第8話   『夢のはじまり』


 神様、どうかお願いします。

 望みが一つかなうのなら――どうしても、忘れたいことがあるんです。

 こんなものいりませんでした。持つべきじゃありませんでした。



               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「うまく、いき、ました」


 額に汗を浮かべたメメが戻ってきたのはすぐ後のことだ。

 飛行は体力を使うのか、肩で息をし、呼吸の隙間からどうにか言葉を吐き出している。

 それに対してカケルが何か言うよりも先に、走ってきたトモリが飛びついた。


「すっごいじゃんメメ! アレめっちゃビビった!」


 変声期前の甲高い声を興奮に染めながら、小さく跳ねるトモリがスクリーンを指差す。


「正直舐めてた。ここまでとは思わなかった! 諦めろとか嫌なこと言ってごめんな!」


 謝りながら、トモリはそれ以上の笑顔を見せる。肩に腕をかけられて、メメが照れたように、へへ、と笑った。

 カケルもそれを穏やかに見届けたいところだが、そうもいかない。なんせ見えないのだ。


「男爵えもん、この犬どうにかしてよぉ」


「しまらないな」


 顔に噛みついた獣の対処に泣きつくカケルを見て、男爵が呆れたように肩を竦める。

 本題に入ったのは、男爵の手伝いによってカケルの顔面事情が解決した後だった。


「それで……」とメメが切り出す。ミグローの様子を伺うが、押し黙ったままだ。


 勝負はまだ完全に決したわけではない。指輪は鳴らしたが、それがイコール勝敗ではないのだ。

 あくまでミグローが認めなければ勝利にはならないと、カケル達に緊張が走る。


「……虚を突かれたのは認める」


 メガネの位置を直すミグロー。その言葉は言外に、好意的ではないと伝えていた。


「村の老人すら上回る知識があることも認めよう。だが、まだ私を感心させていないぞ」


「ぐっ……ミグローさん、指輪うるさかったくせにーっ!」


 冷静に言い放つミグローは、カケルの野次にも表情を変えない。


「あれはただの大道芸でしょう。私が言っているのは実利の話だ。メメが獣遣いを目指しても一人で生活していけるほどの実利があることを、私に示さなければ意味がありませんよ。それともまさか、大道芸で暮らしていこうとしているわけじゃないでしょう?」


 痛いところを突かれ、カケルは言葉に詰まる。

 確かにカケルの思い付いた策はインパクト重視のものであり、実用性は見いだせない。

 これだけの知識は何かに応用できる、という意見も通らないだろう。具体的な応用の仕方を考え、それを実演して見せろというのがミグローの主張だ。

 何も思い付いていない現状、実用性がないことに間違いはなかった。


 ――だがそれはあくまで、カケルの策においては、の話である


「実利ならあります」


 ミグローの指摘に、芯の通った声が答えた。部外者のカケルの出番は終わりだ。ここからは正真正銘、獣遣いを志す、一人の少女の戦いになる。


「来てください。見せたいものがあります」



               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 時は少し遡る。勝負の数時間前、メメとカケルと男爵の三人は森の中を歩いていた。


「メメ、今の話ってマジ?」


「はい、間違いありません」


 訊き返すカケルに、メメは力強く頷く。次いで、自身の発見の説明を始めた。


「最初におかしいと思ったのは、ちょうどカケルさんたちと出会った時でした。前にも説明しましたが、あの時、私は白獅子が反応を示す花を探していて、それを見つけた結果、追われることになっちゃいました。でも、あの時点でおかしかったんですよ。私はすぐ花を手放したのに、白獅子は私を追いかけ続けていたんですから」


 花を思い出すように、メメは自分の掌を見つめた。


「あの時の白獅子は明らかに殺意があった。でも、なぜ? 最初は花に興奮作用があるのかと思いましたが、それならやっぱり、手放した後は匂いの濃い花の方を追うはずです」


 あの時の一幕を思い出すように、メメは遠くを見ていた。


「ドカシムシバナが崖の目印として落ち草を目指したように、獣さんの行動には合理的な理由がある。でも、どう考えても白獅子にはそれが見当たりませんでした。……そこから考えて考えてようやく、あの時の殺意の正体に気が付いたんです」


「餌ですよ」とメメは言った。「餌として、私は狙われていたんです」


 男爵がシルクハットのツバを握り、不可解そうに考え込む。


「待ってくれ。白獅子が合理的だというなら、それこそおかしいだろう。そもそもあの時は――」


「あの時は、私以外の獲物もいくらでもいた、ですよね」


 メメが言葉を引き継ぎ、頷く。


「その通りです。あの時、あの湖にはたくさんの獣さんがいて、白獅子はそれを逃がしてでも、殺気を振りまいて私を追いかけました。身体の大きい白獅子はただでさえ大量の食糧が必要で、こと狩りに関して、そんな不合理をするわけがないのに」


