第7話 手を差し伸べて
「賑々しいね……」
圧倒されたように、石畳を進む人の川を見上げながら、香久耶さんが呟く。
「そ、そうですね……はぐれてしまいそうです」
心細くて、自分で自分の手をぎゅっと握った私に、彼が優しく言う。
「大丈夫だよ。はぐれたって見つけてあげるから」
「……ありがとうございます」
応じる、彼の笑顔を提灯の明かりが照らす。
「じゃあ、屋台の方に行こうか」
「はい」
二人は並んで歩き出した。
そして、その後に後悔する。
「……凛、大丈夫?」
「はっ、はい……」
なんとか振り返った、心配そうな顔に頷く。
「大丈夫、です」
「そう?」
「久しぶりに来たから……ちょっと戸惑ってるだけで!」
「……何はともあれ、何かあったら遠慮なく言ってね?」
「はい!」
離され気味の私は、自然に声を張る。そんな私を心配そうに見ながら、流れに逆らえず、香久耶さんは先を歩いていく。
「うう……」
向かってくる人、追い抜いてくる人、食べ物を持っている人、子供を肩車している人。
邪魔にならないよう躱したつもりが、反対側の人の邪魔になってしまう。慌てて謝って、流れの合間に消えようとしている香久耶さんを追う。
「香久耶さ——、あ」
いつの間に、彼はあんな遠くにいる。
人の波の間、石段を登っていく後ろ姿を呆然と見る。
もう追いつけない……。
その途端、周りにいた人たちが急に隔壁のように感じた。
人、人、人。人の群れ。
笑顔の合間に見える、疎ましげな顔。
「姉ちゃん、前見て歩いてくれよ」
「ごめんなさいっ……」
人。どこを見ても人。いろんな顔。いろんな目。
人、人、人、人。
邪魔になってる。迷惑をかけてる。嫌がられてる。
どうしよう、どこに行こう。
人の目が俯いた私に突き刺さってくる。
どこか……どこか、道の脇に……。
目眩を落ち着けようと、胸に手を当てて息を吐く。
こわ、い。
人の群れを歩くのは、こんなに怖かったのか。
「凛」
石の階段の脇へ逃げた私の耳に、声が降ってくる。
「香久耶さん……!」
人の背丈ほどの石垣の上で、彼はしゃがみ込んで申し訳なさそうにした。
「ごめん、引き返せるような状態じゃなくてさ。……顔色悪いけど、大丈夫?」
「人が多くて……びっくりしてるだけ……です」
「……」
彼は珍しく眉根を寄せた。
「困ってるなら困ってると言いなさい。いつか窒息して死んでしまうよ?」
すとん、と彼は隣に飛び降りてくる。
どこを見ているのか、澄んだ瞳が空気を見回す。
「……広くなったね。昔、ここにはお寺があったから、こんなに広くはなかったんだ」
「そうなんですか?」
「そう。小さな古寺で、八十年ぐらい前に、山火事で無くなった。再建する余裕もないぐらい延焼したから、そのまま広場として使われているんだろうね。……ほら、倒れた灯籠がある」
地面に半分以上埋もれた石だが、確かに人工物らしい輪郭をしている……ように見える。
ふっと香久耶さんが息を吐いて、私は彼の横顔を見た。
「……もうすぐ屋台だけど、俺、何か買ってこようか?」
「ええと……」
「遠慮なく言って良いんだよ? 楽しめなきゃ意味がないんだから」
背中に添えられた手と、心配そうに覗き込んでくる顔。
……しっかりしなくちゃ。私が楽しんでもらいたくて誘ったんだから。
もう一度、深呼吸をする。
「大丈夫です。二人で、行きましょう」
人混みの中で、はぐれないように私は香久耶さんの袖を掴んだ。
彼の声が笑って言う。
「それじゃあ、すぐはぐれちゃうよ」
人混みに入る寸前、手が触れ合う。
指が握られる。
「何する? 何食べる?」
「か……香久耶さんが、決めて下さい」
「え。俺、今の時代の料理分かるかな……」
手を引かれる道の先、色とりどりの灯りの奥。
黒々とした山のさらにさらに奥に、眼を眩ませるほどの満天の星空が広がっていた。
獣というものは、音も無く林野を駆ける。
速く、速く、闇の中でもどこへだって辿り着ける。
「……ふむ」
莉月は大気の匂いを嗅ぐ。
「ただの獣ではない、が……妖でもない」
数頭の小規模な群れ。
山の奥へ、闇の中を疾走していく群れ。
「やれやれ……面倒な事だ」
莉月は身を屈めて、弾丸のように闇を裂いて駆け出した。
妖の眼は、脚は、あっという間に群れに追いつく。
「……神の庭で、〈それ〉をやるか」
くつくつと九尾の豺虎は嗤う。
「気骨のある輩だ……。精々命を燃やすが良い……」
やってみれば良い。その魂、吹き飛ばしてくれよう。
俺は『あの日』を覚えている。
それは、いつまでも消え去ることのない呪縛。
俺は、多分永遠に『あの日』に縛られ続ける。
裏切りと、救いと、絶望。
最期に差し伸べてくれた、あの嫋やかな手。神々しい姿。優しい笑顔。貴女の体温。
『大丈夫ですよ。この私が何とかしますからね』
俺に、全てを差し伸べてくれたあの人。
……もし叶うなら、あの子にあの人と同じようにしてやりたい。
それが、俺にできる唯一の——『贖罪』だから。
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