進むべき道はどこ?

第15話:郷緒堂名

「お疲れ様!」

 梅雨前線もびっくりして消滅してしまいそうな明るい声。七瀬川ななせがわは腕を上げた反動でずれた赤いメガネを直すと、はにかんで手を振った。

「お疲れ様です」

 七瀬川が『黒魔術事典』の件を知ったと聞いてから四日経って金曜日、気持ちはだいぶ落ち着いてきた。どちらかと言えば、しとしとと降る雨のほうが心を憂鬱にしている。

 自身が暗い調子でどうすると気持ちを引き締めて、日暮ひぐれは定位置に座った。

「今日は音楽室に行くんでしたっけ」

「そうだよ。今の時点で聞いておきたいことってある?」

「ひとまずは、音楽室を調べてからですかね」

「じゃあ、さっそく行こう!」

 日暮は貴重品と筆記用具を取り出しポケットに突っ込み、かばんごと持ち出していそいそと歩く七瀬川のあとに付いて行った。

 音楽室があるのは二号棟二階。同じフロアに物置き用の教室しかないのは、音楽ができる限り授業の妨げにならないよう配慮した結果なのだろう。

 近づくにつれて、木管楽器のよく通る優しい音色と、それを支える低音が聞こえてきた。

「失礼します」

 小声で言った七瀬川に続いて日暮も挨拶をして入ると演奏が止まった。縦笛や横笛が連なる奥にティンパニやヴィブラフォンなどが弧を描くように並んでいる。その中にいる女子生徒が活気ある声で言った。

「おっと、ごめんな。今日用事で来るって言っていた友達だよ。みんなは合わせの続きしていてくれ」

 まさに打楽器が似合う印象だった。日焼けしたような褐色の肌、自由に跳ねるショートの髪、細く鋭く整えられた眉毛、力強く開いている目、爽やかな笑み。陸上部にも同じような外見の先輩がいたなと回想しかけて、日暮はピタッと止めた。

 駆け寄ってきた健康的な身体からだから石鹸に似た香りがふんわりと漂う。制汗剤を使っているのだろう。

「ゴドナちゃん、お疲れ様!」

「だからゴドナはいかついって。もう慣れたけどさ。お疲れ様。隣にいる子は、もしかして新しく入った会員か?」

「そう。自慢の後輩なんだから」

 小さな身体でふんぞり返る。

 その自慢の後輩を見上げると、彼女は握手を求めた。

「初めまして。あたしは郷緒ごうお堂名どうな。ゴドナじゃなくて郷緒でいいからな」

 日暮は礼をしながら握り返す。

「俺は日暮信義しんぎです。ヒグマと呼んでください」

「おっ、あだ名か。いいじゃねえか」

「ありがとうございます」

「じゃあ、ゴドナちゃんっていうのも気に入っているんだよね?」

「気に入っているかどうかと言われたら、まあ、そうかもしれねえけど」

 照れ臭さをごまかすように、郷緒は音楽室の奥にあるドアを指さした。

「ちょっと狭いかもしれないけどさ、演奏の邪魔になるし、続きは楽器庫でな」



 楽器庫の棚には教本や楽譜、ケースが所狭しと詰め込まれていて、床はパズルのようにうまく組み合わさった楽器や譜面台が占領していたが、郷緒が使っている分の打楽器が外に出されていたため、入り口付近に三人が向かい合わせで座れるくらいの空間ができている。郷緒は音楽室から三つの椅子を取ってきて置いた。

 楽器を背にした奥側の椅子に郷緒が、向かいの壁寄りにある椅子に七瀬川が、入り口のドアのそばにある椅子に日暮が座る。

「それで、今日は何だっけ、調査だったよな」

「そうなんだよ。七不思議の一つ、『無人の『別れの曲』』のね」


『無人の『別れの曲』』

 夜になると音楽室から『別れの曲』が聞こえてくる。

 中に入ってみると、ピアノは流れたままだというのに、演奏者はいないのだ。


「吹奏楽部でピアノを弾く人っていないの?」

「少なくともあたしたちの代ではいないな。ただ、使うのはコンクールでも認められているはずだから、過去がどうかまでは分かんねえ」

「じゃあ、ピアノって伴奏者なしで弾けたりする?」

 七瀬川が当たり前のように現実離れした質問を投げたことに日暮は面食らったが、郷緒は慣れているようで、頭を掻きながら難しい顔をした。

「アーティストが遠隔操作みたいなのしてパフォーマンスでやるならまだしも、さすがに音楽室のピアノじゃ無理だと思うぜ。仕込みとかできないだろうし」

 七瀬川の瞳が一瞬きらめきを宿したが、自身を落ち着かせるように目を閉じて深呼吸し、ぱっと開けた。

「これはもう間違いなくオカルトの仕業だよって言いたいところなんだけど、決めつけるのにはまだ早いよね」

 そう言うや否や、お団子頭を下げた。

「お願い、ゴドナちゃん。一緒に音楽室を調べてほしいの。楽器ってあまり素人が触ったらいけないって聞いたから」

「俺からもお願いします」

 日暮も誠意を込めて腰を傾ける。

「よせって、二人とも」

 顔を上げると、郷緒は目線を逸らしていて、頭の後ろで手を組んで椅子に寄り掛かっていた。頬は少し紅潮している。

「水臭いな。入学してからの仲だし、自慢の後輩も連れているってなったら、あたしに協力を惜しむ理由はないよ。だから、もっと気軽にいこうぜ」

 七瀬川の顔が上がってぱっと輝く。

「ありがとう!」

「ありがとうございます」

「だから気軽でいいってば」

 郷緒は苦笑も爽やかで、人に好かれるタイプだなと日暮は思った。

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