 それなら、とメメは一度言葉を切った。

 淡々とした語り口は、事務的にすら聞こえる。だが、それは自制の裏返しだ。

 メメの瞳には確かに、抑えきれない感情が宿っていた。


「なら、こう考えてみてください。私を追ったのは合理的な判断だと。白獅子には、他の獲物をどれだけ逃がしてでも私を追いかけるだけの理由があった、と。そう、例えるなら――私のことをと勘違いしていたとか」


「まさか」


 目を見張るカケル。緊張でメメはぎこちなく笑った。興奮で手が微かに震えている。


「目印だったんですよ。落ち草が崖の目印なように、眼の退化した白獅子には、花ではなく花に触れて移った匂いこそが目印だったんです。その花に寄ってくるご馳走の、ね」


 そこで、メメは不意に立ち止まった。腕を伸ばし、草むらの向こうを指でさす。


「着きました。これを見てください」



               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「着きました。これを見てください」


 そして、現在。数時間前と全く同じ言葉で、同じ場所、同じ方角を示したメメ。

 カケルの策は届かず、獣遣いの夢を諦めるか否か、全てはこの瞬間にかかっている。


 ――だがメメの握り込んだ拳はもう、震えてはいなかった。


「これが私の、夢の始まりです!」


 胸を張り高らかに宣言するメメの指の先には――黄金こがね色の体毛を持つ牛の群れがいた。

 群れの足元一面に咲き誇る水色の花が、メメを鮮やかに祝福する。その光景を目にしたミグローの変化は一目瞭然だ。今まで冷静だった瞳を見開き、釘付けになっていた。


「黄金……牛……」


「そうです。私たちは黄金牛が寄ってくる花を特定しました。既に一頭、捕獲して村へ運び終えています。これで今後、黄金牛が安定して捕まえられるようになりますから、村も豊かになるはずです。……どうですかお父さん。これでもまだ、実益になりませんか」


