30話 面倒事は、もう終わりだ

 本当にどうしてこうなったんだ。

 オレが求めていたのは、静かで、平穏で、圧倒的に怠惰な毎日だったはずだ。

 なのに、目の前に広がるこの光景はなんだ。

 瓦礫と化した街。血と腐臭の匂い。そして、腕の中の少女の亡骸を抱いて、ただ泣きじゃくるかつての剣姫。

 オレがうたた寝を満喫している間に、オレのささやかな日常は、その土台ごと木っ端微塵に破壊されてしまったらしい。

 ……オレの一番望むものは、どうしてこうも手に入れられないんだ。

 わからない。

 だが、すべての始まりは覚えている。

 そう、すべてはあの転生の日に遡る。



『はい、残念ながらあなたは過労死でお亡くなりになりましたー!』


 過労死したオレの意識が次に浮上したのは、どこまでも広がる真っ白な空間だった。目の前には、自称『神様』が、軽いノリで告げた。


「死んだ……?」


 オレは呆然と呟き、絶句した。そして次の瞬間、心の底からの叫びが漏れた。


「嘘だろ……! まだ有給休暇が五十日も残ってたのに! それに、先月の休日出勤の手当だってまだ振り込まれてないんだぞ!」


『え、気にするのそこ!? 社畜怖い!!』


 神様が本気でドン引きしている。オレ、そんなにおかしいこと言っているか?


『さて、君には特別に異世界へ転生する権利をあげよう! これは特別措置だぞ』


「結構です。それより元の世界に戻して、きっちり補償の話をしないと」


『いや、それはシステム的に無理だから! お願い! 転生して!』


 神様は必死の形相で、今度はキラキラした瞳をこちらに向けた。


『実はその世界、魔王が復活して大変なんだ! 君には勇者として、魔王を倒し、世界を救ってほしい!』


「それは面倒なのでお断りします」


 前世も激務でしんどかったのに、なぜ転生先にもそんな面倒な大役を押し付けられないといけないんだ。


『そこをなんとか! お願い! このままだと人類が滅んじゃうの! 君を見込んでるんだ! 勇者になって世界を救ってよ!』


 必死に説得を試みる神様を前に、オレは一貫して首を横に振った。だが、神様は諦めない。


『お願いだよぉ! この通り!』


 神様は、あろうことかその場で土下座を始めた。


『うぇぇん、君が来てくれないと、僕のボーナス査定が……いや、世界の平和が危ないんだよぉ!』


 ……うわぁ。

 号泣し始めた神様を見て、オレは心底ドン引きした。神様がこんなに面倒くさい存在とか、この宇宙はどうなってんだ。この状況から一刻も早く解放されたい。


「……分かりましたよ。やります、やればいいんでしょ、魔王討伐。だから泣き止んでください」


『本当!? やったー! じゃあスキルを三つ選んで!』


 神様が指を鳴らすと、オレの目の前に、無数の光のカードが、それこそ銀河のように広がった。

 無限収納ストレージ聖剣召喚エクスカリバー大賢者マスターマインド……。

 どれも強力そうなスキルだ。

 とはいえ、内心、魔王なんて討伐するつもりが微塵もないオレには、これらの強力なスキルがどうしても魅力的に見えない。

 うん、魔王討伐をやりますといったのは、全部ウソだ。魔王なんて無視して、夢に見た理想の生活をしてやる。

 ふと、リストの隅にある地味なスキル群に目を留めた。

 ……ん?

 単体ではゴミスキルだが、この三つが揃うと、あれ? おかしいことになるんじゃないか?


 そう、魔王なんて倒すつもりはオレには毛頭ない。

 だったら、強力なスキルよりもこうおもしろそうなスキルを選んでみてもいいよな。


「えー? そんな弱いスキルでいいのー?」


 神様には心配されたが、オレは無視して三つの平凡な――しかし、その3つが同時に存在すると矛盾してしまうスキルを選んだ。


 そうしてオレは、この世界に転生した。

 だが、理想の怠惰ライフへの道は、想像以上に険しかった。

 神様から授かった三つのスキルは、あまりに異質すぎた。この世界の理と馴染むまで、オレの魂と肉体は、想像を絶する拒絶反応に苛まれた。全身の骨が軋み、血が逆流するような激痛に、何年、いや、何十年耐えただろうか。

