第13話「きみたちはふごうかく」

 より強烈な匂いが三階には充満していた。

 最上階ではあるものの天井がある分、匂いは逃げ場を失ってしまっているのだろう。


 道端に落ちている鳥の糞のような不快な香りに、嗚咽が反射的に出てしまった。


 さらに異様な要素は多く、何かが揺れる音と水滴が垂れる音が最悪な想像を強制的に働かせてくる。


 後から合流した四人も、鼻を押さえて苦しみだした。



「ちょっと待って、なあ何かない? ほら、あそこ」



 雷来は戻ろうとした俺たちの肩を叩き、展望台の外を指差した。三階にもなると、外から差してくる光はほとんど存在せず、そこに何かがあっても俺には何も見えなかった。


 一歩ずつ、一歩ずつ。俺は展望台に近づく。その都度、腐乱臭が徐々に増していく。



 一度振り返ったが、女子の二人は後方で傍観しているだけで、他の三人も恐怖で足がすくんでいるようだった。


 それでも俺は必死に足を動かし、悪臭に耐えながら塀の前に立った。


 塀の向こう側に何か大きな物が、風に吹かれてゆらゆらと揺れている。

 手を伸ばせばそれに届くだろう。だが、俺は指先を動かした瞬間に、それが何なのかわかってしまった。



「肉塊だ……」



 自然と口から言葉が漏れる。猛と和馬が驚いた声を上げて、俺の元へ駆け寄ってくる。



「は、ありえんやし」

「冗談は笑えねえぞ……これが、どう見ても……なんだ、これ」



 猛はぶら下がっている物を直接触りながら話していたが、あるタイミングで声量は尻すぼみになっていく。


 触れた手を硬直させ、青ざめた顔でじっと手のひらを見つめていた。



「……帰るぞ」



 猛の低い声が、ぼそりと聞こえる。


 もう一度ぶら下がっている物に視線を向けたことで、ようやくそれの正体がわかった。


 肉塊とさっきは称したが、そんなものではなかった。


 人間、そのものだった。暗闇に目が慣れてくると、その姿はより鮮明に映った。


 全身と口元がガムテープで固定され、死に絶望したような苦悶の表情を浮かべている。


 何より首が人の倍以上に長く、ペンキで全身が塗りつぶされていたのが、すぐに人間だと気付けなかった理由だ。


 さらに言うと、それは一つではなかった。陰に隠れるように、もう一つほとんど同じ大きさの肉体が、ぶら下がっていた。



 幸いにも後ろにいた女子の二人には見えていなかったため、俺たちはパニックにならず、冷静に思考を動かすことができた。


 この肉体を降ろそうにも、床からあまりにも離れすぎている。中学生六人でどうにかできる状況ではない。


 これまでとは違い、今回は明確に事件が起きている。そのため、俺は警察に通報しようとポケットからスマートフォンを取り出した。


 そのとき、肉塊から少しでも距離を取ろうと後ろ向きで後退りをしたせいか、足元に注意を払い損ねてしまった。



「うわあっ!」



 何かに躓いた俺は、勢い良く横に倒れ込んだ。


 バシャ、と水音が展望台に響き、耳障りな音を響かせる金属缶が中身をまき散らしながら転がっていく。



 何かに躓いた俺は、勢い良く横に倒れ込んだ。


 バシャンと水音が展望台に響き、カランコロンと缶が中身をまき散らしながら転がって壁にぶつかった。



 カーンゴロゴロゴロゴロ――カッ。何もないところで、音は不自然に静止した。



「……」

「ひっ……」



 全身が強張る感覚に襲われ、身動きが取れない。


 目線の先には、くしゃくしゃの白髪に覆われた年老いた男が缶を踏みつけて立っていた。


 お世辞にも清潔感があるとは言えない風貌にもかかわらず、和馬は迷わず男に話しかける。



「あ……すみません。すぐに出ていくので……これってスープですよね。……真偽ー! やーも謝れえ」



 そう言って和馬は、乱暴に俺の首を掴んで頭を抑えつけた。あまりにもその力が強かったため、視界が大きくぶれたが、その代償に俺は見てはいけないものを見てしまった。


 男がやけに隠そうとしている右腕。和馬はホームレスがスープを飲んでいたと解釈したようだが、俺にはそのとき真実がわかった。


 男の腕からだらりと塗料が滴り落ちた。その音は今まで聞こえていた水滴の音と一致していた。



「――っ」



 心臓の高鳴りと、カメラのフラッシュが奇跡的に重なる。恐らく、雷来が遠くから吊るされているそれと、男の姿を見ようとしたのだろう。


 老人の痩せこけた顔が、悪魔のように浮かび上がる。



「あなたはみにくいからください」



 魂のこもっていない声が男の口から発せられる。背後から絶叫と、半狂乱で階段を下っていく音が聞こえて、俺は何とか意識を取り戻した。



「……グ……ギ」



 絞り出すような声が、目の前で披露される。一瞬、背を向けて全力で逃げようとしたが、ある異変に気が付いた。


 和馬がいない。隣には腰を抜かして倒れている猛の姿はあったが、和馬は一目散に逃げたというわけでもなかった。


 目の前で、一人の男が宙に浮いている。それが和馬だった。



「クソ……がああッ!」



 猛は俺と目が合うや否や悪態をつきながら立ち上がり、男に向かって体当たりをした。


