15話 すれ違いは戦いの直後に

「ふぅ……」


 オレは、大きなため息をつくと、さっさといつもの受付カウンターの椅子に戻ろうと踵を返した。これ以上暗殺者たちは暴れることはないだろう。これでようやく静かになる。最高の昼寝タイムの再開だ。

 ……と、その足がぴたりと止まった。


 視線の先、呆然と立ち尽くすヴァルハイト公爵の姿が目に入る。

 ……あ。

 そうだ。こいつ、まだいたんだった。

 国のトップ、宰相閣下。

 オレは、今しがたまでの自分の言動を、急いで脳内で再生した。


 寝起きに「うるさい」「安眠妨害だろ」。

 助けてやった相手からの勧誘に「最高に面倒くさいのが来たな」。

 挙句の果てには、猫の子みたいに首根っこを掴んで空まで連れ回した。

 寝ぼけていたとはいえ、最高に失礼な態度ではないか。


「……」


 生々しい現実がそこにあった。

 ……これ、ものすごく、とてつもなく、致命的にマズいのでは?

 相手は宰相だぞ。気に食わない役人を一人クビにするどころか、不採算施設を一つ取り潰すなんて、ハンコ一つでできる立場のはずだ。

 この最高の職場が、オレの楽園が、こいつの鶴の一声で、今この瞬間に消滅する可能性があるのでは?

 さーっと、血の気が引いていくのが自分でも分かった。

 まずいまずいまずい! これは今すぐごまをすらねば!


 オレはくるりと向き直ると、椅子に戻ろうとしていたとは思えない俊敏さで宰相に駆け寄り、完璧な九十度のお辞儀をかました。


「こ、これはこれはヴァルハイト公爵閣下! 先程は大変なご無礼を! 緊急事態とはいえ、閣下のお体を乱暴に扱ってしまいましたこと、深く、深くお詫び申し上げます!」


 オレの豹変ぶりに、宰相は完全に度肝を抜かれたようだった。さっきまでの真剣な表情はどこへやら、見たこともないくらい困惑した顔で固まっている。


「い、いや……顔を上げよ。君のおかげで命が救われたのだ、気にしてはおらん」


「いえ、気にしていただかなくては! ああ、何かお飲み物でも! と、申しましても、このような場所では井戸水くらいしかお出しできるものが……。おお、そうだ! 私が育てているお茶の葉が!」


 オレの必死のごますりは、宰相の困惑をさらに深めているようだった。何かを探るような目でオレをじっと見つめている。その沈黙が怖い。めちゃくちゃ怖い。


「……ジル殿」


 やがて、彼は意を決したように口を開いた。


「君がこの図書館の……いや、その『平穏』を望むのであれば、国はそれを保証せねばなるまい」


 来た! 何か取引を持ちかけてくる気だ!

 オレはゴクリと喉を鳴らし、来るべき審判の時を待った。


「……君ほどの男が過ごすには、この場所はあまりに古びすぎている。国の怠慢であったと認めよう。そこでだ。最高の資材と職人を手配し、この図書館を完璧に改修しようと思う。床も、壁も、全てだ。君が快適に過ごせるよう、国が総力を挙げて支援する」


「…………は?」


 予想の斜め上をいく提案に、オレの思考は完全に停止した。

 最高の、資材と、職人……?

 国が、総力を挙げて……?


 オレの脳内に、悪夢のような光景が広がった。

 ハンマーを振り回す屈強な男たち。資材を運び込むけたたましい声。設計図を広げる役人たち。そして、綺麗になった図書館に押し寄せる、大勢の利用者たち……!


 冗談じゃない!

 そんなことをされたら、オレの静かで怠惰な日常はどこへ行くんだ!

 それだけは、絶対に阻止しなければ。


「いえいえいえいえ! とんでもございません! 滅相もない!」


 オレはブンブンと、ちぎれんばかりに首を横に振った。


「閣下のお心遣いだけで、このジル、感涙にむせんでおります! ですが、改修など無用です!」


「む……だが、これではあまりに……」


「この古びた様こそが良いのです! むしろ、これこそが至高なのです!」


 オレは必死に頭をフル回転させ、それっぽい言い訳をひねり出した。


「閣下! この図書館の真の価値は、この寂れた……もとい、歴史の重みを感じさせる『風情』にこそあるのです! 先人たちの知の探求の息遣いが、この柱の傷一つ、壁の染み一つに宿っている! これをピカピカの新品にしてしまっては、魂が抜けてしまいます!」


「ほ、ほう……魂、か」


 宰相が、何か納得したような、していないような複雑な顔をしている。いける、これはいけるぞ!


