第13話 万病も老化も治す秘薬

  一

 腹が熱い。不快な熱さでは無い。胃から全身へじんわりと染み渡る、心地良い暖かさだ。

 紫乃は、夢うつつを彷徨さまよいながら、ぼんやりと考えた。

 ――お母ちゃんが、湯たんぽを入れてくれたんじゃろうか?

 寒い夜は、母がいつの間にか寝床ねどこに湯たんぽを入れ、暖めてくれた。

 今日は、冷え込む。特に右の手足は、こおったように感覚が無い。

「お母ちゃん、」

 もう一つ湯たんぽをくれんかのぅ、と紫乃は母を呼ぼうとした。途端に喉が詰まって、激しく咳き込んだ。苦しい。何か異物を、喉の奥深くまで突っ込まれている。

「人工呼吸中にバッキングをしちょろぅが! 看護師ナースは何を見ちょるんじゃ!」

 男の怒鳴る声が聞こえた。

 ――耳元で、うるさぁわ! 

 盛大に怒鳴り返したいが、喉がイガイガして咳が止まらない。

 ――バッキングっちゅうたら、医学用語じゃのぅ。ここは、どこなら?

「自発呼吸が戻ってるやんか! 紫乃ちゃん、聞こえるか?」

 デカい声の、大阪弁だ。

 突然、ドドーンと稲妻のように、金髪ガイジン講師の不良面ふりょうヅラが浮かんだ。

 ――ロイ先生じゃ!

「俺の手を握ってみぃ! グーや。グーを作ってみぃ!」

 野太くガラの悪い声で、必死に呼び掛けて来る。

 ――うちは、何をしちょったんじゃ? お母ちゃん?

 記憶が、少しずつ蘇る。思い出したくない記憶も、一緒に。

 ――お母ちゃんは、もうらんのじゃった。お父ちゃんも……。

 このまま、眠っていたい。母の温かみを、腹に感じたまま。

「目を覚ましてくれるんやったら、俺が持ってる漢方の技術は、なんでも伝授したるで。日誌あれは全部、俺が解読したる。せやから、目を開けてぇや」

 声が、湿っている。

 ――あの金髪講師、うちに心底しんそこれちょるんじゃのぅ。

 今度は、胸から全身へぽかぽかと温かみが広がる。右手は冷たいままだが、温まった左手は、動きそうだ。グッ、と力を入れてみる。

「おい、ぇ握っとるで! 比嘉、見てみぃ!」

 ――うちに手を握られただけで、嬉しそぅに大騒ぎしちょるわい。

 しょうが無い。目を覚ますのも、悪くない。

「めっちゃ握り返して来るで! 比嘉、こんだけ意識も自発呼吸もあったら、抜管ばっかんできるやろ!」

「まだ午前中じゃし、のぅ。人手があるうちに、やってみちゃろか」

 もう一人の男の声色こわいろも、ロイと同じ響きがする。ぶっきらぼうだが、しんとおった声。

 喉の奥まで入っていた異物が、引き抜かれた。抜かれた刺激で、またしばらく咳き込む。

「深呼吸や! 落ち着いて、ゆっくり深く、息を吸うんやで」

 ――うちは、生まれたての赤ん坊じゃぁわ!

 言い返したくても、声が出ない。何かを口にあてがわれ、コォーッと空気が掛かる。酸素マスクだ。胸のあちこちに、金属を当てられる。ひんやり冷たい。聴診器だ。

空気エア入りは良さそぅじゃのぅ。喘鳴ぜんめいも目立たん。お前の漢方を注入し始めて一日で、手足の浮腫が劇的に引いたけん。気道の浮腫むくみも取れちょるんじゃろ」

「脈診上も、どんどん体力が回復して来てるで。完全に意識が戻るかどうかまでは、俺にも分からへんけどな。確実に言えるんは、漢方でかた麻痺まひまで治すんは不可能や」

「命が助かって、自発呼吸が回復しただけでも、しとせにゃいけんかのぅ」

 ――うちは、生き返ったんか? あの血の海の中から……

 花火のように、真っ赤な血が目の前に飛び散った。数秒後に、世界が完全にシャット・ダウンした。

 ――本当に助かったんか? もう安全なんじゃろか?

 白衣を着た男に、一瞬のうちに背後を取られ、首に致命傷を負った。病院内で、だ。もはや、誰も信用できない。相手が、医者でも。

 右の手足の感覚が無い。薄目を開けてみる。慎重に開けたつもりでも、一瞬、明るさに目がくらむ。少しずつ、目が慣れる。薄緑の病衣を着せられ、ベッドの上にいる。全部、手足はくっ付いている。右半身が麻痺しているのだ。そうだ。切られたのは、左頸動脈だ。

 ――絶対に復活しちゃる。スタスタ歩いて、元気な姿でお父ちゃんとお母ちゃんを迎えに行くんじゃ。

 司法解剖を終えた後、両親の遺体は尾道署に保管されたままだ。

 周囲をうかがってみる。アクリルの大きな窓の向こうに、集中治療室ICUの多床室が見える。ここは、個室だ。紫乃のすぐ左に、金髪男のデカい背中がある。他に人影は無く、比嘉は出て行ったようだ。

 ――コイツは、うちが手を握ったくらいで、ギャーギャーと大騒ぎするけぇのぅ。

 左手は、動く。トントンと金髪男の背中をノックしてみる。

「え? 嘘やろ?」

 振り向いたロイが、言葉を呑み込む。紫乃は、左人差し指を酸素マスクに当て、「シッ!」のポーズだ。ロイが口をつぐんだまま、耳を紫乃の口元へ寄せる。

 かすれて、声が出ない。ヒリヒリ、イガイガ、喉が荒れている。

「誰にも、言わん、とって。うちの、意識が、戻ったと」

 ささやき声を、ようやく絞り出した。

 すぐに、ロイは意図を察したようだ。

「なるほどやな。確かに、そのほうが安全や。……お前、頭もしっかりしとるがな!」

 うんうんと嬉しそうに頷きつつ、灰青色スカイグレーの目が潤む。

 ――あんたの脳味噌は、腐っちょるわい! そぎゃぁなコワモテがいきなりルンルンしだしたら、皆にバレるじゃろ!

「あと、もぅひとつ、頼みが、ある。うちの、スマホ、取って」

「そんくらい、お安い御用ごようやがな。彼氏にでも連絡したいんか?」

 ロイが床頭しょうとうだい抽斗ひきだしを開け、紫乃のスマホを取り出した。

 ――あんたの頭ん中は、お花畑か!

 どこまでも能天気な金髪男への怒りを呑み下し、紫乃はスマホを受け取る。ロイの体に隠れ、慣れない左手でスマホを操作する。

「あんたに、日誌、送ったけぇ。お父ちゃんの薬、飲ませて」

 慌てて、ロイが自分のスマホを取り出した。灰青色スカイグレーの目が、徐々に見開かれる。

「一生の、お願いじゃ。あの薬じゃぁと、うちの手足は治らん」

 こくん、と頷くロイを見届けたら、暴力的な眠気に引きり込まれた。

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