14話 宰相は結論を出す
リーダーの体が黒い塵となって崩れ落ちる。その塵を吸い込んだ他の暗殺者たちが、苦悶の絶叫を上げた。筋肉が異常に膨れ上がり、血管が浮き出て、その瞳が理性なき獣の赤黒い光に染まっていく。
「グォォォォオオオッ!!」
もはや人語ではない咆哮。涎を垂らし、ただ純粋な破壊衝動の塊と化した狂鬼たちが、ヴァルハイトだけでなく、ジル、そして図書館そのものに牙を剥いた。
一人が、手近な壁に殴りかかった。古い石壁が砕け、破片が飛び散る。
その騒音と振動が、ジルの我慢の限界を超えさせた。
それまでの面倒くさそうな色が完全に消え失せ、絶対零度の苛立ちがその瞳に宿る。
「……だから、静かにしろと言っただろ。ここは図書館だぞ」
次の瞬間、ジルの姿が掻き消えた。
ヴァルハイトの動体視力が、何一つ捉えられない。ただ、一陣の風が頬を撫でただけだ。
ドンッ!という鈍い音。視線を向けると、壁を殴ったはずの狂鬼が、図書館の中央で仲間と頭をぶつけ気絶していた。
だが、それは序章に過ぎなかった。理性を失った獣たちは一体を失ったことで臆するどころか、その憎悪をさらに増幅させ、残る全員が同時に動いた。ある者は床を砕きながら突進し、ある者は書架を駆け上がり天井から襲い来る。四方八方からの同時攻撃。狙いはヴァルハイトごと、この図書館の空間そのものを圧し潰すこと。
「チッ……面倒が増えた」
ジルが忌々しげに舌打ちした瞬間、ヴァルハイトの首根っこを無造作に掴む巨大な握力があった。
「なっ!?」
抵抗する間もなく、まるで猫の子のようにヴァルハイトの体は宙に浮く。
次の瞬間、凄まじい轟音と共に世界が反転した。ジルはヴァルハイトを小脇に抱えたまま、床を蹴ったのだ。ただそれだけで、二人の体は図書館の天井付近へと射出された。
「グォォォオオッ!」
背後から、獣の咆哮が迫る。振り返らずとも分かる。狂鬼と化した暗殺者たちが、魔力によって虚空を蹴る魔術『
ヴァルハイトの理解と計算を遥かに超えた、一方的な蹂躙が始まった。
ジルはヴァルハイトを掴んだまま、まるで重力を無視したかのように空中で静止する。狂鬼の一人が憎悪のオーラを刃として飛ばす「
ジルは一切の攻撃をしない。ただ、拳の軌道を逸らし、刃の向きを変え、突進してきた狂鬼同士を衝突させるだけ。ヴァルハイトを掴んでいない方の手で、鬱陶しい虫を払うかのように、一人、また一人と叩き落としていく。
王都を滅ぼすとまで恐れた禁術の化身たちが、まるで子供の遊びのようにあしらわれていく。
その目的は、もはやヴァルハイトにも明らかだった。目の前の人間を排除することではない。自らの平穏な空間をこれ以上荒らさせないために、『騒音』の発生源を物理的に引き剥がし、処分すること。ただそれだけだ。
やがて、空を舞っていた全ての狂鬼が地に墜ちていく。儀式による強化の代償が、彼らの肉体を蝕み尽くしたのだ。
ジルは息一つ乱さず、まるで何事もなかったかのようにゆっくりと降下し、破壊された天井の穴から図書館へと戻る。そして、ヴァルハイトを床に無造作に降ろした。
彼は服についた埃を軽く払うと、完全に戦闘能力を失った者たちを一瞥し、心底うんざりしたように言った。
「……で、もう暴れないか? 静かになったなら、昼寝の続きをしたいんだが」
ヴァルハイトは、目の前で起きた全ての出来事を前に、完全に思考を放棄していた。
先ほどまでの下卑た企みが、赤子の見る夢よりも愚かで、矮小な戯言に思えた。
手駒にするだと? 馬鹿な。あの態度、この圧倒的な力を見て、まだそんな夢想を抱けるほど、自分は愚かではなかった。
ヴァルハイトの脳が、国家の治癒士としての冷徹な計算を、猛烈な速度で再開する。
導き出される第一の結論は絶対だった。
もし、この男が本気でこの国を欲すれば、王も、貴族も、自分自身も、一夜にして抵抗すら許されずに排除される。
第二の結論は、世界規模の混沌だった。
彼の存在が諸外国に知られれば、誰もがこの規格外の力を欲しがるだろう。我が国は彼の力を巡る世界的紛争の中心地となり、焦土と化す。いや、彼自身が気まぐれに世界を玩具にするかもしれない。
英雄ではない。そんな都合の良い器に収まるものか。彼は神か、あるいは世界の理そのものを破壊しかねない災厄だ。その力は、人の世の均衡をあまりにも容易に崩壊させる劇薬なのだ。
ならば、どうすべきか。
答えは、一つしかない。
この『神』には、この静かな神殿――図書館で、機嫌よく眠っていてもらうのが最善だ。
彼が望む平穏な日常を提供し続けること。それこそが、この国、いや、この世界にとって最も有効かつ唯一の安全保障政策になる。
『国家の治癒士』は、自らの浅はかさと、触れてはならない世界の真理に触れてしまった恐怖から、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
そして、図書館取り壊しの命令書を、拳のなかで力強く握りつぶした。
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