花天月地【第84話 剣傷に触れる】

七海ポルカ

第1話



 徐庶じょしょが窓から入って来ると、雪が一緒に吹き込んだ。



 左腕が使えない陸議りくぎが徐庶の上着を取ってやろうとしたので、書を読んでいた司馬孚しばふが慌ててやって来て代わる。


伯言はくげんさま、わたしが」


 陸議が頷いて、布を持って来た。


「雪がこんなに降り積もって」


 暖炉の前に徐庶を連れて行った。


「着替えてください、徐庶殿。これでは風邪を引いてしまいます」


「ありがとう」


 徐庶は濡れた衣を脱ぐと体を拭き、司馬孚が持って来てくれた新しい衣に着替えた。

 陸議は火から離していた小さな鍋を火に近づけて湯を沸かし始める。


「これを上から。髪も乾かさないと」


 司馬孚が毛布を抱えて来て、暖炉の前に座らせた徐庶の肩に掛けた。

 わしわしと雪が降り積もって濡れた徐庶の髪も、別の布で拭いてくれる。

 あっという間に温かく世話をされた徐庶は火の側で瞬きをした。


 勝手に砦を抜け出して、怪しい動きだと警戒されていると思ったのに、陸議が普通に出迎えたのさえ意外だったが、司馬孚しばふも全く自分が戻って来ると思って疑っていなかったらしい。


「こんなに冷えて……一体どこで動けなくなってらっしゃったんですか?」


 司馬孚が言った。

 鍋を見ながら、陸議も心配そうに徐庶を見ている。

 何となく、徐庶はおかしくなってきて笑ってしまった。

「?」


「いや……。……どこかすら分からない場所で」


 ずっと彷徨さまよっていた。


「よく帰って来れましたね。朝になっても戻らなかったら、さすがに人をやって探しに行こうかと伯言さまと心配していたんです」


「徐庶さんは涼州の地理に明るいようでしたし、山歩きの経験も相当でした。

 遭難して迷うことはないから、馬が何か動かなくなったとかで……それでも狩猟小屋とかに避難して、雪が止むのを待っていらっしゃるのではないかと」


「遭難はせずとも、賊や猛獣に襲われて手傷を負ってるのではないかと心配しました」


 司馬懿しばい賈詡かくなら、まず徐庶の離反を疑うところだ。

 この二人は遭難や猛獣との遭遇を一番に心配するんだなあと徐庶は笑ってしまう。


「笑い事じゃないですよ。徐庶殿。本当に心配したんですから。

 私の友人にも山中で熊に襲われて背に酷い傷が残っている者がいました。

 噛まれた途端、痛みと驚きで足を滑らせて斜面から落ちて、運良く逃れられたそうですが。落ちて足も骨折したと聞きました。

 あんまり言うと伯言さまが益々心配なさるので今まで黙っていましたが、帰って来られたので今は言います。熊を侮っては絶対に駄目です」


「熊に遭遇したんですか?」

「いや……してません」

 

