第9話
ヘイトルの体が凍りついた。
空気が一気に冷え込み、心臓は胸の奥で太鼓のように激しく鳴り響く。
部屋を覆う濃い霧の中から、ひとつの女の姿がゆっくりと形を成していった。
その肌は灰色がかり、生きた石のようだった。
瞳は深紅に輝き、口からは細く長い舌がゆっくりと伸び出していく。
「……なるほど。私はあの娘を探していたのだけれど――」
囁くように、しかし禍々しい響きを帯びた声が続いた。
「もっといいものを見つけたみたいね……とても美味しそうなものを」
ヘイトルはごくりと唾を飲み込む。
エルの言葉が遅すぎる警告のように脳裏をよぎった。
――「悪魔は転移の力を持つ。」
体は逃げ出したがっていたが、頭は必死に働いていた。
もし本当に悪魔なら、情報を引き出せるかもしれない。
「お前……悪魔なのか?」
震える声を抑え込むようにして問う。
女の口元が裂け、鋭い牙が覗いた。
「そうよ。……あなた、悪魔のことを知っているの?」
ヘイトルは歯を食いしばり、素早くベッド脇に置かれた木剣を掴んだ。
「よく知っているさ。」
脆いとわかっていても、刃を構える。
悪魔は舌を蛇のように揺らしながら笑った。
「なら、もっと楽しめそうね。ご主人様に連れて行ってあげるわ。きっと喜ぶ」
不意に、その舌が鞭のように襲い掛かる。
だが次の瞬間、ヘイトルの体が勝手に反応した。
エルとの訓練で鍛えた反射。
素早く手首を返し、空気を切る鋭い一撃。
木剣が舌をはじき、悪魔の体が思わず後退した。
「……面白い」
低く囁き、次の瞬間、黒い爪を閃かせて飛びかかってくる。
ヘイトルは必死に剣を掲げる――。
だが、致命の爪が振り下ろされる直前、扉が轟音とともに開いた。
悪魔が一瞬、驚きで動きを止める。
その隙を逃さず、ヘイトルは木剣の側面を全力で振り抜き、こめかみを叩きつけた。
――バキィッ!
衝撃で木剣が裂け、破片が床に散った。
「グゥッ!」
悪魔が怒声を上げる。だが、その時。
背後から鋭い声が響いた。
エル。
彼女の口から、ヘイトルには理解できない不思議な言語が紡ぎ出される。
その一音ごとに空気が震え、肌が粟立つ。
意味はわからないのに、雷鳴のように心に突き刺さった。
次の瞬間、悪魔の体が炎に包まれる。
「アアアアアッ!」
絶叫し、自らの爪で焼け落ちる肉を引き裂こうとするが、炎は止まらない。
「やめろォ!」
咆哮をあげる悪魔に、エルが再び手を掲げた。
今度は鋭い風が部屋を駆け抜ける。
――シュパッ!
見えない刃が走り、悪魔の首が真っ二つに裂けた。
肉体は崩れ落ち、すぐに灰となって消え失せた。
部屋に再び静寂が訪れる。
窓の外では、二つの月が銀色の光を注いでいた。
ヘイトルはベッドに座り込み、荒い呼吸を整えながら、手に残った折れた木剣を見つめた。
「……危なかった……」
エルが駆け寄り、膝をつく。
「無事ですか?」
彼は彼女を見つめ、疲れ切った笑みを浮かべた。
「……ああ。君のおかげで」
その言葉を聞いたエルは、堪えきれずに彼を強く抱きしめた。
その肩はかすかに震えている。
「……結界を破って侵入された。間に合わないかと思った……でも、あなたが無傷でよかった」
その抱擁の温もりに、ヘイトルの恐怖は溶けていく。
二つの月に照らされながら――危機は去った。
少なくとも、今は。
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