49話 これはもう重症だ

 ――我のがんばり、全部無駄だったのではないか?


 大陸最強と謳われた英雄の口から漏れ出たのは、あまりにも人間的で、情けない本音だった。

 静かな執務室に、その絶望的なつぶやきが重く響く。

 わたしは、尊敬する師のあまりに変わり果てた姿に、一瞬、言葉を失った。

 けれど、ただ同情して俯いているだけでは、何も変わらない。このままでは、この人は本当にギルドマスターをやめてしまう。

 わたしは、ぎゅっと拳を握りしめると、目の前で抜け殻のようになっている小さな英雄に、はっきりと、そして力強く言い放った。


「駄目です! ギガオン様がギルドマスターをおやめになったら、このギルドは、この国はどうなるんですか!」


 わたしの必死の言葉に、しかしギガオン様の瞳に光は戻らない。


「今のギルドに、他に誰がマスターを務められるというんですか! あの癖の強い冒険者たちを束ねられるのは、ギガオン様しかいません! それに、ジルさんはすごくめんどくさがり屋です! 絶対にギルドマスターなんてやりませんよ!」


 わたしがそう断言すると、ギガオン様は虚ろな瞳のまま、冷ややかに反論した。


「……別に、ジル殿がギルドマスターをやる必要はない」


「え……?」


「そもそも、もうギルドも、冒険者も、必要ないのだ」


 その、あまりにも衝撃的な言葉に、わたしは息を呑んだ。

 ギガオン様は、まるで遠い目をするかのように、静かに続ける。


「考えてもみよ。先日の一件がその証明だ。どれほどの災厄がこの国を襲おうと、あの男が指を一本鳴らせば、全てが終わる。我らが血反吐を吐いて積み上げてきた努力も、命懸けの覚悟も、あの男の前では茶番に過ぎん。……ならば、冒険者などという非効率な存在は、もはや不要であろう」


 その言葉は、あまりにも理路整然としていて、わたしは何も言い返せなかった。

 ジルさんという絶対的な力を知っているからこそ、その言葉が、残酷なまでに真実であることを、わたし自身が一番よく理解していたからだ。

 確かに、そうかもしれない……。

 わたしが内心で同意してしまったことを見透かしたように、ギガオン様は自嘲の笑みを深くする。

 ここで引き下がるわけにはいかない。わたしは必死に、反論の言葉を探した。


「で、でも、ジルさんは滅多に図書館から出てきませんよ! 王都が滅びかけて、わたしが助けを呼んで、やっと重い腰を上げたような人ですよ! だから、普段の平和は、わたしたち冒険者が守らないと!」


 その言葉を、待っていたかのように。

 ギガオン様は、氷のように冷たい視線を、まっすぐにわたしへと向けた。


「ほう。普段の平和は冒険者が守る、か」


 その声には、何の感情もなかった。


「―――ならばシュシュアよ、貴様自身はどうなのだ?」


「へ……?」


 ギガオン様は、ゆっくりと、昔を懐かしむように語り始めた。


「かつての貴様は、誰よりも目をギラギラさせていた。誰よりも強くなるのだと、誰よりも多くの魔物を屠るのだと、その全身から殺気にも似た気迫を放っていた。他の冒険者と些細なことでいがみ合い、常に上だけを見ていた。……だが、今はどうだ?」


 彼の言葉が、わたしの胸に突き刺さる。


「ジルと出会ってからというもの、貴様はすっかり牙を抜かれてしまったではないか。冒険者としての活動は最低限。生活費がなくなれば、仕方なく猫探しのような依頼を受ける。あの男と関わるようになってから、貴様の剣は一体何を目指しているのだ?」


 図星だった。

 わたしは、いつの間にか冒険者としての誇りよりも、今日の昼食が何かを考える時間を、何よりも優先するようになってしまっていた。

 そう、なによりも昼食を……。

 ふと、脳裏に、ジルさんが作る料理の数々が、走馬灯のように、そしてあまりにも鮮明に浮かんでくる。

 じゅわ〜っと肉汁溢れるポークソテー……とろっとろのクリーム煮……香ばしい照りをまとったてりやき……ふわふわ卵のオムライス……。

 いけない。考えていたらお腹が鳴りそう……!

 わたしが胸の前でぎゅっと拳を握りしめ、内心で葛藤していると、ギガオン様はさらに絶望を深めたようだった。


「見ろ! 貴様ですらそうなのだ!」


 彼は机に突っ伏すと、小さな身体でジタバタと足を動かし始めた。


「ああ、我の存在価値はもうない……! 我らが血を流してきた日々は、あの男の昼寝の時間よりも価値がなかったのだ……! うぉぉぉん、もう田舎に帰る……!」


「ちょ、ちょっと、ギガオン様!?」


 ここまで落ち込まれると、なんて声をかけたらいいのか、わたしもすっかり分からなくなってしまった。

 わたしがオロオロと手を彷徨わせていると、今まで黙って成り行きを見守っていたフィオが、こてん、と不思議そうに首を傾げた。


「……よくわからないけど」


 静かな執務室に、フィオの淡々とした声が響く。

 わたしと、机でジタバタしていたギガオン様の動きが、ぴたりと止まった。


「ギルドマスターは、ジルのご飯、食べたことあるの?」


 その、あまりにも場違いで、しかし核心を突いているかのような純粋な問いに、ギガオン様は突っ伏したまま顔だけを上げた。


「……ジル殿の、ご飯……? いや、ないが……。それがどうしたのだ……?」


 怪訝そうに呟く彼に、フィオは、まるで世界の真理を告げるかのように、きっぱりと言い放った。


「ジルのご飯食べれば、解決する」


 その一言が、雷のようにわたしの脳天を撃ち抜いた。


「そ、その通りよ! その手があったわ!」


 わたしは勢いよく叫ぶと、目をきらきらと輝かせながら、まだポカンとしているギガオン様に詰め寄った。


「その通りです、ギガオン様! ジルさんのご飯を食べれば、どんな悩みも、絶望も、全部どこかへ吹き飛んでしまいますよ! 保証します!」


「む、むぅ……。そんな馬鹿な……」


「馬鹿なことありません! 百聞は一見に如かず、いや、百見は一口に如かずです!」


 わたしは有無を言わさぬ勢いで、彼の小さな手を掴んだ。


「さあ、今すぐ行きましょう!」


「ま、待て! 今からか!?」


「あ……」


 窓の外を見ると、陽はとっくに落ちて、街は夜の闇に包まれていた。


「……そうですね。さすがにもう遅いですし、ジルさんも迷惑ですね」


 わたしは少しだけ残念そうに手を離すと、代わりにビシッと、人差し指を彼に突きつけた。


「よし、では明日の朝一番で行きましょう! いいですね、約束ですよ、ギガオン様!」


 わたしの勢いに、ギガオン様はただただ圧倒され、何かを言い返す気力もないのか、力なくこくりと頷くのだった。

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