 先程から、くだけたものだったミグローへのメメの口調が、礼儀を帯びている。

 真剣なのだ。

 メメはこれ以上なく真剣に、親と子ではなく一人の人間としてミグローに向き合っている。

 親子故の厳しさも妥協も、ミグローには許されない。問われるのは、ただ純粋にミグローという人間がどう思ったかだ。

 それだけの気迫がメメにはあった。


「……一つだけ聞かせてくれ」


 沈黙を貫いていたミグローが、ようやく口を開いた。


「あの黄金牛は、男爵さんによるものではないんだな?」


 出てきた疑問は、言われてみれば当然のものだった。

 男爵は現在、力を制限され牛ほど複雑で大きいものを出せる状況にはないが、ミグローはそんな事情を到底知りえない。

 メメは口を一文字に結ぶと、静かに首を振った。


「してませんよ」


 否定する所作の一つ一つが嘘を微塵も感じさせないほど清廉せいれんで、気高さを纏っていた。


「仮にそんなことをして認められたら――私はもう、自分の夢を誇れなくなる」


 言い切るメメの覚悟に、カケルは目を奪われた。視線、言葉、声音。その全てが曇りなくミグローを見据えている。ゆるぎない立ち姿のメメは、昨日までとまるで別人だ。


「ですが」とメメは続ける。「していないことを完全には証明できないのも事実です」


 出来ないことを証明するのは困難だ。仮に出来ないと主張したところで、わざと手を抜いていると疑われればどうしようもない。そこから先、あるのは水掛け論の泥仕合。


「ですからお父さんがこれを不正だと思うなら、その時は私の負けで構いません」


「なっ――!?」


 難所に対し迷いもなく出された結論に、カケルは思わず声を上げた。

 全てをミグローに委ねるというその判断は、これ以上なく正々堂々で、こちら側の不正の入りようのないものだ。しかしそれ故に、相手に全てを委ねすぎている。


「そんなん、『これは不正だ』って言ったもん勝ちじゃん……」


 カケルが動揺する一方、毅然とした態度のままのメメは一度、深々と頭を下げた。


「お父さん、今日まで逃げてきてすいませんでした。私はもう、あなたを説得せずに獣遣いになろうとは思いません。決めてください。私が不正をしたかどうかを」


 胸の前で拳を握り、堂々と問いただす。ここが、メメの最後の大一番だ。

 パスを出され、全員の視線がミグローに注がれた。だが、その表情はやはり読めない。

 結論を委ねられ、勝敗を託され、これ以上ないほど正面からメメは切り込んだ。

 それを受けたミグローがなんと言うのか。勝負が始まって以来最大の緊張が、ジワリとカケルのうなじから汗を垂らして――


「――不正をした、か」


 メガネの奥の目を細めたミグローが、ボソリと呟いた。その顔は、微かに悔し気で。


「そんなことを言ったら、私は父親ですらいられなくなるんだろうな」


 指輪を外しながら、フッ、と力が抜けたように笑った。


「認めよう。お前たちの勝ちだ。たいしたものだな、獣遣い」


「よっ――」


 苦笑まじりの降参宣言を聞いて、カケル達は反射的に飛び跳ね――


「しゃぁあーっ!!」


 巻き起こる歓声は、見渡す限り無人の草原にどこまでも遠く響いた。


「やったなーっ! メメ!」「やるじゃんっ!」

「わ、カケルさん、トモリ」


 感情のままにメメに飛びつく二人。驚くメメも、興奮で頬が紅潮している。

 直後、遅れて実感を得たのか、メメの瞳が徐々に潤み始めた。


「あ、えと」と慌てて掌で両目を擦るが、なかなか感情は収まらない。掌の淵を伝い、涙が少しずつ零れてくる。

 隠すことを諦めたメメは、濡れた瞳を手の隙間から覗かせ、恥ずかしそうに微笑んだ。


「みんな、ありがとう」


「なーにいってんだ、こっからだろ!」とトモリが勢いよく肩に腕をかけた。


「獣の研究、俺もこっからはガンガン手伝うからな!」


「そうだよメメ。ここがようやくスタートラインなんだから、始まったばっかだぜ!」


 負けじとカケルも背中を叩く。木にとまっていた鳥の群れが、カケル達の声に驚き飛んでいった。

 騒ぎに気付いたのだろう。いつの間にか、黄金牛の群れももういない。

 「カケル」と声がした。カケルは揉みあうメメ達から離れ、声の主――男爵を見る。

 男爵は一歩離れたところで、どこか満足げに快晴を見上げていた。そして。


「空、べたな」


 それは先程の、虫に乗ったメメを指した一言。だが、それだけではない。


『重力を鼻で笑える馬鹿だけが、いつか空をべんだよ』


「――ああ、ほんと、凄い奴だよ、メメは」


 脳裏にあの夜の一幕を思い浮かべながら、カケルは感嘆のため息交じりに笑った。

 蓋を開ければ、ミグローを認めさせたのは黄金牛で、カケルの策は大して役立ちはしなかった。だがそれでいい。あんな一発芸より、メメの努力が認められた方が何倍もいい。


「っと、そうだ」

 

 カケルは我に返ると、声をかけるべき相手へと振り返り、歩み寄る。


「ミグローさん、この前は生意気言ってすいませんでした。人の家の事情も知らずに」


「……いえ、カケルさんのおかげでわかったこともありました。感謝してますよ」


 近づき、頭を下げるカケルに、ミグローが首を振って応じる。

 メメやトモリと同じその亜麻色の瞳には、先ほどまでの硬さはなく、子供二人と同じ柔らかさを含んでいた。

 そしてその瞳は、黄金牛の群れの残像を静かに見つめていて。


「この村が始まってから数百年、何人もの人間が黄金牛を捉えようと夢見て、無残にも脱落してきました。数えきれないほど、何人もです。――夢の、始まりか」


 呟くミグローが、微かに笑った。口にしたそれは、先程メメが切った啖呵そのもの。


「お前にとっては、ゴールですらないんだな」


 ミグローの小さな呟きは、騒ぐメメの耳には入らずに、森の中へと消えていった。



               ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「それで、今後の方針についてだが」


 カケル達の喜びが一通り収まった頃合いに、ミグローが切り出した。


「メメが獣遣いを目指すことに関しては今後口を出さないと約束しよう。ただし、それだけに没頭するというのは認められない。最低限仕事はしてもらうぞ。それと、危険な検証を一人でするのも禁止だ。白獅子の時のようなことをする時は呼べ。私も同行する」


「思ったより条件多い……メメが勝ったのに」


「これを守らなければ、メメが夢を目指すことそのものが難しくなります。ただで生活できるわけではありませんから」


 全てが認められて一件落着ともいかず、カケルはげんなりと肩を落とす。


「それと、もう一つ」と、ミグローは人差し指を立てた。


「メメ、お前が目指した獣遣いの形は、獣と心を通わせ仲良くなれる人間、だったはずだ。見たところ今のお前のそれは獣たちの習性を利用して操っているだけで、心を通わせているとは到底言えない。……私は獣に心はないと思っているがお前はそうではないのだろう? なら今後は生態や習性の観察だけでなく、獣たちの心と意思疎通の方法に関しても検証するべきだ。人手が必要な時と行き詰った時は私に言え。可能な限り助力しよう」


