第15話  『負け犬が救われた日』


 昨日、一度村に帰ったメメは、かなりの怪我だったミグローの手当てをした後、朦朧としながらも制止してきたミグローを振り払い、獣を駆使して追跡を始めた。

 そして実際、三つ隣の村にて誘拐犯とそのアジトを発見することに成功したのである。


 ――だが、開きっぱなしだった小窓からアジトに侵入した判断は軽率だったと言えるだろう。


「そんなに抵抗しないでよぉ」

「――く」


 みすぼらしい服に傷だらけの身体。下卑た見た目の男が下卑た笑みで首を傾ける。

 細長い廊下、その真ん中にて、メメは二人と一人の誘拐犯に挟み撃ちされていた。

 既にメメに逃げ場はなく、弱者をいたぶる悦びに男達は表情を歪ませている。

 小窓は男達の背だ。包囲を抜けるのも現実的じゃない。つまり、八方塞がり。

 伸びる無遠慮で汚らしい指が、壁に背をぶつけるメメの命に触れようとして――


 ――ドン、と大砲を撃ち込まれたような音、次いで衝撃が室内で爆ぜた。


「なんだ!?」と動揺する男たちの声と同時に、粉塵が一気に膨らみ室内を満たす。


「色々遅くなりすぎてごめん」


 突き破られた屋根から差し込む陽の光。

 照らされて立つ影は、聞き覚えのある声で。


「――助けに来たよ、メメ」


 一日ぶりに再会した友人は、すっかり覇気を取り戻した顔で、笑った。


   

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 

 そこからのカケルの活躍は一瞬だった。

 まず、突然の登場に固まる男たちの隙を見逃さず、縄を射出して締め上げると、


「なんだこりゃああ――っ!?」


 ともがく男達を足首から丁寧に拘束し、最後には「おかえし」と猿ぐつわまで嵌めて、自由を完全に奪い去った。

 そのまま男の一人が持っていた鍵を探し出すと、メメへ渡し


「トモリも最初に会えるのはメメの方が嬉しいだろ。ここは俺に任せて」


 と笑顔で送り出してくれたのだ。


 そんなわけで現在、メメは地下牢の鍵を握りしめ、地下階段を駆け下りている。

 踊り場で勢いよく方向転換すると、視界の下方に地下牢らしき鉄格子が見えた。


「トモリっ!」

「――メメっ?!」


 驚いた様子で反応するのは、間違いない、トモリの声だ。

 半ばぶつかるように鉄格子へと辿り着くと、メメは息切れも構わずに鍵を差し込んだ。

 開錠される鉄格子。横へ滑らせ空間がつながった瞬間、一心にトモリに飛びついた。


「よかったぁ……トモリぃ……」


「はは、まさかメメが来るなんて。イテテ、はは、おいメメ、力強いって。……助けてくれてありが、ちょ、イデ、つよ、イデデ、死ぬっ! テメェ馬鹿力なの自覚しろッ!?」


 蒼白なトモリを抱きしめていたメメだが、直ぐに我に返ると手を引いて走り出した。


「そうだ、カケルさんと、多分だけど男爵さんも来てるの!」


 階段を昇りながら援軍のことを説明すると、トモリが、うへえ、と辟易した顔をした。


「カケルも喜びのリアクションデカそうだしなぁ。俺、もう気絶しかけるの嫌だぞ」


「トモリのお望みだし俺もそうしたいのはやまやまなんだけど、そうもいかないっぽい」


 顔を上げると、階段の上でカケルが天を仰いでいた。その脇から影が顔を覗かせる。


「良かった。トモリ君、無事だったんだな」


 「男爵さん!」と再開を喜ぶメメだが、二人の雰囲気はどうもそれどころではない。

 「見ろよ」とカケルに促されて視線を追うと、穴の開いた天井の向こうに、空を背に宙に立つ男がいた。

 そのやつれた顔と無精ひげ、そして黒ぶちメガネは昨日見たばかりで。


「ラスボスさんの登場だ」


 不敵に笑うカケルが、メガネを掛け直しながらそう言った。


   

