第5話 噂の形

 くすんだ夢を見ていた。

 もう内容も覚えていない、薄い薄い夢。

 いつもの悪夢とは違う、嫌な夢。悲しい夢。

「……なんで……」

 何故流れているのか忘れてしまった涙を拭う。


 一昨日、豪雨が降った。

 橋は落ちなかった。

 あの後の、香久耶さんの疲れたようにほっとした顔の方が印象に残っている。

『良かった。これで一安心だね』

 何となく眠れる気がしなくて、そっと夜の中に出た。

 月と星が綺麗な夜だった。



 作戦は成功した。

 でも、あれから香久耶さんには会っていない。妖狐さんに程よく追い払われている。

『せっかく順調なんです、現を抜かさないでください』

『でも、お礼を……』

『あの馬鹿にお礼なんて今後百年は要りませんよ。お友達と仲良くなさい』

 ……妖狐さんが隠しているものを見てしまうのが怖くて、私は目を瞑っている。

 でも、もし……。


 祟り。

 死とは取り返しのつかないもの。

 私の感情に関係せず、死んでいった大切な人たち。


 ううん、大丈夫。だって、私はただの人間。祟れるような能力なんて持ってない。

 香久耶さんでさえ信じないなら、私は何も信じられない。だから……大丈夫。




 夜道をとぼとぼと歩き続けていると、土手に灯りを見つけた。

 それも、複数。

 提灯の灯りのようで、ゆらゆらと四、五個が川縁を照らしている。

 あそこは……まさか!


 一瞬引き返して村に人を呼ぼうかと思った。でも、もし想像が外れていたら……。

 凛は、光を見つめる。

「やっぱり……橋のところ……?」

 草地に響くのは虫の音。月光と星明かりだけが道を照らしている、闇。

 あまりの肌寒さに、二の腕を抱く。


 ——怖い。すごく、怖い。


 それでも、と一歩踏み出す。

 何をしてるかだけでも、確かめよう。

 私は、もう何も失いたくない。

「……行ってみよう」


 橋。

 壊れなかった橋。

 祟り。

 殺されなかった祟る少女。

 橋の袂。

 群れている灯籠の眩い光。ちらつく人影。


 これらは何かを暗示してはいないだろうか。


 歩き出した歩調は、まるで坂を転がる石のように速くなっていった。

 明かりが近づく。虫の声が止む。疎らな家の間を駆け抜ける。

 凛は、祈るような心地で走っていた。


「やだ……」

 もし、もし本当に私を殺したい人がいたら?

「嫌だ……」

 香久耶さんが頑張って守ってくれた橋……。


 もし、落とされたら?



「凛」


 ふわっと、檜のような香り。


「凛、村の人を呼んできて」


 視界が着物で覆われる。

 いつも通りの柔らかい声。

 それが聞こえただけで何故だか、感情が乱される。

「香久耶さ、」

「大丈夫。あの馬鹿どもは俺が何とかする」

 いつもより暗い、低い声。

「でも……」

「大丈夫。橋はまだ無事だから」

「そうじゃなくて!」

 目を覆う手を振り払い、見上げた神は、透き通っていた。

「凛……」

 困ったような、苦笑いの表情。

「香久耶さんまで死なないで!」

「凛、君は……」

「今でこそ、みんな私に優しくしてくれる……、友達だってできました。でも、全部香久耶さんが無理して私にくれたものです!」

「声が大きいよ」

「……村の人がこっちに来てくれてます」

 ハッとしたように香久耶さんは振り返る。

 おおい、と提灯が掲げられた。私の声に、近くの家の家主たちが出てきてくれたらしい。

「そんなことにも気付けないなら、体力を回復させてください!」

 透き通った手を強く握る。彼は、くしゃっと顔を歪ませて笑った。


「それでも俺は、君を助けたい」


「なんで! なんでそんなことを!」

 どうした、と誰かが提灯を掲げる。

「香久耶さんが、私のお願いなんかのために消えちゃ駄目です!」

「ごめんね。俺の独りよがりだけどさ……」

 手が、撫でてくれる。

「かぐやさん……!」


「凛ちゃん? どうした?」

「……、橋に誰かがいて!」

 数人が橋へ駆けていく。

「橋を落とそうとしてる人がいるみたいなんです!」

「何だって⁉︎」

 闇の中から、悲鳴。

「左五郎じゃねぇか! 村長の息子が何を!」

「うるさい!」

 殴る音、水音。

「お前っ‼︎」

「やめろ!」

「勘兵衛! 新太! お前たち、一体何を⁉︎」

「今までの橋も、お前たちが落としてたんじゃないだろうな⁉︎」

「壊せ!」

「壊すな!」

「村長を呼べ!」




 橋を落とそうとしたのは、村長の息子を中心とする若者たちだった。厳しい処罰はなされないようだが、村八分にはされてしまうかもしれない。……私のように。


 家の扉を開けた。

「ただいま帰りました……」

 俯いていた私の耳に、人外の声が届く。


「お帰りなさいませ、人の子」


「妖狐、さん」

 黄金の狐は前足を舐め出す。

「……あの馬鹿は元気ですよ。聖域の中にいた方がいいのは確かですが」


 俯いて、神社の補修が今日から始まることを思い出す。

「神社の補修って、意味ありますか?」

「ありますとも」

 妖狐は囲炉裏に火を付けた。

「あなたのおかげです。あいつは叱られて反省してはいるようですし、少しばかりは信仰心も発生しています。これで暫くはあの神社も安泰です。……しばらくは」

 狐は空中を睨む。

「しばらく……なのですね」

「……。ご安心を。あやつは仮にも神、そして私も強力な妖ではあります故」


「ご飯、作りますね」

 凛は鍋を火にかけた。

 ぐつぐつ煮え立つ湯を見つめながら、あの人は食事を必要としないのかしら、と思った。もし食べることができるなら、いつか何か作ってあげてみたい。

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