もご自身で気付いたのでしょう。自分の手をまじまじと見つめます。お酒のせいなのか、少しだけ潤んだ瞳で。
「呼べばわかる?」
「ええ。それか見つめてくだされば」
「わかった。触れたくなったら、時間をかける」
恥ずかしい約束なのかもしれません。
でもわたくしたちにとっては大事な――。
「リベラ」
「……は、はい」
「手を……。手を。とり……」
「……」
「言葉で言うと難しい。手に、手を、重ねたい」
「わかりました」
テーブルの上。てのひらを上に差し出します。酒場の喧騒。誰も片隅のわたくしたちを気にしてはいません。
重ねられた手をあたたかいと感じました。
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