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 


 外套をはためかせ、翔はカケルを見下ろしていた。


「……正気なのか、お前」


 翔は信じられないものを見る目で表情を歪ませる。小さく、カケルは首を振った。


「いいや、どうやら俺は狂ってるらしい。散々遠回りしたけど、それは理解できた。理解できたからここにいる。――俺は、小説家を諦められないよ」


「何を――」


「場所を変えよう。ここじゃ人が多すぎる。男爵、メメとトモリ頼んだ」


 カケルが言葉を遮ると同時に、二人の横に二つの黒渦が生じた。それらはそれぞれカケルと翔を呑み込んで、渦の向こう側へと転送する。

 そこに広がっていたのはひらけた草原。見渡す限りに人はなく、草が呑気に揺れている。


「さて、これで二人っきりだ――っぶな!」


 改めて相対しようとしたカケルの足元の一部で、突然地面が盛り上がり、眉間めがけて高速でツタが射出した。

 首を捻って辛うじて回避する。鋭い風で頬が冷えた。

 カケルは大きく跳び退くと、追撃を警戒して地面に視線を落とす。

 盛り上がる兆候はないが、そこには不自然に四角い影が落ちていて――


「やべ――っ!」


 頭上、何処からかくりぬかれた地面の塊が、巨大な砲弾となってカケルに降り注いだ。

 隕石が衝突したような轟音と共に、衝撃が地割れとなって広がる。

 常人ならば間に合わない速度と体勢だ。しかし、今のカケルは常人ではない。


「いきなり喧嘩腰じゃん、死ぬかと思ったわ」


 と、収まっていく粉塵の中で、落とされた土塊の上にカケルの影が立ち上がった。


「話し合いって選択肢はあったりしない?」


「無い。言ったはずだ、抵抗すれば命をもらうと。もう分水嶺は過ぎたぞ」


「やっぱだめか。そりゃそうだよな」


 予想通りの返事に、カケルは小さく溜息をつく。もう、ぶつかる以外になさそうだ。


「いいぜ、わかった」カケルは拳を構えた。滾る戦意に歯を剥き出して笑う。


 伝えなければならない。カケルが何を思い出したのかを。なぜ今ここに立つのかを。

 そしてなにより。


「正直俺もお前のこと、一発ぶん殴らなきゃ気が済まねぇと思ってたんだ」


「――――」


 一触即発。翔の鬼気は膨らみ続け、今にもカケルを呑み込む勢いだ。

 だがそれはカケルも同じこと。拮抗する気迫で静寂が訪れる。


 開戦に、合図はいらなかった。


「――――っ」


 二人が動いたのは、殆ど同時だった。

 翔が手を振り上げるとともに、地面から立方体の土塊がいくつもくりぬかれ浮かび上がる。

 それは腕の動きに従って敵対者に襲い掛かり、防御態勢に入ったカケルが地面に触れるか否かというタイミングで、大地の砲弾は対象へと激突した。

 轟音と共に粉塵が舞う。先ほどの再上映のようだが、その後が違う。


「――何っ」


 うねる巨大な茶色い蛇が、粉塵から飛び出した。否、蛇ではない。自由自在に形を変える巨木だ。

 急速に成長しその太さと数を増しながらも、翔めがけて突進する。

 森の面積は加速度的に拡大していき、土壁を出して防御する翔の足元からも、木々の二の矢が襲い掛かった。

 が、翔はそれを強引に踏みつけ相殺すると、反動のまま宙へ跳ぶ。


「どうした。木を生やすだけでは攻撃にもならないぞ」


「――そりゃ、引っ掛け先が欲しかっただけだからな」


 答えるカケルの声は、既に粉塵の中にはいない。宙を舞う翔の背後だ。


「――っ!?」


 即座に視線を動かす翔だが、遅い。

 陣地形成、兼、目くらまし。

 翔が森に気を取られている間に、生える木から木へと縄を括りつけ、カケルは敵の死角へと潜り込んだ。

 状況は不意打ち、位置取りは完璧。横っ面が殴ってくださいとばかりに空いている。

