29話 崩れ落ちる日常

 思考が、凍り付いた。

 ギガオン様からの通信が、肉の引き裂かれる音と共に途絶えた。最強の英雄の、最後の絶叫。その事実が、脳に焼き付いて離れない。

 城壁の上を支配していたのは、死そのものよりも深い沈黙だった。隣に立つ騎士が、カラン、と虚しい音を立てて剣を取り落とす。誰もが、地平線の彼方で天を覆う巨大なキノコを見上げ、ただ呼吸さえ忘れていた。


「―――た、立ちなさいッ!」


 私が喉を振り絞って叫んだ、まさにその瞬間だった。


 ―――ゴオオオオオオオオオオオオッ!!


 空気を震わせる轟音と共に、世界が揺れた。

 地平線の彼方から伸びてきた、山と見紛うほどの極太の菌糸が、私たちが立つ王都の城壁を、まるで紙細工のように叩き潰したのだ。

 凄まじい衝撃波。石壁は砕け散り、粉塵が嵐のように舞い上がる。立っていることなどできず、私も、隣にいた騎士たちも、フィオも、全員が内側へと吹き飛ばされた。


「きゃあああっ!」


 受け身も取れず、私は家々の屋根を突き破り、石畳の道へと叩きつけられる。全身を打つ激痛に呻きながら顔を上げると、そこには既に地獄が広がっていた。

 巨大な穴が開いた城壁から、化け物の津波が、絶望の濁流となって王都になだれ込んでくる。空からは死の胞子が雪のように降り注ぎ、街は阿鼻叫喚に包まれた。


「いやああああっ!」


「助けて! お母さん!」


 平和な昼下がりを過ごしていたはずの市民たちが、逃げ惑い、泣き叫ぶ。胞子を吸い込んだ者は、喉を掻きむしって血を吐き、その体からおぞましいキノコを生やして倒れ伏す。菌糸に捕らえられた者は、生きたまま養分を吸われ、見る影もなく萎んでいく。

 美しいはずの街並みが、悲鳴と腐臭に満ちた死の森へと、急速に変貌していく。


「フィオ! 行くわよ!」


「うん!」


 私とフィオは、すぐさま立ち上がり、市民たちを助けるために駆け出した。私が雷の剣で菌糸を薙ぎ払い、フィオが影の力で人々を安全な場所へと誘導する。

 瓦礫の下敷きになった子供を助け、化け物に襲われかけていた老婆を庇う。だが、あまりにも数が多すぎる。一人を助けている間に、すぐ隣で十人が死んでいく。助けを求める悲鳴が、四方八方から聞こえてくるのに、私たちの手は二本しかない。


「くっ……! きりがない……!」


 あまりの無常さに、心がすり減っていくのが分かった。

 そして、最悪の事態が起こる。

 背後から、さっきまで背中を預け合っていたはずの騎士が、虚ろな瞳で襲いかかってきた。彼の顔には、既に紫色の菌糸が醜く浮かび上がっている。


「やめて! 目を覚まして!」


 彼は私の声に反応することなく、その剣を無感情に振り下ろしてきた。私は咄嗟に剣で受け止めるが、本気で反撃することができない。彼は、ついさっきまで、この街を守るために命を懸けていた仲間なのだ。

