トリアージ
すすきのから札幌市電の始発に揺られて、北海道の街を往く。
朝ネットカフェを出ると身を刺すような寒さで、初めてコンビニで服を買った。最近コンビニで売り始めたあの服って、お酒飲んでゲロ吐いた人しか使わないだろ、と思ってたけど、今はありがたい。黒いパーカーに身を包んで息を吐く。
本来の予定では、機会を伺って慎作さんを誘拐するつもりだった。けれど深夜未明、慎作さんから届いた住所には、いつでもおいで、とだけ添えられていた。
いつでも逃げ出す準備ができている、という訳では、ない気がする。
路面電車を降りて、ひたすら歩く。慎作さんは運転免許を持っていないから、同じ道を昔歩いたのだろう。静まり返った朝の街は死んでるみたいで、けれどたまに犬の散歩とごみ捨て一番乗りの人がいる。
慎作さんの実家は思いのほか住宅街の奥にあった。ごく普通の建売のお家って感じだ。
ピンポン、押さない方がいいよな。
どうしよう。どうすればいい。お母さんが出たらどうする?
……大丈夫、覚悟はできてる。
『お家に着いたよ』
LINEでメッセージを送る。三分くらいで既読が着いて、すぐに返事が来た。
『いつでも入って来い。鍵開いてるから』
どういうこと。まだお母さん寝てるからってことかな。
ぱん、と両手で軽く頬を叩いて、ドアノブに手を掛ける。
扉を開く。
「…………よう、慧介」
は、は、は、と息が浅くなる。
「早く閉めちゃってよ。見られたら事だから」
頷いて、ドアを後ろ手に閉めた。
玄関に座り込んでいる慎作さんは、血に塗れていた。
ひどく憔悴した顔で、でも憑き物が取れたように穏やかで。髪や肌にこびり付いている血はとっくに乾ききっていて、動く度にぼろぼろ崩れそうだった。
「……慧介、よく来たな。大変だったろ。飛行機は怖くなかったか」
「…………怖かったよ。でも慎作さんの為にここまで来たんだ」
「そうか」
ふう、とため息をついた慎作さんからは、強く煙草の匂いがした。
「…………何があったか教えてくれる?」
「うん、教えてあげる。その為に呼んだんだ。追っ払ってやっても、東京に帰れって言ってやっても良かったんだ。でもお前にちゃんと、お前が決めた方がいいのかなと思って。なんででしょう?」
「……うん。ありがとう」
おいで、と手招きされる。そのゆらゆら心許ない薄い体を追いかけて、靴を脱いで家に上がる。
廊下を抜けると、カウンターキッチンのある、ごく普通のリビングがあった。荒れ果ててもいない、ごく普通の実家。
けれど重く濁った空気が、慎作さんの立ち止まった血まみれのキッチンから溢れ出している。
「これねぇ、ママ」
俺はそれを見た。
死んでいる。
あんなにも恐ろしかった人が、ぐったりと倒れ、目を見開いたまま死んでいる。
死体になってみると、本当にただの四十代、五十代の女性でしかなかった。
「目が合うと気まずいな」
そう呟くと、慎作さんは丁寧にお母さんの遺体の瞼を閉じた。
「殺しちゃったんだよね」
軽い口調の中に、重い諦念が滲む。
「…………どうして?なにがあったの」
「………………分からない。咄嗟に」
「なにかされた?嫌だったの?」
「…………ママにさあ、皿洗ってる時にさ。身体、触られたんだよね。それが嫌だった」
「そっか」
なんとなく、察してはいた。
慎作さんのお母さんは、信じられないことに、息子を男として見ていた。かつて慎作さんの演じていた「ママの小さな彼氏」という役には、「そういった」ケアも含まれていた。
慎作さんはそれに、初めて抗ったのだ。
初めて抗って、その結末が、こんなことになってしまった。
「慧介、おれさ、殺人犯になっちゃったよ。どうする」
「…………慎作さんはさ、どうしようと思ってるの」
「わかんない」
「出頭……して、罪を償おうとか、そういうつもりなの」
「…………もうなにもわかんないの、俺は」
「慎作さんはさ、自由になるために殺したの?」
「…………そうかも。」
「この人死なないとさ、慎作さんはきっと、一生、自由になることなんて、安心できる日なんて、なかったもんな」
「そうかもね」
「じゃあさあ、おかしいじゃん。しょうがなかったのに、それで…………刑務所とかに入んのは、おかしいじゃん」