 カケルが拳を握り、想像を乗せ力を籠めると、応じた腕の筋肉が爆発的に膨張して。


「まずは一発ッ!」


 全身の遠心力を乗せた一撃を、翔の顔面に叩きこんだ。

 鈍い音に確かな手ごたえを感じながら、カケルは縄を操り適当な枝へと着地する。

 重い一撃を食らった翔はそのままバランスを崩す――こともなく、まるでそこに見えない床でもあるように空中で着地し、首を左右に鳴らした。手応えに反して効いていない。


「この程度か。わざわざ縄で移動とは、力を取り戻しても使いこなせてはいないらしい」


「殴られた負け惜しみかよ……って言いたいとこだが、あいにく図星だ馬鹿野郎」


 次の策を練りながら笑うカケル。戦いの興奮から、口調が荒れている自覚があった。


「お前が必死にいれた一発も、この通りだ」


 言葉の直後、赤く腫れた頬から蒸気のようなものが出る。

 頬の腫れは大袈裟な蒸発音と共に数度の瞬きの内にひいていき、蒸気が消えるとともに完治した。


「治る『想像』ってことかよ。出来る気しねーな」


 愚痴を言うカケルの状況は芳しくない。初手の立方体の攻撃は森を壁にして防いだが、それでも防ぎきれなかった衝撃で身体の至る所に裂傷がある。


「これを食らえばわかってもらえるか?」


「――っ!」


 言葉と共に翔の背後に黒渦が生じると、間髪入れずに翔ごと巻き込む突風が噴き出した。カケルはそれを全身に浴びながらも、両腕と両脚の筋肉に力を籠めて体勢を支える。

 今更、鬱陶しい程度の風が何の役に立つのかと、そう思った時だった。

 風に妙な匂いが付いていることを、カケルの鼻が感じ取る。

 匂い、匂いだ。それもどこかで覚えがある。


 突風に服をばたつかせる翔が、人差し指と親指で空中をつまむ動作をした。

 戦いの刹那、一呼吸の隙間に、カケルの意識は過去を巡る。

 独特の鼻を突く匂い。人生で少なくない回数嗅いだ記憶がある。確かこれは、中学の時、化学室で――


「まず――っ!」


「――着火」


 つまみを回す動作と、視界を赤が埋め尽くすのは同時だった。

 赤が視覚を、轟音が聴覚を、熱が触覚を焼き尽くす。

 それは一瞬の出来事で、炎が生じていたのは一秒にも満たない。しかし熱波が肌を舐め、命を削り取るのに、それだけあれば十分だ。


「――っヅぁ」


 余熱だけで一呼吸ごとに肺が焦げる。神経に異常をきたしたのか、四肢の痙攣が止まらない。炭化した自分の肌から焦げ臭さを嗅ぎ取りながら、カケルは膝をついた。


「砂と水で自分を覆ったか。それに肉体に『強度』も付与しているな。もう少しギリギリまで削れる計算だったが、あの一瞬でよくやる」


 咄嗟の対策を分析しながら、翔が近づいてきた。

 その全身は焼けただれ、燃え尽きた肌の下からは筋繊維どころか骨も見えている。

 しかし、全身から噴き出す蒸気と共に、湧き出る筋繊維の一本一本が編み込まれ、再生した肌がみるみるそれらを覆い隠した。


「け、怪我治るのやめてもらえないかなぁ。モチベ下がるから」


「これが力の差だ。続けるだけ広がるぞ。お前の怪我も軽くない。もう諦めたらどうだ」


 その言葉を受けて、カケルは「はっ」と肺を絞るように笑った。


「殺すんじゃなかったのかよ。いちいち降伏勧告しやがって。ギリギリまで削れる計算、だぁ? 殺す気なんかサラサラありませんって言ってるようなもんじゃねえか」


 アドレナリンと痛みに呑まれながら、カケルは「舐めやがって」と好戦的に笑った。


「お前の言うとおりだよ。力を取り戻したって俺が出来ることは、所詮男爵かお前が使ってた力の真似事ぐらいだ。そんで俺が目の当たりにした力なんて精々――このくらい」


 獣の唸り声のように低く、笑みを孕む声と、鋭い眼光。

 怪訝な翔の表情がその意味の理解に達するよりも早く、じゃらり、と耳元で音が鳴った。

 それは魔の手。それはカケルと男爵にとって、屈辱と無力の象徴だ。