 その躊躇いが、命取りだった。

 私がかつての仲間に足止めされている隙に、一体の巨大な化け物が、背後からフィオへと迫っていた。


「フィオ、危ない!」


 私が叫んだ時には、もう遅かった。

 化け物の腕から伸びた菌糸の槍が、私を庇うように前に出たフィオの小さな体を、深々と貫いていた。


「……ぁ……」


 フィオの口から、小さく空気が漏れる。その体から力が抜け、ゆっくりと私の方へ倒れ込んできた。


「フィオ! フィオ、しっかりして!」


 私は彼女を抱きかかえる。傷口からは血ではなく、紫色の粘液が溢れ出し、そこからおぞましい菌糸がフィオの体の中へと侵食していくのが見えた。


「シュシュア……逃げ……て……」


 それが、彼女が最後に振り絞った言葉だった。

 フィオの瞳から光が消え、その体はぐったりと動かなくなる。

 私の腕の中で、たった一人の家族だった少女が、ゆっくりと『何か』に変わっていく。

 ああ……ああああ……。

 もう、どうすればいいの。

 仲間は敵になり、フィオまで……。王都は燃え、人々は死んでいく。ギガオン様も、アレクシオンさんたちも、もういない。

 あの、天を覆う巨大な絶望を前に、私たち人間は、あまりにも無力だった。

 あんなものに、どうやって勝てというの。

 そうだ……あんなもの……あんな規格外の化け物には、きっと、あの人でさえ……。


 ―――ジルさんでさえ、勝てるはずがない。


 一度、そう思った。

 脳裏に浮かんだ、あの面倒くさそうな顔。神々すら、まるで迷惑な訪問販売員をあしらうかのように追い払った、あの常識外れの光景。

 いや、でも、眼の前の敵は、神様なんかよりも、もっと……。

 絶望が、私の心を完全に覆い尽くそうとした、その時。


『うまい飯を食って、昼寝して、ぐーたらする。これ以上の幸せなんて、この世にはないからな』


 ふと、あの人の声が聞こえた気がした。

 そうだ。あの人は、あの静かで穏やかな日常を、何よりも大切にしていた。美味しいご飯と、静かな昼寝の時間。私たちの、あの幸せな時間を。

 このまま街が滅んだら、あの人の日常も、私たちのあの場所も、全部なくなってしまう。


 ―――もし、あの人なら。


 ―――あの、規格外の理不尽の塊みたいな人なら。


 この絶望的な状況すら、面倒くさそうにため息一つで、ひっくり返してくれるんじゃないだろうか。

 それは、もはや祈りだった。

 他に、何も残されていなかった。

 私は、腕の中で冷たくなっていくフィオを抱きしめ、天を仰いだ。もう、何も考えられなかった。ただ、本能のままに、最後の希望の名を絶叫した。


「ジルさん……助けてぇぇぇぇぇっ!」


 不意に、目の前に影が差した。 

 顔を上げると、そこに、いるはずのない男が立っていた。

 瓦礫と死体に埋め尽くされた地獄の真ん中に、埃一つついていない普段着のまま、心底面倒くさそうに私を見下ろしている。

 ジルさんは、困惑したような表情で、こう言った。


「えっと、シュシュア。これどういう状況?」



◆◇◆


 困惑した、静かな声。いつもの気怠さとは違う、ただ目の前の現実を理解しきれていない響きが、そこにはあった。

 その声が、私の張り詰めていた最後の糸を、ぷつりと断ち切った。


「ジル、さん……!」


 涙腺が、壊れた。

 嗚咽が止まらない。言葉にならない。それでも、伝えなければ。この絶望を、終わってしまったこの世界を。


「森、が……王都が、化け物に……! ギガオン様も、アレクシオンさんたちも、みんな……みんな、やられて……!」


 言葉が、支離滅裂になる。うまく説明できない。

 だけど、そんなことよりも、もっと大事なことが。


「フィオが……! 私のせいで、フィオが……!」


 腕の中で、少女の体は氷のように冷たい。傷口から伸びるおぞましい菌糸は、既に彼女の白い肌の半分を覆い尽くしていた。もう、ぴくりとも動かない。呼吸も、していない。

 私の腕の中で、たった一人の家族が、死んでしまった。

 その事実が、私の心を何度も何度も突き刺す。


「う……ああああああああっ!」


 もう、何も考えられなかった。ただ、ジルさんの前で、子供のように泣きじゃくることしかできない。

 ジルさんは、そんな私を見て、何か言おうとして、やめて、ただ立ち尽くしていた。その瞳には、目の前の惨状と私の姿が、うまく結びついていないかのような、深い混乱の色が浮かんでいた。



 いや、マジでどういう状況なんだ?

 オレは目の前で泣き崩れるシュシュアと、その腕の中でぐったりしているフィオを見つつも頭の中が困惑していた。

 そもそも、話は数十分前に遡る。

 いつものように、受付カウンターの特注椅子で極上のうたた寝をキメていたオレは、ふと、奇妙な静けさで目を覚ました。

 あれだけ騒がしかった外の喧騒が、いつの間にかぴたりと止んでいる。というか、静かすぎる。

 壁の時計を見上げて、オレはぎょっとした。

 とっくに閉館時間を過ぎている。完全に寝過ごした。


「しくじった!」


 定時で即帰宅するのがオレのモットーだ。

 なのに、まさかの寝坊でサービス残業をしてしまうなんて。

 そんなことを考えながら、慌てて帰り支度を整え、重い扉を開けて外に出た瞬間、オレは固まった。

 そこに広がっていたのは、いつもの穏やかな王都の夕景ではなかった。

 空は毒々しい紫色に染まり、街のあちこちから黒煙が上がっている。遠くで、悲鳴のような音が聞こえる。そして、鼻をつくのは、血と腐敗の匂い。

 いや、待て。落ち着け、オレ。

 こういう時は、まず状況を整理するんだ。前世で学んだだろ。

 ええと、つまり、オレが最高の昼寝を満喫している間に、何者かが王都を半壊させた、と。

 ……うん。

 これは……どうすればいいんだ? 流石に、こんな事態は初めてだ。


 呆然としていると、瓦礫の向こうから、聞き覚えのある絶叫が響いてきた。

『ジルさん……助けてぇぇぇぇぇっ!』

 声のする方へ駆けつけ、オレは見た。

 泣きじゃくるシュシュアと、その腕の中で、まるで人形のように動かなくなったフィオを。


「し……死んじゃった……。私のせいで……」


 は?

 ……死んだ?


 オレは腕の中で冷たくなったフィオと、泣きじゃくるシュシュア、そして瓦礫と化した街を、ただ静かに見渡した。

 この景色は、受け入れられない。

 だって、オレが求めていた理想の異世界生活はもっとこう穏やかで平和な毎日だ。おいしい昼飯をつくっても、これじゃあ気が散ってまともに食べられない。

 だから、なんとかする必要がありそうだ。

 オレは、泣きじゃくるシュシュアの頭に、ぽん、と軽く手を置いた。


「安心しろ。オレに全部任せればいい」


 びくりと肩を震わせるシュシュアをそのままに、オレはフィオへと向き直ると、その小さな体にそっと手をかざした。

 うん、これならまだ余裕で間に合う。

 さて、久々にがんばるか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る