第8話 力の研究、天耀の言葉



 黒羽が口笛をひとつ。

 空の高みから影がほどけたみたいに、黒い点が増え、羽音が重なって波になった。


 次の瞬間、艶のある大きな鴉が何十羽も旋回して、私たちの頭上に輪を描く。


「乗りや。東の実験場まで飛ぶで」


 黒羽が肩越しに言う。

 私は黒羽と一羽、天耀様と菊狐さんは別の一羽へ。


 ふわ丸は「お留守番ね」と撫でると、尻尾をぱたぱた振って見送ってくれた。


 ……可愛くていい子。帰ったらおやつ二倍にしよう。


 鴉の背は相変わらず安定している。


 眼下をゆっくり小さくしていく白龍の屋敷。


「落ちへんよう、脚のリングに足を引っかけとき」

「了解です」

「怖かったら目ぇつむっててもええけど」

「大丈夫。むしろ気持ちいいくらいです」


 雲の縁をなぞる頃、灰色の建物が眼下に現れた。

 錆びた鉄骨、崩れたガラス、屋上のタンク。


 真四角の建物は、周りだけが妙に空白になっている。


「着くで。ほな、降りるわ」


 黒羽の鴉がふわりと高度を落とす。

 コンクリの地面に影が揺れて、鳥が軽やかに着地した。


 そこは、廃病院だった。


 入口の自動ドアは割れて斜めに止まり、白かったはずの壁は煤けて苔の斑点が広がっている。


 ガラス片が光って、風が通るたびにどこかで金属が軋んだ。


「意外と……ホラーな場所ですね」

「ここは瘴気が集まりやすい構造なんや。ほんまなら取り壊すとこやけど、瘴霊が集まりやすいのを逆に利用して、実験場にしてるんや」


 黒羽が楽しげに、しかし手短に説明する。


 なるほど。

 確かに、空気が重い。


 天耀様が続けた。


「こういう場所があると、日本全体に瘴霊が散りすぎない。掃き溜めがあるほうが管理はできる」

「人間の五代家も、似た場所を運用してるやろ」


 確かにそんな話を聞いたことがある。


 白石家でもあったのかな? 私は知らないけど。

 割れた扉を跨いで、私たちは中に入った。


 廊下は薄暗く、地面に落ちた蛍光灯の破片が靴裏で小さく鳴る。


 皮膚の表面が、細かく逆立つ。

 冷たい霧を吸い込んだように肺がきゅっと縮む。


 瘴気だ。外より濃い。


「大丈夫か?」


 天耀様がすぐに問う。


「大丈夫です。私は呪力が多いので、昔から瘴気は平気で」

「ん、珍しいなぁ」


 黒羽が目を細める。


「普通は呪力が多いほうが、瘴気の流れも敏感に拾ってしもて、体調崩しやすいんや。頭痛とか吐き気とか出やすい。……美琴殿は、平気なんやな」


 え、そっちが普通なの?