 ――刹那、首、腕、胴、脚。死角から伸びた数多の黒鎖が、翔の全身を絡めとった。


「しま――ッ!?」


 初めて焦りに顔を染める翔だが、既に全てが遅すぎる。


「お前が使えて、俺が使えねえ道理なんてねぇだろうがよッ!!」


 カケルは再度筋肉を膨張させ、拳を一発、翔の腹部に撃ち込んだ。


「――ッ!」


 消えていく黒鎖と共に、まだ怪我が残っているにもかかわらず、翔の全身から上がっていた蒸気がぱたりと消失した。それは、力の消失を意味していて。


「完全に封じ切ったってわけでもないだろうが――これでクソゲーは終わりだな」


 カケルは所々が焦げて強張った身体で立ち上がりながら、挑発的な目で笑った。


「――やってくれたな」


「自分がしたこと人にされて怒んなよ。因果応報だろ」


 殺気立つ翔は戦意を失っていない。やはり力を奪いきれなかった。それもそうだろう。


「俺のは所詮真似、完璧は無理だ。足りない分を工夫で補わなきゃ使い物にならない。だから――」


 言葉と共に、辺りの砂が舞い上がった。

 炎の防御時、カケルが砂に変えた周囲の地面がごっそりと持ち上がり、一つの意志に沿って形を成していく。

 出来上がっていく巨大な影は、見る者が見れば巨獣と対峙した砂の大蛇を想起するだろう。しかし、男爵のように独立した他者の動きをあそこまで正確に想像して操ることなど、カケルにはできない。


「――だから、俺ならする」


 カケルは細く息を吐くと、両の拳を構えた。

 その後方、カケルの背後に立つように出来上がった砂の巨大な影――人影もまた、同じように両の拳を構えていて。


「――何っ!?」


 独立した動きが想像できないのなら、同じ動きをさせればいい。

 周囲一帯を自身の影で呑み込む存在に、翔が目を見開いた。

 無理もない。巨人の大きさは翔が出した塔にも匹敵している。カケルが今まで見せたどの力よりも数段上の規模だ。


 巨人とカケルは数度、掌を開閉して動作確認をすると、腕を構える。


 ――動きのリンクした二人はその力を、眼前の敵へと狙いすましていた。


「この――っ!」


 焦燥に声を跳ねさせる翔が、立方体の土塊を射出しながら、二十は下らない大木の槍で巨人を余すところなく串刺した。対象の動きどころか、生命すら奪う暴威。

 ――だが。


「砂に効くわけねえだろうがッ!」


 吠え、風を切りながら勢いよく拳を振り下ろすカケルと共に、巨人も拳を振り下ろす。だが、その規模は比ではない。

 拳一つが、街一つ。

 そう錯覚するほどの質量が翔個人に向けられる。それも大きい分、動きが遅いなどということもない。

 巨人はあくまで忠実に、カケルが振るう拳の速度を自分の身体で再現する。

 巨体が速度を再現すれば、威力がどれほど膨張するかも知らずに。


「今のお前で受けきれるかぁッ!?」


「――く、そがぁッ!!」


 水、土、鉄、耐衝撃多層構造。

 翔が一瞬のうちに、膨大な壁と工夫を展開するのが見えた。

 しかし、小手先。叩き込まれる一撃は工夫では届かないほど存在の次元に差がある。


「――ッ!!」


 激突。

 振り下ろされた拳によって飛び散る轟音は、小規模ならば隕石すらも生ぬるい。

 生じた熱波が空気を炙り、衝撃で砂が、地盤ごとひっくり返したように宙に舞った。

 手をどかすと、拳の形にへこんだ砂の中で、半分砂に埋まった球体が目に入る。超小型シェルターのようなそれの、ひび割れた箇所から顔を覗かせるのは案の定、翔だ。


「引きこもってんじゃねえぞっ!」


 身を低く保ち、地面を撫でるように拳を滑らせる。

 カケルの脇を通った巨拳が、列車のような突風をまき散らした。近すぎる風に肩を穿たれ、右半身が丸ごと抉られたような痛みを覚える。が、拳は止めない。その代償を支払うだけの価値が、この一撃にはある。