「この窓から差し込む光が、空気中の埃を照らし出してきらめく様をご覧ください! これも計算され尽くした美しさ! 宇宙の真理すら感じさせます! 最高の環境です!」


 我ながら、むちゃくちゃな言い分だ。

 だが、宰相はオレの熱弁に気圧されたのか、あるいは何かを深く考え込んでいるのか、押し黙ってしまった。その怜悧な顔には、『こいつは何を言っているんだ』という素の困惑と、『いや待て、何か深遠な意味があるのか』と必死に何かを理解しようとする苦悩の色が浮かんでいるように見えた。


「……そうか」


 長い沈黙の後、宰相はぽつりと呟いた。


「……わかった。君の言う『風情』と『魂』、か。私の考えが浅はかだったようだ。改修の件は、一度白紙に戻そう」


「おおっ! ご理解いただき、かたじけない!」


 やった! 助かった!

 心の中でガッツポーズするオレに、宰相はどこか遠い目をしながら続けた。


「だが、何か要望があればいつでも言うように。君の平穏は、国が保証する」


 彼は何か大きな決断を下したような、それでいて深い悩みに沈んだような顔をしながら、そう口にしていた。

 ふぅー……。

 危なかった……。

 どっと疲労感が押し寄せる。やっぱり、権力者との会話は寿命が縮むな。

 だが、これでまた平和な日常が戻ってくるはずだ。


◆◇◆


 王城への帰路、馬車の重厚な揺れに身を任せながら、公爵ヴァルハイト・グレーフェンベルクは固く目を閉じていた。

 窓の外では、後から駆けつけた騎士団が、意識を失った暗殺者たちを罪人として手際よく連行していく喧騒が遠ざかっていく。先に地に伏していた護衛騎士たちも、今は回復し、馬車の周囲を固めていた。物理的な脅威は、去った。だが、ヴァルハイトの心には、先ほどまで天空で繰り広げられた光景と、魂に刻み込まれた畏怖が、嵐のように渦巻いていた。


 沈黙に耐えかねたのか、隣に座る腹心の護衛騎士長が、おずおずと口を開いた。


「閣下……お怪我は。そして、あの司書……何か不都合がございましたら、直ちに……」

「やめよ」


 ヴァルハイトは、静かにその言葉を遮った。ゆっくりと瞼を開け、その目はどこか遠くを見ている。


「ライナー、私は今日、真に高潔な魂を持つ人物に出会った」


「……は?」


 騎士長の、間の抜けた声が馬車の中に響く。ヴァルハイトは彼の戸惑いには頓着せず、まるで自身の信念を確かめるかのように、静かに言葉を続けた。


「考えてもみよ。あれほどの力を持ちながら、彼は何を望んだ? 富か? 地位か? 名誉か? 何一つ望まなかった。私が差し出した全てを、彼は一笑に付したのだ」


「は、はあ……」


「彼はただ、古びた図書館の『風情』と『魂』が大事だと、そう言った。歴史の重みを尊び、静かに過ごすこと以上の贅沢はない、と。……なんと、清廉なことか」


 その言葉に、騎士長は完全に沈黙した。彼の目には、あの司書はただの無気力で不遜な男にしか映らなかったに違いない。主君が何を言っているのか、全く理解が及ばないといった表情だ。

 だが、ヴァルハイトはそれでよかった。この感動は、己だけが理解していれば良い。


「私は……恥ずかしながら、彼のその欲なき心に、すっかり心を打たれてしまったよ。利益や効率ばかりを追い求めてきた我が身を、恥じるばかりだ」


 ヴァルハイトの脳裏に、改めてジルの姿が浮かぶ。

 そうだ、あの力はまさしく災厄。あの男がその気になれば、国も世界も一夜にして終わるだろう。だが、彼はそうしなかった。それどころか、その力をひけらかすことすら望まない。

 富も名誉も求めず、ただ静寂を愛し、古きものに宿る魂を尊ぶ。

 そのような清き心が、この世にまだ残っていたとは。

 ならば、自分にできることは何か。


 ヴァルハイトは騎士長に、そして馬車に乗る全ての護衛たちに、厳かに、しかし確固たる意志を込めて命じた。


「図書館の取り壊しは中止だ。それどころか、あの場所は『聖域』として、我々が最大限の敬意を払って保護せねばならん。ジル殿の平穏を乱す者は、たとえ何者であろうと私が許さん。肝に銘じておけ」


「は、ははっ!」


 騎士たちが、戸惑いながらも畏まって頭を下げる。

 ヴァルハイトは満足げに頷くと、再び窓の外に視線を戻した。

 その胸中には、新たな決意が宿っていた。

 もはや、あの災厄をただ眠らせておくだけでは不十分だ。あの気高い魂が望む平穏を、このヴァルハイト・グレーフェンベルクが、文字通り国の総力を挙げて守り抜く。それこそが、危うい均衡の上にあるこの国と世界を守る唯一の道であり、あの男に対して己が示せる、最大限の敬意の形であった。


 かくして、公爵ヴァルハイト・グレーフェンベルクは、ジルという男の最も熱心な「後援者」となるのだった。

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