第2話


 

 徐庶じょしょが押し黙って、火を見ながら何かを考えている。

 陸議りくぎは彼の横顔を見ながら、こういう時、徐庶の中から自分の存在が消えて、

 一切彼の興味から外れていることをはっきりと感じるのだった。


(こんなに隣にいるのに)


 徐庶はよく陸議の存在を忘れる。

 他に大切なものがありすぎて、そのことを必死に考えているから意識が向かなくなるのが分かる。


 陸議は考え込んでいる徐庶を優しい表情で見つめた。


龐統ほうとうと少し似てる)


 あの人もよく、隣にいても心はどこか遠くに飛んで、側に無いことがあった。

 いつか自分が側にいることに気付いてくれないかなと、呉にいた時は思っていたけれど。

 結局【赤壁せきへき】までそれは叶わず、彼は蜀へと去ってしまった。


(でもあの【剄門山けいもんさん】の戦いの前夜に会った時は不思議と、龐統の心が側までやって来ていることを感じられた)


 そんなわけはないと思いすぎて長い間気づけなかったが。

 死の淵に横たわって廬江ろこうの夢を見た時、はっきりとあの時の龐統の言葉や、眼差しを思い出すようになった。

 そこに自分への思いがちゃんとあったことが、分かった。


 美しい、初めて見た龐士元ほうしげんの……整えた装い。

 暗い山中に射し込む月に、

 

 ……闇星やみぼしの衣が静かに瞬いていた。


(そうか)


 ふと気付いた。


 あの美しい闇星の衣は、自分に会うために着てくれた衣だったのだ。

 改めてそう気付くと、陸議の胸に強い感動が沸いて来る。


 あの衣、どうしたのだったか……と少し考え、龐統が助けた赤子を包んで持ち帰ったことを思い出す。


 あの赤子は蘇州しょしゅうの陸家に預けたので闇星の衣も、陸家にあるはずだった。


 炎を見ていた陸議は、静かに目を閉じる。

 微かに唇が綻んだ。


 不思議だ。


 最初は何のことか分からなかったのに、

 段々と分かって来ることがあって、

 最後に、

 全て手放したと思っていた龐統ほうとうの衣が、建業けんぎょうではなく、蘇州の陸家に辿り着いていることに気付いた。


 陸家と龐統など、何の縁もなかったというのに。


 ……そういえば。


剄門山けいもんさん】の戦いで龐統と死に別れる時、

 龐統が一瞬【陸康りくこう】の名を出したのだ。


 渦中のことであまり正確な内容は思い出せないが、そんなことは初めてだったのでよく覚えている。

 確か天と地の時間が僅かに歪むという内容の時に「お前と陸康のように」という言い方を龐統がしたのだ。




「……【例え星が死んでもその光は残照のように残り、照らす】……」




 ふと、考えに耽っていた徐庶じょしょは、隣の青年が突然何かを呟いたことで意識を引き戻された。

 見ると彼は器用に傷を負った左腕を垂らしたまま、片手だけで自分の膝に頬杖を付き、目を閉じていた。


 眠いのかな……そんな風に思い、徐庶は小さく笑ってしまう。


「陸議殿、もう眠いでしょう。寝台で眠って下さい」

 陸議は少し瞳を開いた。

「……昼間たくさん眠ったので、まだ全然ねむくありません」

「うーん……。あんまり説得力がない感じだけど……まあ、無理にとは言わないけどね」


「徐庶さんは……黄巌こうがんさんのお知り合いの方に会いに行ったのかなと少し思っていました」


「黄巌の知り合い?」

「大切な人がいらっしゃるんですよね。涼州の、あの庵のあたりに……」

 徐庶は陸議の横顔を見た。


「黄巌から何か聞いてる? 俺も、実は彼女に知らせは入れた方がいいかなと思って何度か風雅に怪我をしたって知らせに行こうかって言ってるんだけど、照れてるのか分からないのけど片想いだからいいとか言って教えてくれなくて……。いや、風雅が本当に連絡はいいよって言うなら、いいんだろうけど……」


「……彼女?」


 少し眠たげに睫毛を落としていた陸議がその一言に瞳を開き、徐庶の方を見た。


「黄巌さんの大切な方というのは、恋人のことだったんですか?」


「え?」

「そうか……そうだったんですね」

「恋人じゃないって言ってた?」

「あ……いえ。そうではなく。

 私が勝手に、説明を聞いて女性ではないと思い込んでいました」


「その人のことを、何か聞いた?」


「燃えた村の側で話した時に……少し話して下さいました」



『俺の愛する人も、君のように真っ直ぐな目を持つ人だよ。

 まだ若いのに、周囲の人が傷つくと何もかも自分が背負い込んで俺の前を歩いてくれた。 守ってくれてたんだ。

 守れない約束を、したことがない。

 守れないからしないんじゃない。したことは必ず守る人だったんだ。

 そのための才を持ち、努力もしていた。

 でもたった一度守れない約束があった時、

 その一度の弱さを否定されて、詰られ、壊れてしまった。

 俺は一緒にいることが辛くなって側を離れてしまった。

 逃げたんだ。

 だから俺は……同胞の敵だと、君をここで詰って攻撃する資格もないんだよ』



「……風雅ふうががそう言ってた?」


「はい。黄巌こうがんさんを守ってくれていたと仰っていたので、私は勝手に、ご家族か涼州騎馬隊関係の方かと……」


「そう聞こえるね。俺はそこまで聞いたことがなかった。

 離れたくないから側にいると言ってたから、好きな女性のことかと」



 ――――逃げた?