 驚いて天耀様を見るが、彼もなんともなさそう。

 天耀様も私と同じくらい呪力が多いと思うけど。


 そんなことを私が考えているとわかったのか、彼はさらりと言った。


「私は術式で瘴気から身を守っている。これがなければ、一般の妖以上にダメージを受けるだろう」

「えっ、天耀様も?」


 黒羽が嬉々として頷く。


「つまり美琴殿は、体質か呪力の質か……何かが違う。ふむふむ。これは面白い。データ取りたいなぁ。脈と呼吸と皮膚温、あと呪の波形――」

「黒羽。まずは安全の確認が先です」


 菊狐さんがたしなめると、黒羽は「あ、せやな」と頭を掻いた。


 階段を下り、地下の検査室へ向かう。


 視界の端で黒い影が揺れた――否、揺れたのではなく、渦を巻くみたいに集まってくる。


 黒い霧が三つ。


 床に近い位置でうごめいて、次の瞬間、牙のある口と凹んだ目の形がにじむ。


「三体か。最初にしてはきついレベルやなぁ……」


 黒羽が唇をすぼめる。

 確かに瘴霊の中では強い。


 でも、私は一歩、前へ。


「大丈夫です」


 言葉と同時、三つの影がばらけて襲ってきた。


 右から来た一体の顔面に、踏み込みながら正面から殴る。


 影は砕け、霧散。


 左の二体目には、逆手で払うように。

 黒がほどけて床に吸い込まれた。


 三つ目は真上に跳びかかってきた。

 落ちてくるところに合わせて打ち込む。


 ぱん、と乾いた音。


 天井裏にまで散った黒い煙が、ゆっくり薄まっていく。


「……ふぅ」


 息をひとつ。

 肩の力を抜くと、黒羽が口を開けて、それから破顔した。


「ははっ、すごいな! いや、すごいどころやないで。手数、最小。無駄ないなぁ。まさかここまでとは」

「いつも通りですけど」


 私が肩をすくめると、菊狐さんが目を丸くして微笑む。


「本当に強いのですね。瘴霊化していた私を一撃で落とした時も驚きましたが、改めて拝見すると……納得です」

「菊狐さんも、やっぱり相当強いんですよね?」

「元長ですから、それなりに」


 さらりと言ってのけるの、かっこいい。


 そんなことを思っていると、空気の流れが変わった。


 廊下の奥――光の届かない曲がり角から、音もなく影が滑ってくる。


 さっきの三体より輪郭が濃い。


 その瞬間、天耀様がわずかに身を固くした。

 黒羽も、菊狐さんも、同じ反応。


「どうしました?」


 問いかけると、天耀様が低く答える。


「あれは……瘴霊化してしまった妖だ」

「わかるんですか?」

「ああ。人にはわかりにくいらしいが、妖にはわかる。普通の瘴霊と比べて匂い、雰囲気、すべてが違う」


 言われてみると、ふわ丸があのとき――菊狐さんが瘴霊化して襲いに来た時――どこかいつもとは違う反応をしていた。


 あれも、違いに気づいていたからか。


 黒羽が息を呑む。


「これは……若い個体やな。瘴霊化して長くは経ってへん。けど、厄介や」


 菊狐さんが小さく頷き、視線を天耀様に送る。

 天耀様は、私にだけ向けられた声音で言った。


「……では、美琴。頼む」


 その声はいつもと変わらない落ち着きなのに、どこか慎重さが混ざっていた。


 喉の奥がきゅっと縮む。


 ――できる、だろうか。


 私の拳で、また戻せるだろうか。

 菊狐さんの時は、たまたまだった可能性だってある。


 もし、戻らなかったら。

 もし、この子を……葬るだけになってしまったら。


 胸の奥で、躊躇がちいさく膨らむ。


 そのとき、そっと手が触れた。


 天耀様の手だ。

 彼の指先が、私の固く握られた手の甲の上で軽く止まる。


「天耀様……」

「美琴。心配しなくていい」


 瑠璃色の眼差しが、まっすぐに私を射た。


「このまま祓ってしまっても、この子は君を恨んだりしない。瘴霊化は、瘴気が体内で暴走している状態だ。意識は濁り、痛みは続く。解放は、救いだ」


 優しい声。


 けれど、どこか……天耀様自身に、言い聞かせているようでもあった。


「もちろん、私たちも恨んだりはしない。今が無理なら、また後日でもいい」

「……いえ、やります」


 自分の声が、意外にしっかりしていた。


 一歩、前へ。

 影は床に沿って低く、音もなく滑って襲ってくる。


 ――戻って。


 心の中で、そう呟いた。


 その子に届くかわからない言葉だけど、言葉を添えたくなった。


 深呼吸して……殴る。


 拳が届いた瞬間、黒い霧が内側からほどけた。

 黒が消えて、その場に残ったのは――。


 灰色がかった毛並みの猫。

 普通の猫より一回り大きく、尻尾が二本。


 金の瞳がぱちぱち瞬いて、鼻をひくひくさせた。


「……猫又」


 思わず、笑ってしまった。

 よかった。戻った。


 背後で黒羽が息をつく。


「まさか本当に……! いや、疑っとったわけやないけど、目の前で見ると信じざるを得へんわ。殴る直前で瘴気の波形が変わった? これ、測りたいなぁ……」


 ぶつぶつ言いながらも、歓喜が隠しきれていない。

 菊狐さんが胸に手を当て、ほっと微笑む。


「よかった……」


 天耀様が一歩、私に近づいた。


 その顔は、静かで――どこか安堵にほどけている。


「よかった。……ありがとう、美琴」


 声も、優しかった。

 途端に胸が熱くなって、私は視線を逸らした。


「い、いえ。いつも通り、殴っただけなので」


 にゃー、と鳴き声。

 次の瞬間、猫又が私に向かって跳びついてきた。


「わっ」


 両腕で受け止める。


 ふかふか。温かい。


 喉がごろごろ鳴っている。頬をすり寄せられて、笑いが零れた。


「よしよし。怖かったね。もう大丈夫だよ」


 尻尾が二本、私の腕に絡んでくる。


 ふわ丸とはまた違う毛質。

 柔らかくて、滑りがある。


 ああ、ここは、天国か……。


「――ありがとう」


 背後から聞こえた天耀様の声は、とても小さかった。


 でも、私の耳にははっきり届いた。

 何に対してか、は聞けなかった。


 ただ、私は猫又の頭を撫でて、目を細めた。


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