「お前さ、自分が何言ってるか分かってる?」
「分かってる、でも……俺はさ、法律がどうこう、善悪がどうこう、とか、天国も地獄も、もう全部どうでもいいよ。慎作さん、あんたが、あんたが苦しまずに生きられるなら、全部どうだっていいんだ」
「…………っふ、はは、はっ、はあ、ははっ」
慎作さんは腹を抱えて、乾いた声で笑った。笑って、真っ白だった顔を薄紅色に染めて、少し涙を滲ませた。怪異然としていたそれが、生きた人間として震えていた。ぼろぼろ、と堰を切ったように涙を零して、お母さんの遺体を長い脚で跨いで、俺に思い切り抱きついて泣いた。
「俺さあ…………本当はどこまでも、お前と逃げたいよ…………」
「うん」
「…………でもさ、普通に考えて無理じゃん。」
「そうかも」
「はぁ…………慧介…………でもね……あのさ、俺……この人を隠せる場所を知ってる」
「…………どこ?」
「この家の床下収納。冷蔵庫くらい寒いんだ。俺はよくそこに躾で閉じ込められてた。そこに埋めちゃえばいい。壁引っぺがして、土で埋めちまえばいい。これから冬が来る、なんとかなる」
「…………そうしちゃおうか、慎作さん」
「そうしてもいい?」
「俺は、いいと思うよ」
「…………なんでそんな俺に都合のいいことばっかり言うんだよ、お前は」
「俺は…………慎作さんを好きになって、慎作さんと生きようって思った時に、とっくにもう、全部どうでも良くなったんだよ」
「ふふ、ばかみたい」
見つめあってから、深くキスをした。酷く苦くて、涙の味のキス。
そこからは淡々と片付けをした。
慎作さんの言っていた床下収納は、ずっしりと重い蓋がついていて、確かに女性や子供なら身体がすっぽり入ってしまうほどの大きさで、酷く冷たい場所だった。工具を使って木の板を剥がして、その中に二人で運んだ遺体を投げ込んだ。慎作さんのお母さんが昔ガーデニングを試みていた頃の腐葉土があったので、とりあえずそれを被せた。まだ全然遺体が見えている。
「足りねぇ〜な、流石に。丸見え」
「ホームセンターとか行って買ってこようか、土」
「……うん」
「一旦ここまでにしよ」
「うん」
どしん、と重苦しい音を立てて蓋を閉じる。
丁寧にキッチンにこびり付いた血を掃除して、掃除が終わったら一緒に風呂に入った。湯をしっかり張って、浴室暖房も入れて。
「……慧介」
「なあに、慎作さん」
「怖かったよな、ごめん」
「いいんだよ、もう、そんなん」
「……これからどうしような。アレが見つからないようにするには……もう俺がここに住んどくのが一番いい。でもお前はさ、学校とかどうすんだよ。ここ数日くらい何とかなったとしても、俺と一緒にここに住むなんて……まあ、無理だよな、もちろん」
湯の中で慎作さんの身体に手を伸ばして、ぎゅうぎゅう抱きしめた。
「そりゃ、俺もさ……本当はこのまま慎作さんと一緒にいたい。気持ちとしてはね。ここで一緒に秘密を抱えて、結婚したみたいに暮らしていきたい。でも、うん。慎作さんの言う通り。だから…………俺、考えたんだけど」
「うん」
「あと一年と半分くらい、待てる?」
「え」
「ちゃんと学校行って、国家資格取って、そしたら俺、新潟じゃなくて北海道の病院に就職するよ。そんでこっちに引っ越す。どう?そしたらちゃんと収入もあって、慎作さんと現実的に暮らしていけると思うんだよね。それまでは、遠距離恋愛になっちゃうと思う……申し訳ないけど。慎作さん、頑張れる?」
「…………まあ、頑張ってみるよ。そんな遠距離恋愛、はじめて」
「あ、あ、でも、ちゃんと夏休みとかには会いに行くよ。いっぱいバイトしてお金貯めて、何回も行くよ。年末年始とかも、親戚の集まり断ってこっち来るし。いっぱい電話しよう。慎作さんの配信も聞くよ、俺は」
「…………ふふ、無理しなくていいよ。そんな必死にならなくても、俺は…………ちゃんと、慧介を信じられるよ、もう」
「ほんと?」
「ほんとう」
その瞬間、俺たちは世界一幸せなキスをした。秘密を抱えて、罪を背負って、でももう、互いのことを信じ合える。何にも縛られることなく、何にも怯えることなく、未来の話ができる。
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