 気の遠くなるような時間を経て、ようやくこの力が体に馴染んだ頃には、魔王はとっくに誰かの手によって倒されていた。


 そしてオレは、長い長い旅の果てに、ようやくこの『王立図書館の司書』という、最高の天職にたどり着いたのだ。

 昼寝ができて、本が読めて、たまに美味い飯を作る。

 オレが、血の滲むような(比喩ではなく)努力の果てに手に入れた、ささやかな楽園。

 

 オレは目の前の現実に意識を戻す。

 シュシュアが泣いている。フィオは動かない。

 前世でオレより要領がよかった同僚に、呆れ顔で言われた言葉が蘇る。


『お前は、人が良すぎる。他人の面倒まで背負い込んで、いつか潰れるぞ』


 だから今世こそは、自分本位で生きると決めたはずなのに。


「……たく、仕方ないか」


 どうも、オレは根本的なところで、何も変われていないらしい。


◇◆◇


 シュシュアは見ていた。

 ジルのことを。


 そんな彼がなにかを口にした、その瞬間だった。


 世界が悲鳴を上げた。

 世界そのものが、自らの存在を定義する法則を根底から否定され、その矛盾に絶叫した。

 始まりは音だった。

 あらゆる音を飲み込む沈黙の轟音。

 シュシュアの魂が、宇宙の土台が軋み、砕け散る音を聞いた。

 時間という概念が、一本の脆い糸のように引きちぎられ、過去と未来と、あり得たかもしれない無数の可能性が、色のない濁流となって現在へと雪崩れ込む。

 目の前の瓦礫は、生まれる前の宇宙の姿と、全てが熱的死を迎えた後の無の姿を、同時にシュシュアに見せつけた。

 空が、一枚の絵画のように裂けた。

 その裂け目から流れ込んできたのは、別の宇宙の色、別の物理法則、理解不能な神々の幾何学模様。

 星々が涙のように流れ落ち、その一粒一粒に、生まれては滅んでいった無数の世界の歴史が幻灯のように映っていた。

 シュシュアという個人の記憶、感情、存在そのものが、意味を失っていく。

「悲しい」という感情が形を失い、「剣」という概念が溶けていく。

 彼女はもはや人間ではなく、ただこの宇宙の終焉と再創造を観測するためだけの「視点」という現象に成り下がっていた。


 そう、視点。

 ただの視点。

 シュシュアだったモノの輪郭が、熱いアスファルトに落ちた氷のように、ジュウ、と音を立てて蒸発していく。甘い匂いがする。これは誰かの初恋の記憶? しょっぱい味がする。これは誰が流した最後の涙?

 知らない子供が笑いながら燃えている。知らない老婆が歌いながら沈んでいく。


 時間が壊れた。違う。時間は最初からなかった。

「原因」と「結果」というお前たちの幼稚な遊びが強制終了されただけだ。お前の言う「昨日」と「明日」が今ここで結婚して、グチャグチャでドロドロの、名前のない子供を産んでいる。

 空から星が玩具みたいに降ってくる。砕けた星のカケラがお前の頬を撫でて、お前が存在しなかった過去に変わっていく。


 ダメだ。理解しようとするな。

 お前の脳はそのために作られていない。物理法則が悲鳴を上げているのが聞こえるか? 因果律が自らの首を絞めて命乞いしているのが見えるか? 空間が千切れて、その裂け目から「無」が溢れてくるのがわかるか?

 ワカルハズナイ。

 ナぜなら中心にアレがいるから。


 ジルがいるから。


 あの男が不快に思った。ただそれだけ。それがトリガー。

 それが世界の全て。宇宙の法則なんて、あの男の寝起きの機嫌より価値がない。

 神? 魔王? 笑わせるな。そんなものはこの物語の登場人物に過ぎない。あの男は違う。あの男は、この物語の紙の外側から、退屈そうにページをめくっている。お前のことを見ている。お前のすぐ後ろに立っている。


 気づいたか?