 笑いながら徐庶が否定すると、陸議と司馬孚が顔を見合わせて安心している。


「ほら、やっぱり今の時期は熊も冬眠してるんですよ」

「はい」


 陸議は沸いて来た湯を片手で椀に入れた。

「沸いているので、気をつけてください」

「ありがとう」

 徐庶は椀を両手で受け取った。

叔達しゅくたつ殿もどうぞ。体が温まります」

 徐庶の髪をあらかた拭き終わって、布と、彼の衣を暖炉の側に広げて干している司馬孚にも陸議が湯を入れると、嬉しそうにそれを受け取った。


 徐庶は部屋を見回した。


 陸議の寝台の側には地図があり、

 司馬孚しばふの寝台の所には書が積み重なっている。


「お二人とも、こちらに来て温まって下さい。

 まさかこんな夜更けに出迎えて下さると思わず、のんびり戻って来てしまった。

 お詫びします」


 徐庶が暖炉の側を少し避けて座ろうとしたが、

 司馬孚が「貴方が一番冷えてるのだから真ん中ですよ」と徐庶を押し戻して、彼の右に座った。

 その様子に陸議も笑いながら、徐庶の左に座る。


「待ってて下さったのですか」


「私は最近昼間に寝すぎて昼夜が逆転してしまって。

 すっかり夜は眠くなくなってしまいました」


 陸議がそう言うと、司馬孚は胸を張る。

「私は元々、夜更かし好きです」

 声を出して徐庶が笑った。

「すみません。お二人に何も言わず出て行ったりして」

 徐庶を間に左右に座った二人が、顔を覗かせて見合わせる。


「……いえ……それは全く良いのですが……」

「どうかされたんですか?」

「ふと夜中に目を覚ましたら徐庶さんの姿が無くて……すこし驚きました」


 そう言った陸議の方を見る。

 陸議の琥珀の瞳が火に照らされて、明るく輝いていた。


「実は、役人に追われてたことがあったので、私も不意に夜中に目覚めることがあります。

 虫の知らせというわけではないですが、そうなるとその後、一睡も出来なくなる。

 涼州騎馬隊が南に去り――、

烏桓うがん】も消え、

 雪が深く積もって、夜襲の可能性が低くなった今になって、不意に気持ちが緩んでその悪癖が。夜風に当たろうとつい外に出て」


「それは全然構いませんが……徐庶殿、思いつきで馬に乗って山の方まで行くのはどうかと……危ないですよ」


祁山きざんの陣の明かりが見えたら引き返してこようと思ったんですが、この雪で目測がずれていたようです。随分北に行ってしまって」


「……前から思っていたんですが、徐庶殿はそんなにのんびりした感じなのに、あの曹仁そうじん将軍の【八門金鎖はちもんきんさ】の陣を見て、よく仕掛けてみようと思われましたね。なんだか信じられません」