 が、男は銅像のように硬く、大柄な猛に体重をかけられているというのに、微動だにしない。


 苦痛に顔を歪ませている和馬を見て、俺は全身をバネのように動かし、首を掴んでいる男の手を引き剥がそうとした。



「だめ、きみたちはふごうかく」



 いくら力を込めようと、男の腕は金属のように硬い。



「いいから離せよ、このクソジジイ!」



 二人して暴言を吐いて足掻くが、男は不敵な笑みを浮かべるだけ。


 こうなったらやけくそだ。


 そう思った俺は、躊躇なく男の腕を噛んだ。血が滲み、どろりとした奇妙な感触が口元を伝う。


 ひんやりとした男の腕からは大量の血液が流れ出ていた。にもかかわらず、首を絞める力が弱まることはなく、むしろ力が増しているようだった。



「ください。ください。ください。ください」



 男は同じ言葉を繰り返し、俺が負けじと顎に力を入れた瞬間、男の声が聞こえなくなると同時に俺と猛の身体が宙に浮いた。



「がはっ」



 壁に勢い良く打ち付けられ、思わず声が出てしまう。投げ飛ばされた先が外側でもなければ階段でもなかったのは幸運だったかもしれない。


 背中が少々痛むだけで、まだどこにも違和感はなかった。



「……この野郎!」



 階段の方に投げ飛ばされた猛の怒声が響く。猛がドタドタと足音を鳴らし、次は殴ろうと拳を振りかぶりながら上がってきた。



「……どこへ消えた」



 しかし二人の視線がちょうど外れたタイミングを見計らったのか、老人と和馬の姿はいつの間にか三階から消えてしまった。



 二人でどれだけ三階を捜索しても男がいた痕跡は残されていない。


 一瞬、「今のは幻覚で和馬も他の三人と一緒に逃げたんじゃないか」と脳裏で囁かれるが、屋根にぶら下がっている二つの肉体がそのたびに現実だと突き付けてくる。



「……クソ、真偽! 急いで降りるぞ。下の奴らが襲われる」

「わかった」



 三階にいないというのなら、男はそのまま飛び降りた可能性だってある。ここからじゃ下の様子も見えないし、声も一切聞こえてこないのは異常事態だ。


 俺たちは階段を息を切らしながら駆け下りて、下にいるみんなの安否を確かめに行った。


 一階にたどり着いた直後、複数の光に顔面を照らされた。



「真偽! 猛も無事ね!?」

「ああ、和馬は見なかったか?」

「見てないけど……」



 先に逃げたヒナ、雷来、そして紫鏡の三人が不安そうにこちらを見つめる。


 相変わらず和馬の姿はここにもなかった。



「危なかったね」



 紫鏡は俺の目を見つめて、真剣な表情で呟く。


 こんな状況であっても、彼女の目はいつものように透き通っていた。



「な、なあ。俺のカメラ、見てくれ。この写真……」



 隅でカメラを眺めていた雷来が、両手を震わせながらモニターを俺たちに見せつけてくる。


 そこに映っていたのは、先ほどぶら下げられていた二人の人間の写真。



 片方は、褐色肌で頬の部分に剥がれかけの絆創膏がくっついている。もう片方は、どこか見覚えのある丸顔の少女。


 形の化け物になってしまった二人のそれ以外の部分は一切原型を留めておらず、俺たちはただただ目に焼き付ける以外の行動を取れなかった。


 あの日、二人が願っていたことを思い返す。


 美弥は「身長を伸ばしたい」と言い、聡美は「照屋美弥と仲良くなりたい」と言っていたのだ。


 どちらも――部分的にはだが――願いは叶っていると言える。


 これが、「願いを叶えるマリーさん」の効果なのか?


 ……こんなのが?



「もう……無理」



 我慢の限界を迎えたヒナが、口を押さえたが時すでに遅し。滝のように嘔吐物が彼女の口からあふれ出した。



「美弥……聡美……そんなことって」



 猛の声だけが反響する中、公園の外が少しずつ騒がしくなっていく。


 警察だ、誰が通報したのかわからないが、とにかくパトカーがこちらに向かってきているようだった。


 日常に少しずつ戻ってくるにつれて、それまではできなかった思考がゆっくりと動き始める。


 あの男は誰だったのか。そして和馬はどこにいったのか。……どうしてペンキで塗られていたのか。

 不可解なことばかりで、いくら考えたところで答えはでない。


 だから俺は――。



「ひっ」



 落下音。目の前を大きな物体が横切ったかと思えば、水しぶきが俺の顔面に飛び散った。


 赤い鮮血に染まる地面を見て、再び誰かの叫び声が上がる。



「……和馬」



 和馬の死体は白目を剥き、だらりと舌を垂らしている。首は折れ、全身の関節があり得ない方向に折れ曲がり、目元に乾いた涙の跡が残っていた。



「鞠井君。これからどうしようね。私たち」

「どうしようもないよ……」



 どんなときでも紫鏡は落ち着いているのはなぜだろう。


 いや、もうそんなことも考えたくない。


 俺は住宅街に鳴り響くサイレンを聞きながら、無言で目を瞑った。

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