「――ァァアッ!」


 巨人の拳は風だけで埋まる球体を掘り起こし、正面から穿った。

 衝撃は地面に逃がすことすらできず、全て後方への推進力へと変換される。

 砂の衝突とは思えない轟音と共に、球体は流星と見紛う速度で吹き飛んだ。

 そこにあるのは、確かな手ごたえだ。


「――ぐ、ぁ、ハァッ、ハァッ」


 膝をついたカケルの、脳と肉体がズキズキと悲鳴を上げる。

 後遺症だ。身に余る力の行使に、カケルの肉体が追いついていない。

 何度呼吸をしても酸素が取り込めず、じっとしても汗が止まらない。


「流石に、この規模は、やりすぎか」


 震える呼吸の隙間でカケルは笑う。ランガの時以来に感じる力の代償は、肺すら焦げているようなこの身体で背負えるようなものでは到底なかった。

 だが、力を使った側がこの有様なら、喰らった側はその比ではない。


「そうそう、それだよ。やっぱ敵の体力は削れないと戦いがいがねえよな」


 黒渦で球体の元まで移動したカケルは、球体から出てきた翔の姿を見て笑った。

 衝撃を受けきれなかったのだろう。体の至る所に裂傷を負い、口元を鼻血で濡らしている。


「……強がっているが、お前もいい加減限界だろう。もう身体強化が精々じゃないのか」


「またまた図星だよ。クソ、限界早くてまいったな」


「それはお前が未熟だからだ」


「はは、耳が痛い。――でも限界があんのは、お前も同じだろ?」


「――ぐ」


 指摘と殆ど同時に、翔が片膝をついた。黒鎖の後に残った力の殆どを、巨人の防御で使ってしまったらしい。

 荒い呼吸を繰り返す翔の顔を、大粒の汗がしたたり落ちる。


「強がってんのはどっちだか」


 カケルは乱暴に笑った。


「俺もテメエも、お互いガス欠寸前みたいだな」


 ここからは正真正銘、ごく小規模の想像と肉体へのイメージ付与のみの戦いになる。


「カケル!」


 遠くからの声と共に、足元に何かが刺さった。見ると、それは銀の細身を鈍く光らせる一振りの刀だ。

 声の主――男爵は黒渦から身体を覗かせながら、悪い笑みを浮かべた。


「やっぱり最後はそれだろ。バトル好き的には」


「――ああ!」


 その計らいに力強く答えると、カケルは刀を抜いて、その切っ先を相手へ向ける。

 見ると、翔も渦から刀を引き抜き、両手で柄を握り込んでいた。

 一対一。

 奇しくも刀による対決が、この戦いの終焉らしかった。


「――俺は、お前が理解できない」


 肩で息をする翔が、空いた手で乱暴に鼻血を拭う。


 ――その瞳には、憎悪の炎を宿していた。


   

