50話 朝一の支度

 朝日が、高い窓から斜めに差し込み、空気中を舞う無数の埃を黄金色の線を引くように照らし出している。

 オレは重厚な図書館の扉にかけられたかんぬきを外し、ぎぃ、と年季の入った音を立ててそれを押し開けた。ひんやりと澄んだ朝の空気が、澱んでいた室内の空気と入れ替わっていく。


 誰にも邪魔されない、一日の始まり。

 まさに至高。

 オレはまず、受付カウンターの埃を布で軽く払い、相棒ともいえる特注椅子の羽毛クッションを、愛情を込めてぽんぽんと叩いて整える。

 ついでに裏の植物園の扉を少しだけ開けて様子を窺うと、忠実なる同居人クロが、昨夜のうちに忍び込んだであろう哀れなネズミの死骸を『吸血トマト』の根元に運んでいるのが見えた。

 よしよし、今日も仕事熱心で何よりだ。


 さて、と。始業まで、あと三十分。

 最高の怠惰ライフは、最高の一杯から始まる。オレは自分だけのために、極上のコーヒーを淹れるべく、休憩室の棚からとっておきの豆を取り出した。

 始業時間は決まっているが、そのタイミングできっかり来るような殊勝な利用者など、この図書館には存在しない。

 だから、焦る必要など微塵もないのだ。のんびりやろう。そう思って、もう一度玄関の扉に手をかけ、外の空気を入れ替えようと開いた、まさにその瞬間だった。


 バタンッ!

 開けようとした扉が、逆に凄まじい勢いで内側へと押し開かれた。

 そして、突風のような勢いで、三つの影がなだれ込んできた。


「ジルさん! おはよう! お願いがあって来たわ!」


「……おはよう」


「……うむ」


 先頭を走るのは、朝から元気があり余っている剣姫シュシュア。その隣には、眠たげな目をこすりながらも律儀についてきた元・災厄フィオ。

 そして、その二人に半ば引きずられるようにして連れてこられた、金髪の少女。

 その瞳は完全に光を失っており、抜け殻という言葉がこれ以上なくしっくりくる。確か、中身はおっさんで、見た目は少女のギルドマスター、ギガオンとか言ったか。

 シュシュアとフィオは馴染みの顔だが、こんな朝一番に押しかけてくるのは初めてだ。こいつらは腹を空かせたハイエナのように、いつも昼飯時を狙ってやってくるはずだが。


「お前ら、生活費はもう大丈夫なのか? しばらく来ないって言ってなかったか?」


 オレが呆れて尋ねると、シュシュアが「そんなことより!」と食い気味に割り込んできた。その目は、切実な光を宿している。


「ジルさんにお願いがあるの! この人を……ギガオン様を助けるために、最高の、それはもう人生観が変わるくらいのご馳走を食べさせてあげて!」


「……は?」


 なぜそうなる。

 オレは意味が分からず首を傾げたが、シュシュアは有無を言わせぬ勢いでオレの腕を掴み、抜け殻状態のギガオンをぐいぐいと押し付けてきた。

 最高に意味わからんが、放っておいて玄関先で騒がれるわけにもいかない。

 オレは深いため息をつくと、三人をカウンター奥の休憩室へと招き入れた。


「まあ、とりあえず落ち着け。コーヒーでも淹れてやる」


 まずは状況を整理せねばなるまい。

 オレは四人分の豆を魔術式のミルに入れ、ゴリゴリと心地よい音を立てて挽き始めた。

 今日の豆は、東の山脈地帯でしか採れないという希少種だ。特徴は、強い苦みの中に、木の実のような香ばしい風味が隠れていること。

 こういう豆は、少し粗めに挽いて、高温の湯でさっと淹れるのがいい。雑味が出る前に、旨味と香りだけを抽出するのだ。

 やがて、芳醇な香りが休憩室に満ちていく。淹れたての黒い液体をそれぞれのカップに注いでやると、ギガオンがおもむろに顔を上げ、不満げに口を開いた。


「……我、砂糖とミルクがないと飲めぬのだが」


 こいつ、本当に中身おっさんかよ。

 その隣で、フィオは当たり前のようにブラックのままカップを啜っている。「……砂糖を入れると、せっかくの苦みが消える。もったいない」と、フィオでさえこう言っているのに。


「まあ、この豆なら砂糖よりも蜂蜜のほうがいいかもな」


 オレが戸棚から蜂蜜の瓶を取り出してやると、シュシュアが「へえ、そうなんだ!」と目を輝かせた。


「この豆の持つナッツのような風味は、蜂蜜の持つ花の香りとぶつからない。むしろ、互いの香りを引き立て合うんだ。普通の砂糖だと、ただ甘さで上書きするだけになるからな。まあ、一番美味いのは、結局ブラックだが」


 ギガオンは、まだ半信半疑といった様子で、蜂蜜を垂らしたカップを恐る恐る口に運んだ。そして、一口。

 その虚ろだった瞳が、ほんのわずかに見開かれる。


「ふむ……。確かに、これなら飲める。……いや、美味いな」


 どうやら苦いコーヒーが苦手の見た目子供のおっさんでもこれならお気に召したようだ。

 それから三者三様のスタイルでコーヒーを味わう。しばしの静寂。

 やがて、カップを置いたギガオンが、意を決したように、重々しく口を開いた。


「……ジル殿。我、実はギルドマスターを辞めたいと思っているのだ」


 その言葉に、シュシュアが「ギガオン様……!」と悲痛な声を上げる。

 その、ギガオンの意を決したかのような告白に対し、オレは思ったことをそのまま口にした。


「ふーん、まあ、いいんじゃねえの」


 ん? これのなにが問題なんだ?

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