 司馬孚しばふが不思議そうに首を傾げている。


「確かに……徐庶さんが向こうから仕掛けられたならともかく、自分から仕掛けられるとは意外です。当時曹仁将軍に、劉備りゅうび軍の追撃の気配は無かったんですよね?」


 陸議もそんな風に尋ねると、徐庶は笑って頷いた。


「ありませんでした。当時陣は守備の形をしていたから。築城目的だったみたいです」


「劉備殿に命じられたのですか?」


「いえ。何も命じられていません。

 私が当時自ら仕掛けたのは、陣を破ることが最大の目的では無かったからです。

 目的は、軍師を持っていなかった劉備殿に――軍師を側に置き、持っている戦力を的確に動かせば、寡兵でも敵の陣を破れるのだということを知っていただくことだった。

 陣は確かに破りましたが、国軍を率いていたら決して同じことはしません。

 流浪の軍だからしたことです」


「……流浪の軍か……」


 司馬孚が少し、考えているように呟いた。


伯言はくげんさま」

「はい」


「私は……今回の涼州遠征が初めての従軍になります。

 軍人として未熟な私が、兄上の計らいで思いがけず軍の高い所から全体を見下ろすことが出来て、少しだけ軍というものがどういうものか捉えられた気がします。

 私は今まで蜀を得るまでの劉備軍を、流浪の軍ゆえ弱い存在だと思っていました。

 でも今ではこうも思います。

 流浪の軍だったから、彼らは強かったのではないかと」


 陸議は優しい表情で司馬孚を見た。


「劉備が成都せいとを得て、国となった。

 これをより手強くなったとも見て取れますが。

 守るものが増えて、劉備軍は不自由になったのでは」


 本拠地を持つことは戦場の強みだと、周瑜しゅうゆが言っていた。


 袁術えんじゅつから孫策そんさくが独立した時、彼は自分の領地がなく彷徨う軍団だった。

 本拠地や領地が無いと、いくら優秀な兵士を連れていても彼らをちゃんと休ませることすら出来ない。

 物資も蓄えられず、その日限りの暮らしを繰り返していかなければならないのは、紛れもない軍としての弱みだと。



『だが守るべき領地や領民を持たないあの頃が、一番恐れを抱いていなかった』



 楽しかったな、と孫策が側で笑う。



「守るべきものがあるというのは、強さ、弱さというより、

 指針になるということなのだと思います。

 自分の心が迷った時に守るべきものが、何をすべきか道を示してくれる。

 守るべきものがはっきりとあるだけで、尊いことだと私は思います。

 劉備が蜀の王となり、

 もし自分の国の繁栄だけを求めて生きるようになったら、魏の脅威ではなくなります」


 徐庶が隣にいる陸議の顔を見ていた。

 陸議は暖炉の中の火を、見つめる横顔だった。


「劉備の中には絶対的な漢王室への忠義がある。

 だから道を、見失わない。

 国を得ても、

 放浪していても。

 劉備軍の手強さは変わらないでしょう」


 司馬孚しばふは陸議の言葉を聞いて少しの間押し黙ったが、不意に目を輝かせて立ち上がった。

叔達しゅくたつどの?」

「伯言様の話を聞いていて少し宿題が出来そうです。考えを忘れないうちに書いて来ます」

 そう言って小さな机の側に座ると、何やら書き始めた。


「今月のお題は何です?」

 徐庶が司馬孚の方を見ながら、笑いつつ尋ねる。

「故郷の冬を詠うのだとか」


 司馬孚の属する私塾の集まりは【赤壁せきへき】後は各地に混乱が広がり、友人達は集まれていないらしい。

 しかし文で頻繁に遣り取りをしていて、月ごと、季節ごとのお題が溜まって行っている。

 今度皆で集まる時は山のような数の詩を批評することになるので、数日ではとても済まないと笑っていた。


「そんなに仲がいいのなら、久しく会えないことは寂しいでしょうね」


「そうだと思うのですが、そうでもないようなのですよ」

「?」

「書くものと筆があれば、文になる。

 方々から不意に宿題の進捗状況を尋ねたり、助言をくれと文が届いて、楽しいらしいのです」


「はは……」


「我々は筆と書くものがあれば、孤独とは無縁ですよ」


 聞こえていたらしく、司馬孚が楽しそうに答えた。


「冬は、雪や動植物の息吹が小さくなるのが寂しく、同時に風流なので、

 故郷の冬にしても、侘しく詠うか、楽しく詠うか、そこがまず悩みどころなのだとか」


「あの顔では、司馬孚殿の冬は楽しそうだ」


 胡座を崩し、片膝を立ててそこに徐庶は頬杖を突いた。

 そうですねと陸議も笑っている。


 揺らめく火を眺める。

 徐庶は幼い頃貧しかったので、勿論冬に暖炉も火鉢もなかった。

 ただ寒いだけで、隙間風を減らすために家の隙間に土や布を挟んだものである。


 畑にも、野山にも緑がなくなって、

 殺風景になるのが嫌いだった。


 しかし時折、雪が積もった。


 涼州のように家を潰すような豪雪ではなかったが、

 それでも一面が、雪一色になることが年に数回あった。


 雪が積もると、

 貧しい土地も、

 貧しい家も、全てが等しく雪に覆われて、

 別の世界のような光景になるのが楽しかった。


 雪が外に降り積もっても、

 家の中で、火をつけ温まれるなんて幸せだ。


「……謹慎を言いつけられて、それをいいことにフラフラと外を出歩いてしまったけど、大丈夫だったかな」


「はい。この数日砦は穏やかでした。

 張遼ちょうりょう将軍も目を覚まされたから、軍医たちも久しぶりに安心出来たようですし」


「そうか、よかった」


徐庶じょしょさんの謹慎は、心配しないでもじきに解かれるだろうと、郭嘉かくか殿が言っていました」

「郭嘉殿がここへ来たの?」

「あ、いいえ……ここへ来たわけではなく私が……」

 陸議は説明しようとして、どこから話せばいいのか一度考えた。


「私が昨日の夜中、黄巌こうがんさんに会いに行ったんです」

風雅ふうがに?」

「はい。あの……別に目が覚めてしまったついでで……大した意味もなく」


 目を瞬かせていた徐庶が、小さく笑んだ。

「そうか。気にしてくれたんだね。ありがとう」


「いえ、傷が痛まない時以外は退屈されてるようだって徐庶さんが言っていたので……それに、虜囚ではないからすぐに会えると聞いていましたから」

「退屈してただろ」

「実は会わずに帰ってきたんです。すごく人がいたので」

 笑っていた徐庶が、ふと笑みを消した。


「警護の兵でした。でも郭嘉殿が、黄巌こうがんさんの監視ではなく、巡回行軍から帰還された龐徳ほうとく将軍の為の兵だと言っていました。近くの部屋にいらっしゃったようで。

 それに厳重な雰囲気ではなかったです。

 人はいましたが、空気はそんなに張り詰めていませんでしたし」


「そう……龐徳将軍が帰って来たんだね」


 言いながら徐庶は、黄巌の監視を郭嘉が強化したのだと気付いた。

 龐徳は確かに虜囚だが郭嘉はすでに逃亡の意志が無いことを見抜いている。

 だから巡回行軍にも出したのだ。

 見張りの強化は間違いなく黄巌の為に行われた。


 由々しきことだ。


 郭嘉が黄巌が【馬岱ばたい】であるということにさして意識が無いならば、見張りの強化などはしない。

 司馬懿や賈詡は徐庶を信用していないが、今や郭嘉も自分を警戒していることが伝わって来た。


(だけど郭嘉殿は、構えた剣を全て使うとは限らない。

 例え首元に突きつけて少しばかり傷つけても、最後まで決断の余白は残す)


 見張りを強化したことは郭嘉にしてはあからさまで、明らかに徐庶に対しての牽制だということが分かる。

 郭嘉が本当に警戒したいならば、見張りは分からないように増やすはずだからだ。

 分かりやすく強化したことは、それが耳に入った時、徐庶がどう動くかを見ているのだと思う。

 郭嘉の意識がこちらに向いていることだけは分かる。

 それならば、まだ話しに行く意味は残っているはずだった。


(無論、話をして、俺が彼の興味を全く引くことが出来なければ、見張りは緩まないだろうし、会ってもらえることすらなくなるだろうが)



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