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 

「――俺は、お前が理解できない」


 その言葉は、翔の本心から出たものだった。

 それは、今更対話をするつもりも無かった翔が、皮を裂かれ、肉を抉られ、背水まで追い詰められて、ようやく剥き出しになった本音だ。

 カケルの行動は、翔にとって到底理解できるものではない。


「どうして諦めなかった。この世界を見捨てても、お前に不利益はなかったはずだ」


「助けたいと思った。ここで見捨てたら、今までの俺じゃいられなくなる気がした」


「どうして助けてからすぐ逃げなかった。今のお前なら、俺に見つかるよりも先にこの世界から出ることだってできたはずだ」


「お前と向き合うと決めた。ここで逃げたら、今までの俺に戻る気がした」


「力が封印されたままなら、お前は助けに来なかったのか」


「いいや来た。力が使えなくても来た。助けようとした結果なら死んでもいいと思った」


「――ふざけるなッ!!」


 理解不能な発言に意識が熱を帯び、昂ぶりのままに怒号を飛ばす。自らの声量に堪えきれず、軋む身体が悲鳴を上げた。

 だがそれを聞くカケルは、へらりとした笑顔のままだ。


「ふざけてねえよ。夢に人生懸けようとしてる奴が、ここで命を懸けなくてどうすんだ」


「それが違うと言っている! 己の夢に全てを懸けられる奴がいたとしても、それはお前じゃないだろう! 空っぽなだけのハリボテが、自分を高く見積もるなッ!」


 叫び、踏み込みと同時に大地にひびが入った。それはかけられた力の証明で、踏み込んだ翔がふさわしいだけの加速を得たことを示している。

 カケルの瞳が目の前の影に焦点を合わせたころには、既に翔は刀を振り下ろしていた。

 瞬間、火花が散る。


「――ッ!」


 右手で柄を、左手で峰を抑えることでどうにか受け止めているカケルだが、その体勢は完璧には程遠い。

 押し切れば倒せる。

 翔が両腕の筋肉を膨れ上がらせると、受け止める掌に峰が食い込んでいく。カチカチと、拮抗する力に刃が震えた。


「――しっ」


 返ってくる力の増したタイミングを見計らい、翔は刀身を横に滑らせる。

 方向がずれ、力が空振った刹那を狙い、滑らせた刀身を敵のつばにぶつけるようにして弾いた。

 嫌な金属音と共に、カケルの左脇ががら空きになる。

 翔は横回りする体の勢いをむしろ加速させ、身を捻って踵で大きく円を描くと、その脇腹に回し蹴りを叩きこんだ。


「――が」


 口の端から血を零しながら吹き飛ぶカケル。

 空に目をやるが、跳ね上げたはずの刀はそこに無い。あの一瞬で辛うじて指先を届かせていたらしい。

 だが優勢なのは以前、翔だ。

 衝撃から数秒、カケルは粉塵の中から姿を現した。その姿は死に体で、弱々しく握った刀の切っ先で地面をひっかきながら、左右に揺れるように歩いている。


「……なんで立つ」


「死んでもいいっていっただろ」


「――ッ!」


 見るからに満身創痍のカケルはそれでもヘラヘラとした笑顔を止めない。

 妄言が神経を逆撫で、翔は瞳を赤く染めた。

 喉の奥から怒りが湧き出る。


「ふざけるなッ! 俺の人生は偽物だ! 将来を恐れたお前の妄想に過ぎない! だがッ! 俺の全てが偽物だったとしても、お前が夢に向き合っていないのだけは本当だ! お前書いてないんだろう。逃げているばかりなんだろう。その程度の、胸を張って言えすらしない夢に、命を懸けられるわけがないッ! 人生を懸けられるわけがないッ!」


 何故わからない。誰より知っているはずだ。カケルの醜悪さを。矮小な本性を。


「口ばかり達者で、夢ばかり大きくて、自分すら騙しきれないほど空っぽな毎日を送って、諦め方すらろくに知らない! 何も本気でやったことがない奴が、何かを為せるなんて誰が信じる! 誰よりお前が信じちゃいないくせにッ! 諦めろ、止まれ、何もないなら何もするな! お前はその程度の人間だッ! ――俺はその程度の人間だッ!!」


 カケルが憎い。

 翔が憎い。


 人生で体験したことがない程の怒りの発露に、堪えきれずに声が掠れる。

 それは二十数年間、意識の隅から翔を責め続けた言葉そのものだ。

 だが、カケルは変わらず、一歩ずつ、亀よりも遅く歩く。血と泥でまみれた両脚が震えているのに、その眼には炎が灯ったままだ。


 何故。

 ここまで追い詰め、言葉を尽くして、尚も進むカケルの姿は、まさしく狂人だ。

 同じ人間でありながら、何を考えているのか全く分からない。吹けば飛ぶような弱々しい姿が、翔には白獅子よりも怪物に思えた。


 恐怖を、抱いた。


 

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 神様、どうかお願いします。

 望みが一つかなうのなら――どうしても、忘れたいことがあるんです。

 こんなものいりませんでした。持つべきじゃありませんでした。

 もう何もいりません。これを捨てられるなら、他のすべてを失ってもいいです。


 全部なくして、なかったことにして――どうか、普通に生きたいです。



 ――岡田翔は、天に向かってそう祈った。



 