 黄巌はたった一人で涼州に残っていたのだ。

 従兄いとこである馬超ばちょうにすら言わず、名前さえ偽っていた。


 ただ徐庶が変だと思ったのは、

 黄巌こうがんは別に涼州の人々に己を偽っているわけではなかったからだ。

 彼はどこに行っても知り合いがいたし、

 昨日今日の仲間ではなかった。

 黄巌に対して、少年時代からの付き合いのような人々も多い。

 彼は涼州の人々に対して、自分の素性を偽っているわけでは全くない。


 たった一人。

 黄巌の素性をはっきりと知らされてなかった人間が、涼州にいる。



(馬超殿だ)



 彼に対しては黄巌は明確に自分の素性や消息を偽った。


「他に……何か彼は言ってたかな?」


「そうですね……確か、今ここで泣き喚くくらいなら、愛してる人の側を離れたりしなければ良かったんだからと」


 暖炉の木が少し崩れた。


「あの時黄巌さんからは嘆きより怒りを感じました。火を付けられた村の惨状に嘆くよりも、怒ってた。泣くより怒るほどにはあの人は強い方なんだと思います」


 君も一度くらい心の底から怒ってみればいいと言い放った郭嘉かくかの表情を思い出した。

 


 徐庶はあまり怒りの感情が浮かばない質をしている。

 怒りというより彼の場合、自分とは相容れない意見や行動に対しての不快感や不信というものは、怒りの感情ほど鮮やかではなく、もっと曖昧な色合いをしていた。


 これは昔からのことで、

 確かに徐庶は昔からあまり怒りの感情を強く抱いたことが無い。


 怒りを覚えることはあるが、それがあまりその後の形になって行かない感じだ。


水鏡荘すいきょうそう】で徐庶の素性に不満を覚える人間達に不審な目を向けられた時も、怒りよりここは豪族の子弟も出入りしているから、それはお尋ね者と同門にされるのは不本意だろうと理解が勝った。


 よく温和だと言われることがあるが、それも表現としては違う気がする。

 温和な人間はもっと、側にいる人間を安堵させられるものだ。


 徐庶は鮮烈な怒りは抱えなくとも、自身への不満や不信はいつも持っていたし、言葉に出来ない幼い頃からの、様々な鬱憤も間違いなく抱えていた。

 清々しい想いでないものは、この体の内に色々眠っている。

 

 温和とは違う。


 ただこの涼州遠征でも、様々な人間の怒りに触れた。

 特に記憶に残っているのが郭奉孝かくほうこうの、抜き身の刃のような鮮やかな怒りだ。

 洛陽らくようで「母親に会って来い」と言った時も、微笑みながらもその下で彼が怒っているのが分かった。

 

 冷静な賈文和かぶんかにも、先日涼州騎馬隊のことで怒られたが、

 普段は感情の波立ちを他者に見せない彼も、さすがに激すべき時を理解している男だと思う。

 賈詡かくが不信を抱かれながらも魏軍で重用されるのは、戦略ではなくああいった他愛の無い感情を時折見せ、それを周囲に自分を知らせる手がかりに残しているからだ。


 賈詡が本当に動く時は恐らく一切の感情を削ぎ落として、心を見せずに全てを行うだろう。


 司馬懿しばいの怒りの感情は、実のところまだ徐庶は見えない。


 涼州遠征においてすでに色々なことが起こっているというのに、あの男だけが一度も本気で怒りを見せていない。

 徐庶はそれに気付いていた。


 涼州騎馬隊の強襲を受けた時も、思い通りに行かないことがあっても、

 まだあの男は一度も怒りを露わにしていない。


 郭嘉が、司馬懿の信頼する副官である陸議を瀕死にした時でさえ、賈詡は激怒したのに司馬懿は怒っていなかった。


 徐庶は炎を見ながら、内心を見せない司馬仲達しばちゅうたつの姿を思い出した。



(……確かに彼は、見通せない、深い夜のようなものを内に持ってる)



 陸伯言りくはくげんが彼に忠義を誓うのは、そのあたりのことを感じ取ってのことなのかもしれない。


 そういえばそういう陸伯言も、涼州遠征の内で何度か怒りの感情を見せた。


 徐庶が休めと言い募った時と、


張遼ちょうりょう将軍に帯同した時)