「はえぇ、なんか、急に手伝ってくれる感じになるんですね」


とはそういうことですよ。やるなら全力だ。中途半端が一番非効率でしょう」


 理路整然と返すミグローの変わらない様子に、カケルは思わず苦笑する。


「お父さん」と不意に声がした。振り返ると、メメが何故か呆然とミグローを見ていて。


「私がどうして獣遣いになりたかったのか……覚えてたんだ」


「――あ」


 その言葉の意味に気が付き、カケルは思わず目を見開く。

 『もう覚えてないでしょうけどね』と寂しそうに笑っていたメメの顔は、カケルも記憶に新しい。

 実際、獣遣いの夢に否定的だったミグローが覚えているとは、当時のカケルにも思えなかった。

 しかし今の発言はメメの原点を理解していなければ出てこないものだ。

 それはつまり、何年も前に一度言われただけの内容を記憶しているということで。


「……当然だろう? お前の夢は無理だ、と言ったのを忘れたのか。把握していないものをどうして無理だと言い切れる」


 視線が注がれる中、ミグローが怪訝そうに片眉を上げた。不思議そうな態度に呆気にとられるメメ。否、メメだけではない。カケルも、ひょっとすると男爵すら。


「じゃあ、なんであんな風に……」


「何度も言ったろう。この村での生活は苦しくなる。都や他の村に移り住むのもすぐには無理だ。獣遣いを目指していては、お前のこれからの人生が困難になると考えた。ましてやお前の夢は獣との意志疎通だ。操るだけならいざ知らず、それは不可能だろう、と」


 メメの疑問にミグローは淡々と答える。

 それと似たような内容は、勝負を持ち掛ける前にも聞いている。

 しかし、カケルはあれを子供の夢を軽んじる親の発言だと思っていた。言葉の上辺だけを拾い、善意を押し付け、子供の限界を勝手に決定するだけのものだと。

 だがもしも、あの発言がそうではなかったとしたら。

 軽んじているのではなく、夢をきちんと把握した上でメメの身を案じて出たものなのだとすれば。

 数々の言葉は全て、言葉通りの意味で、初めから悪意を込める気すらなかったのだとすれば――


「お父さん、もうちょっと上手になってよぉ……コミュニケーションさぁ……」


「む、どういうことだ」


 ガックリと肩と獣耳を落とすメメに、ミグローは疑問符を浮かべた。

 だがメメの反応も当然だ。今の事実が初めからわかっていれば話はここまで拗れなかったかもしれない。

 手ごたえのない反応をするミグローを見て、メメは頭を振り、勢いよく姿勢を正した。


「あーもう、わかった! お父さんはこれからもっと人の気持ち考えて、言葉の使い方に気を付けて! ほら、昔読み聞かせしてくれた本に言葉の使い方は大事って書いてあったじゃん。あれ読もうよ。私、読み聞かせするから」


「それが私に必要だと? わかった。読み聞かせは必要ないが、今度読んでおこう」


 ことのほか素直に頷くミグロー。娘になかなかのことを言われても全く表情を崩さず、気にした様子もないあたり、どうやら本当にミグローは『こういう性格』らしかった。


「……まじかよ」


 カケルは思わず笑いを零す。或いは、呆れだったかもしれない。

 喧嘩はコミュニケーションエラーで起きるとはカケルとメメの意見だったが、よりによってこれもそうだとは。


「っていうかお父さん、そんなだからご近所とも疎遠になるんだよ。この村でそんなことになってるの、お父さんだけだよ」


「そのことは今関係ないだろう」


「はは、お父さん言われてやんの」


「笑わない! トモリの言葉遣いも大概だからね!」


「うぇ」


 トモリが流れ弾を食らい、顔を引きつらせる。そのやり取りにカケルは頬を緩めた。


「……それとだメメ」


 一通りのやり取りを終えた後、ミグローがメガネを掛け直しながら切り出した。

 その言葉に、メメが顔と耳を傾ける。

 ミグローは長い瞬きと共に一呼吸置くと。


「『お前の夢は無理だ』なんて言ってすまなかった。私の見る目がなかったようだ」


 それは、謝罪の言葉。いくらコミュニケーションが下手とはいえ、あの言葉はミグロー自身にも思うところがあったのだろう。だが、それを受けてメメは――


「しょーがないから許してあげますっ。家族だもんね」


 パッ、と花が開いたような笑顔で答えた。


 ――かくして、三日間に及ぶメメとミグローの騒動は一段落を迎えたのだった。

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