11:思い出の処理

その文字列を、カイの瞳が捉えた瞬間。


彼の脳内で、ウイルスが作動した。


先ほどまで彼の全身を支配していた、心臓を締め付けるような恐怖と、ミサキを想う激しい愛情が、まるで電源を切られたかのように、完全に消え去った。パニックで乱れていた呼吸は、嘘のように穏やかになる。彼の心は、絶対的な静寂に包まれた。


カイは、オフィスを飛び出そうとした勢いのまま固まっていた体を、ゆっくりと元に戻す。そして、何事もなかったかのように自分の席に戻り、椅子に深く腰掛けた。心配そうに彼を見ていた同僚たちは、そのあまりに冷静な姿に戸惑い、やがて「ああ、彼も切り替わったんだな」と、どこか納得したような、それでいて少しだけ安堵したような表情で、それぞれの仕事に戻っていった。


後日、カイはミサキの部屋を訪れた。そこは、彼女が使っていたシャンプーの、シトラス系の香りがまだ微かに残っている空間だった。しかし、今のカイにとって、それは何の感情も喚起しない、ただの化学物質の粒子情報に過ぎなかった。


彼は、いつも仕事で使っているのと同じコンテナを部屋の中央に広げる。「データ化」「再利用」「焼却処分」。彼は、ミサキとの思い出の品々を、一つずつ手に取っていく。


旅行先で買ったペアのマグカップ。彼は、まるで事故現場の遺留品を扱うかのように、その形状と材質を冷静に分析し、素材分析センサーにかける。「再利用」のコンテナへ。


彼女が初めてプレゼントしてくれた腕時計。「貴金属」のカテゴリーで資産登録する。


彼女が気に入っていたソファのクッション。「焼却処分」へ。


彼は、それらを手に取るたび、脳裏に幸福だった記憶が鮮明に、しかし感情を伴わない「データ」として再生された。


最後に、彼はベッドサイドに飾られた、二人の写真立てを手に取った。写真の中のミサキは、幸せそうに笑っている。カイも、隣で少し照れたように笑っていた。彼は、写真の中のミサキの笑顔と、自分の笑顔を、まるで他人を分析するかのように数秒間見比べた。しかし、そこに何の感情的な差異も見出すことはできず、ただのピクセルの集合体として認識を終えた。そして、ガラス面の指紋に気づき、持っていた布でそれを丁寧に拭き取った。


彼は写真をデータ化してクラウドに保存した後、写真立てを「不燃物」の箱に静かに入れた。


「愛の記憶」と「悲しみの不在」。


その絶対的な断絶が、カイの冷徹な行動を通して、静かに、そして完璧に遂行されていった。

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