               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「――俺の人生を、あれを見たんだろ」


 震える声で、翔は小さく呟く。

 呟きながら、一つの記憶を思い出していた。


 ――脳裏に描くのは、この世界に来たばかりの時の記憶だ。




 気が付くと、翔は森の中で立ち尽くしていた。瞬きの前は自分の部屋にいたというのに、目の前に広がるのはまるで原生林だ。


『なんだ……?』


 あまりに脈絡のない状況が理解できず周囲を見渡すが、そこには風に揺れる森があるばかり。頭を抱えかけてそこで翔はようやく、光景以上の違和感に気が付いた。

 それは、内から湧き出る力の奔流。

 しかもその使い方を、翔は既に知っている。初めて出会い、何が出来るかも知らないが、どうやって使うかは知っている。

 まるで突然三本目の腕が生えてきたような奇妙な感覚を抱きながら、翔は衝動のままに『力』を振るった。


『――っ!』


 手をかざすと前方の空間に横一閃、白い光の切れ込みが入った。それは目のように上下に開き、どこかの景色を映し出す。

 そこに映っていたのは森の中を歩く二人組だ。

 一人は全身が黒一色で、顔の上半分にモザイクがかかっている。そしてもう一人は。


『――――』


 その人物の顔を見た瞬間、翔は全てを理解した。それは恐らく、本能のような何かだ。


『そうか』


 赤ぶちメガネを掛けた小柄な少年を眼にして、現状を本能で確信し、翔の声が震える。


『俺の人生は偽物で、俺なんて人間は、本当はいないんだな』


 その事実は、あまりにも。


『――よかった』


 震えた声で、心底の安堵が漏れた。堪えようもなく視界が滲んだ。

 一滴、また一滴と激情が瞳から零れ落ちる。震える声も、零れた涙も、抑えることは出来ない。


 それは、カケルが翔になるまでの十七年で、初めて訪れた救いだった。


 それなのに――


「――あれを見て、どうして自分の夢を信じられるッ! また繰り返すつもりかッ!」


 激情が喉を灼く。

 怒りが、焦燥が、とめどなく溢れる。


 ――『十年前なら問題なく通用したと思うんですが』


 脳裏に記憶がチラついた。あの絶望の本質は、今も変わらず残っている。


「十年早くやってれば、なんて意味のない仮定だ! お前は手遅れになってからしか動けない。最後にはああなる! 俺の人生を見て少し焦ってやる気が出ても、どうせそんなの長くは保たない。今までもそうだっただろ! 面白い作品を観て負けてられないと思った。成功者の言葉を聞いて奮起した。きっかけなら飽きるほどあった! だがそれでお前は何をした!? ちょっとメモしてパソコン開いて、それで終わりだっただろうが!」


 敗残兵は吠える。

 絶望に、後悔に、嚇怒に、吠える。


「――与えられたチャンスを全て自分で見過ごして、自分で自分の期待を裏切って、今のお前がいるんだよッ! きっかけなんて無駄だ。そのやる気は寝て起きたらもう無くなってるッ!」


 喉の奥から嫌悪がこみあげて仕方ない。目的も忘れて、それをただカケルにぶつける。

 効いていないはずがない。翔はカケルだ。何を言われて嫌なのか、一体どういう人間なのか、手に取るようにわかる。

 翔が放った一言一句、全てが心を抉ったはずだ。


 ――それなのに、カケルの瞳は熱を帯びたまま、真っすぐ翔を見据えてゆっくり歩み続けていた。


 全身に悪寒が走った。

 このままでは、カケルはきっと諦めない。諦めずに進んで、そして届かず、翔と同じ人生を歩んでしまう。


「……全力で目指して、それで無理だったら仕方ない。だけど、俺は二十年も手を抜いてた。小説家になりたいなんて夢はただの勘違いで、俺はいつまでも勘違いに執着したバカだった。せめて手を抜いたまま諦められていればまだマシだったのに、それすらできなかった。だから頼む。せめてお前は――ここで止まってくれ」


 乞うような、願うような言葉にも、カケルはただ無言で、歩み続ける。

 その歩みに、翔は絶望で顔を歪ませた。


「このまま進んだら、お前はそれで」


『俺もう、好きな作品とか、ないんだ』


「――それで全部、失うんだぞ。自分が夢だと勘違いするぐらい、好きだったものすら」


 きっと、本気で目指すと決めた人間は、皆それを覚悟していた。本気で向き合って、好きだったものが嫌いになるのも覚悟の上で、それでも彼らは進んだのだ。

 どこまでも能天気で、何の覚悟もないまま進んだのは翔だけだった。


 翔は物語を見るのが好きで、人生の全てがそれだった。

 小説家になりたいと思った十歳の時から、否、小説家の夢なんて関係なくとも、物語が大好きで、自分にはそれさえあればいいとすら思っていた。それを失ったのだ。


 今の翔には、もう何も残ってはいない。


「アレを本当に起きたことにしちゃだめだ……俺みたいに、ならないでくれよ……」


 尻すぼみの声は、もうほとんど枯れていた。

 怒りも嫌悪も願いも祈りも、吐き出せるものは全て吐き出した。もしこれで届かなければ、もう翔に打つ手は――


「ごめん」


 それまで沈黙を貫いていたカケルが、口を開いた。


「それでも俺は、夢を諦められない」


 縋る手を払う言葉と共に。

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