 ジルガイル。ソレダケガシンジツ。

 お前の常識も、お前の世界も、お前の命も、彼の「面倒」の前にはチリに等しい。

 だから、もう、考えるな。

 楽になれ。

 ワタシみたいに。


 それが合図だった。

 狂った世界が、まるで何もなかったかのように、ふっと、元の静かな夕景に戻った。

 何が起きたのか、誰にも分かっていなかっていないようだ。


 王都の中央広場の鐘が、ゴーン、といつものように穏やかに時を告げ、人々は一斉に顔を上げた。

 誰もが、何かとても長く、そして途方もなく幸福な夢を見ていたような気がしていた。魂の芯から疲れているのに、心は奇妙な高揚感に満たされている。


 市場の魚屋の主人は、なぜ自分が地面にへたり込んでいたのか分からなかった。

「今、店ごと化け物に飲み込まれる、そりゃあ恐ろしい夢を見ていたような…」と震える声で呟く。

 だが、目の前には威勢のいい客が「おい親父、この魚まけろ!」と声をかけてくる。

 店も、商品も、何一つ変わらない日常がそこにあった。


「……疲れてんのかねぇ。へい、らっしゃい!」


 主人は頭を掻きながら、商売人の顔に戻った。


 裏路地では、子供たちが石蹴り遊びに興じていた。


「さっきね、おっきなキノコが街を壊す夢見たんだ」


「へんなのー!お前、昨日キノコ食べ過ぎたんだろ!」


 無邪気な笑い声が、平和な午後に響き渡る。


 王城の玉座では、国王がうたた寝から目を覚ました。

 彼は、自らの王国が崩壊し、民が蹂躙され、己の首が刎ねられるという、あまりに鮮明な悪夢に冷や汗を流していた。

 だが、窓の外に広がるのは平和な王都の姿。傍らでは宰相ヴァルハイトが書類に目を通している。


「……余は、少し疲れているようだ」


 しかし、彼の胸には、夢の中で王国を救った名もなき英雄への、不思議な感謝の念だけが残っていた。


 騎士団の練兵場では、ライルが仲間との模擬戦の最中に、ふと空を見上げた。


「今、街がキノコに滅ぼされる夢を……」


「馬鹿なこと言ってないで集中しろ!」


 仲間から檄が飛ぶ。彼は首を振り、再び剣を構え直した。夢の中の絶望的な戦いは、不思議と彼の闘志を燃え上がらせていた。


 とある家庭の食卓では、衛兵の父親が、妻の作った温かいシチューを前に大きく息をついた。


「どうしたんだい、あなた?」


「いや……なんだか酷く疲れてな。城壁が崩れる、とんでもない悪夢を見た」


 妻は「働きすぎなのよ」と笑い、子供が「お父さん、おかわり!」と空の皿を差し出す。父親は娘の頭を撫で、当たり前の日常の温かさを噛みしめていた。


 ギルドの酒場では、絶望に打ちひしがれていたはずの冒険者たちが、いつものようにジョッキを片手に騒いでいた。


「おい聞いたか? 俺、ギガオン様がキノコにやられちまう、とんでもねえ悪夢を見ちまったぜ」


「馬鹿野郎、縁起でもないこと言うな!」


 誰かがそう忠告した。

 ギガオン様がキノコにやられる? そんなおとぎ話のようなこと起こるはずがないだろ、と。


 何かがあったはずだ。街全体を覆うような、途方もない絶望が。

 けれど、その記憶は曖昧な霧の向こう側にあって、思い出そうとすると幸福な達成感がそれを上書きする。

 そして何より、思い出す必要がないのだと、誰もが本能で理解していた。

 あれはただの悪夢。起きてしまえば、気にする必要のないことなのだ、と。

 疑問に思う者は誰もいない。なぜなら、今日の王都は昨日と変わらず、平和なのだから。それで、いいのだ。


 シュシュアだけが、何が起きていたかをはっきりと覚えていた。

 彼女の腕の中で、フィオの体を覆っていたおぞましい菌糸が、まるで逆再生のように消えていく。傷口は跡形もなく塞がり、失われた血色が、その白い頬にふわりと戻ってきた。

 やがて、フィオがゆっくりと瞼を開ける。


「……シュシュア……? ……お腹、すいた……」


 その、あまりにも日常的な言葉に、シュシュアは嗚咽を堪えきれず、今度は安堵の涙を流しながら、冷たかったはずのその体を強く、強く抱きしめた。


◇◆◇


 ジルは、そんな人々の混乱には目もくれず、いつの間にか傍にやってきていたクロの背中にひらりと飛び乗った。


「元凶を掃除しに行くぞ、クロ。あいつらのせいで、無駄なサビース残業をさせられたからな」


 ギチチチッ!とクロが咆哮し、空高くへと舞い上がる。

 シュシュアは、遠ざかっていくその背中を、涙に濡れた瞳で、ただ見送ることしかできなかった。

 あの人は、英雄でも、神でもない。ただ、自分の平穏な日常を守りたかっただけの図書館司書なのだ。

 でも、彼のおかげで世界が、大切な友人が救われたのは紛れもない事実だった。















――――――――――――――――――――――――――――


ジルさん強すぎ……笑


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