第五話 紅の執着
「もう、またそんなにお食事を残されて…。今度残されたらもうご用意いたしませんから。」
女官は皿を乱暴にかき集め、音を立てて盆にのせた。
私に冷たい視線を突き付けた。
「別に構いません…。」
「なっ…。」
思わず漏らした声は、自分でも驚くほど淡々としていた。強がりではない。本当に食べ物が喉を通らないのだ。
「ルシア様、そんなことを仰ってはなりませんよ。」
ソヨルは悲痛な顔で私を咎めたが、すぐに「ですが…、」と続ける。
「もう少し食べやすい物をご用意いただけませんか。お言葉ですが、見るからにお食事の栄養が偏っているように見受けられます。」
「なんで、この子の為に私たちがそこまでしなくてはならないのですか!?食べないのならこのまま飢え死にしたって自業自得でしょう!」
罵声が壁を叩き、私の耳に反響する。私はただ頭を下げ、声を殺して謝った。女官は舌打ちをして、重い扉を乱暴に閉めて去っていった。
「ルシア様…。」
ソヨルは震える手で茶を差し出した。
私はあの日以来、食べない。眠れない。急に泣き出したかと思えば、次の瞬間には怒りを爆発させるといった日々が続いている。自分がもう、自分ではなくなっていく。ソヨルは必死にその空虚を埋めようとする。だが、その姿を見るたび、胸が鋭く刺されたように痛んだ。
「今日であの子…、2歳になるのね…。」
窓越しにぼんやりとあの日と同じような青空を眺める。
ソヨルには一人にしてくれと懇願し、部屋を出てもらっている。
ノックが聞こえた。
「ソヨル?何かあったの?」
扉越しに尋ねると、扉が小さく開かれた。
「私を従者と間違えるなんて、心外ですね。」
「殿下…。」
青みがかった銀髪の青年が微笑みながら部屋に入ってきた。
「ですから、レグルスでいいと言ったでしょう。その呼び方じゃ兄上と区別がつきませんよ。」
「はい、レグルス様…。」
レグルス様は最近、私が貴族の娘に絡まれていたときに声をかけてもらって以来、こうしてときどき部屋に訪れる。
「今日はプレゼントを持ってきました。」
そう言って私の掌に置いたのは、宝石が散りばめられた箱だった。
「これは…。」
「口紅ですよ。あなたに似合うと思って。」
「そんな、高価なものを…。」
彼は笑顔を一切崩さない。その笑顔の下に一体何を隠しているのか、そう考えるだけで胸がざわついた。
「遠慮なさらず、兄上には口紅どころか何一つ贈ってもらえなかったのでしょう?こんなに美しいあなたに…。」
箱が開かれ、真紅の紅が露わになる。
レグルス様はそれを指先ですくい、わざとゆっくりと持ち上げた。
「あなたがこんなに心を痛めているというのに優しい言葉一つかけてあげられない…。そんな兄上に腹が立って仕方ない。」
レグルス様は私の唇に触れようとする。
私は慌てて身を引いた。
「おやめください…誤解を生みます。」
「誤解?」
レグルス様の声は穏やかだ。だが、その瞳の奥では黒い影がじわりと揺れていた。
「ならば、誤解ではなくしてしまえばいい。あなたは拒めない。」
背筋に冷たいものが走る。
「出て行って下さい…。」
「おや、随分初心ですね。仮にも一児の母だというのに。」
吐き捨てるように言うと、レグルス様は静かに立ち上がり、笑顔を崩さぬまま部屋を出て行った。
部屋には凍り付きそうなほどに冷たい空気が覆っていた。
とある冬の日。
私の身には到底信じたくない変化が起こっていた。
吐き気、倦怠感、眠気、めまい。極めつけは月の障りがこないこと。
約4年前の夏と同じだった。
「ルシア様…?大丈夫ですか…?」
ソヨルは心配そうに私の顔を覗き込み、侍医に診せようとする。私は、少し疲れているだけだからと頑なに拒否し、なんとか食事を胃に流し込む。
知られてはいけない。知られれば新たに宿った命はまた奪われてしまう。
今度こそは私が守らなければ。そんな思いは日に日に大きくなっていった。
「ねえ、あなたは生まれたい?」
湯が揺らめく浴槽の中で、私はこっそり話しかけた。
まだ、膨らんでもいない腹に話しかけたところで何も反応は返ってこない。
生まれるのを望んでいるのは私だけ…?
虚しさだけが胸に募っていく。
湯殿から出ると、ソヨルが苦い顔をしながら何かを見つめていた。
彼の目線の先を見ると、小さな小瓶がいくつか並べられていた。
「何、それ?」
「これは…よく眠れるという薬です。」
「そう。それなら試してみようかしら。」
「駄目です!」
ソヨルの顔が険しくなる。何故かと問うと、耳を疑う答えが返ってきた。
「この薬は、飲んだ人を深い昏睡状態にする作用があります。最近この薬を使用して女性に乱暴をする事件が相次いでいるんです。」
「え…?何でそんなものが私の部屋にあるの…?」
「レグルス様があなたにと贈られたものです。すみません…必要ないと言ったのですが無理やり渡されてしまって…。」
「なっ…。」
信じたくはなかった。あの笑みの裏には暗く深い闇が隠されていたのだ。
深く抉られた胸の傷が鋭く痛んだ。
(あの人は…私をどうしたいの…。)
ただ嗚咽を漏らすことしかできない私の背中をソヨルは一晩中さすり続けた。
日に日に心は鉛のように重くなっていく。
何度もソヨルには打ち明けようか悩んだ。ソヨルはきっと私を救おうとするに違いない。また、以前のように私以上に悩んで、心を砕いてくれるだろう。
だが、私はそれを望んでいなかった。彼を傷つけるくらいなら、腹の子とともに消えてしまった方が遥かに良かった。
――とある晩
「ルシア様、もうこれ以上ここにいるのは危険です。どうか、逃げて下さい。もうこれ以上、傷つかないで…。」
縋るような声だった。
ソヨルはその晩、初めて私を抱きしめた。
胸板の熱が頬を焼く。心臓の鼓動が、私のものと重なって轟く。
張り詰めていた何かが決壊し、私は声をあげて泣いた。泣いて、泣いて、彼の胸を濡らし続けた。
―私はソヨルの為、この身に宿った新しい命の為、この檻から逃げる決意を固めた。
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