 徐庶は感じ取れなかったのだが、彼自身があれは怒っていたからだと教えてくれた。



黄巌こうがんさんたちと一緒に行きたいと、願ってほしかった』



 それが怒りの理由だという。


 徐庶の願いを見抜いて、

 怒った。


 この人の場合、怒るのも他者の為なんだなあと思う。


 温和な人間というのは、きっと陸伯言のような者のことをいうのだ。

 彼の場合、自分自身の揺らぎを他者にぶつけない。

 不安や怒りを感じてもそれが表層に出るのは、自分自身が理由ではなく他者が理由だ。


 だから周囲の人間に、怒りや不安の理由が分かる。

 彼の真意が分からなくても、何のために彼が怒ったり泣いたりするのかが分かる。


 徐庶は剣を生業にしていた時も、あまり怒りが理由で人を斬ったことが無い。

 剣で相対する者や依頼される仕事には、常に怒りや恨みが伴っていて、徐庶はいつもそれを感じてはいたが、彼自身はどうしても怒りに身を投じることが出来ないのだ。

 

 同時に冷静な思考を保ったまま、怒りという手助けを得なくとも、

 散々に人を斬り捨てることが出来たところが、徐庶自身の一番の問題でもある。



 怒れる人間はある意味まともだ。

 怒りもせず、平気で他人を傷つけられる人間が一番危うい。



 ――黄風雅こうふうがの怒り。



 彼が怒った所を、徐庶は一度として見たことが無かった。

 魏軍の軍師として涼州にやって来て、再会した時でさえ彼は徐庶に対して怒りの表情を向けずにいてくれた。


 その黄巌が怒った。


 村が焼かれた時。

 そうした者に対して鮮烈な怒りを向けた。

 あの時慌てて陸議が徐庶を呼んだのは、その黄巌の怒りを鋭く察知したからである。


 恐らく殺気と表現していいものを。


 だが黄巌こうがんは自分の為に怒ったのではない。

 彼も側にいると、他者を安堵させられる人間だ。

 彼らは他者の為に怒る。



馬超ばちょう殿のための怒りか)



 涼州の村が焼かれたことで、それを知った彼がどんなに悲しむか分かったから。

 

 黄巌は平穏に暮らしたいと言って馬超と別れたという。

 

(だけど違う。平穏に自分が暮らしたかったんじゃない。

 風雅ふうがは、馬超殿に平穏に暮らしてほしかったんだ。

 だから別れた。

 自分がいなくなれば、最後の一族の生き残りも去り、

 馬超殿は一族の長としての重荷から解き放たれる。

 自分が共にいる限り、馬超殿は新しい可能性を模索出来ないと思ったから)


 ようやく黄風雅こうふうがの心に辿り着いたような気がして、徐庶は小さく息をついた。


 郭嘉と話し、

 黄巌が動けるようになったら、彼を自由にしてくれるよう頼まなければならない。

 

(いや……。もしかしたら郭嘉殿とは話し尽くしたのかもしれない。

 これ以上は言葉を交わす気は向こうにないかも知れない。

 彼が黄巌の警備を固めたのなら、一手は打ったということだ。

 至極分かりやすい一手を打ったから、あとは俺がどう出るかを見定めようとしている気もする)


本気で怒ってみせろと言われた。


 それを実行出来るかどうか。

 彼の興味はそれだけかもしれない。


 その時不意に、徐庶は服の袖を少しだけ摘ままれた。

 隣に座る陸議の方を見遣る。

 彼が徐庶の袖を指先で摘まんで、こちらを見ていた。


「……ん?」

「……。徐庶さんは時々、黙ってどこかへ行ってしまわないか心配になります」


 徐庶は瞬きをしてから、小さく笑った。

「そんなことはないよ」


「……徐庶さん。昨夜のことはともかくとして、何か心配事があったら話せるだけでいいので、話して下さると助かります。

 貴方は勝手な行動をする人ではないし、魏にやって来た理由は本意では無くとも、今では何か、魏軍に悪しき影響を及ぼそうなどと考える人ではないのはよく分かっています。


 私も、叔達しゅくたつ殿も……。

 貴方から何かを聞いたからと言って、それを直ぐさま密告して貴方の立場を悪くするようなことはしませんから。

 洛陽らくようの母君にも、無事に貴方に戻っていただくように努力すると約束しました。

 ただ黙っていなくなったりは、もうしないでください。

 

 ……黄巌さんだって……。

 

貴方の無事を心配している人間も、今はいますから」


「陸議殿……」


 陸議りくぎは徐庶の袖を離した。


「何かあったら話せることは話してみて下さい。

 力になれることなら、なりますから」


 陸議はそれだけ言うと、ゆっくりと立ち上がった。


 寝台に戻って行くので徐庶も立ち上がり、片腕が使えない陸議が寝台に横になるのを助けた。


「ありがとうございます」


 毛布を首まで掛けてやると、陸議がそう言った。


「……いや。俺の方こそ、ありがとう……」


 徐庶が陸議の寝台を離れて、暖炉の側に戻って来る。


伯言はくげんさまと約束されたのを今、私も聞きましたから。

 これでまた黙っていなくなったらその時は徐庶殿、私も怒りますよ」


 文字を書きながら、温和な性格の司馬孚しばふが穏やかな声のまま、そう言って来たので徐庶は笑ってしまった。

 向こうでも、小さな笑い声が聞こえた。

 陸議が笑っている。



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