はぐれ者、その二

 彼がベトナムの地を踏んだ瞬間、胸の奥は高鳴りで震えていた。空港の自動扉を抜けた先に広がるのは、まとわりつくような湿熱の空気だった。そこには肉を炙る匂いと排気ガスの黒煙が混ざり、通りには洪水のようにオートバイが溢れていた。ヘルメットを着けず風を切る人々の姿は、まるで映画のワンシーンだった。ネオンの灯りは赤や青に滲み、屋台の掛け声は絶えず耳を打ち、工場の煙突からは休むことなく黒煙が吐き出されていた。混沌と雑踏の只中に立ちながら、彼は「こここそはぐれ者の居場所だ」と確信した。彼は自分をチェ・ゲバラの継承者だと信じ、この地で新たな冒険譚を書き始めるつもりだった。


 しかし現実は容赦なく彼を打ちのめした。派遣先の工場では、労働者たちは安全規則など存在しないかのように振る舞った。素足で錆びた鉄くずを担ぎ、厚手の保護手袋は「暑い」と言って床に投げ捨てる。切断機の刃のすぐ脇でサンダルのまま作業し、煙草をくわえたまま油の染みた床を歩く者さえいた。


 彼は英語と片言のベトナム語で「手袋をしろ」「ヘルメットをかぶれ」と繰り返し注意した。だが返ってくるのは曖昧な笑顔か、背後で交わされるクスクス笑いだった。ときには「Ông tây này」と囁かれ、あからさまに鼻で笑われることもあった。


 工場を出れば、そこに広がるのも同じ「規則なき世界」だった。交差点では信号が赤でも、バイクの群れが独自のルールで押し通す。右からも左からも、クラクションを鳴らしながら群れが雪崩れ込み、交差点の中央で互いにぶつかりそうになっては手を振り回し、「行け、行け!」と叫ぶ。車道と歩道の境界はなく、屋台の客や子供がその隙間を縫って渡っていく。初めてその光景に立ち尽くしたとき、彼は「文明と未開」の落差を骨の芯まで感じた。


 怒りと落胆は同時に彼を蝕み、胸の奥で「ここで英雄になる」という夢が泥濘に沈んでいく音がした。


 夜になると、彼は会社が用意した狭い公寓に帰った。薄暗い机の上には、必ず婚礼写真とイタリア旅行の写真が広げられていた。そこに映る二人の笑顔は輝かしく、だからこそ彼を苛んだ。彼はビール缶を片手にその写真を見つめ、一本、また一本と空けていった。やがてアルコールだけでは足りず、医師から処方された抗鬱剤を併用し、眠れぬ夜を麻痺させることでしか過ごせなくなっていった。


 ベトナムの若い女性たちの澄んだ瞳と笑顔に、彼は一時の慰めを求めた。何人かを口説き、食事や散歩に誘ったが、話題が深まるたびに彼女たちは必ず口にした。「私を連れて、ベトナムを出てほしい」。その言葉は一撃の鉄槌だった。彼には誰も連れ出す力がなかった。自分自身さえ救い出せぬことを突き付けられるたび、夢想は崩れ去った。


 その一方で、同僚たちの多くは享楽に耽った。夜毎キャバレーに通い、現地に愛人を囲い、家族を棄てて再婚する者すらいた。彼は彼らを軽蔑し、「自分だけは醒めている」と胸を張った。だが醒めた者に残されるのは孤独だけだった。酒瓶と空虚な夜、それが彼の全てになった。


 3か月ごとに一時帰国が許されると、彼は誰よりも先に航空券を確保した。帰国すれば旧友と飲み歩き、宴席は彼の舞台と化した。最初にベトナムの同僚の無能さを罵り、次に「ベトナムこそ我が魂の故郷だ」と誇らしげに叫ぶ。酒が進むと愛や結婚について語り出し、「賢い男と賢い女が結ばれてこそ真の愛、賢い男と愚かな女には未婚の子、賢い女と愚かな男には退屈な婚姻、愚か者同士なら子どもばかり」と嘲笑混じりに断じた。最後には声を震わせて笑い続けるが、その目には涙が滲んでいた。宴が終われば千鳥足で帰宅し、SNSに「離婚してから今日で〇〇日」と記す。数字だけが孤独の証明だった。


 「俺が酒に溺れるのは俺が賢すぎるからだ。聡明な者ほど苦痛に耐えられない」。彼はそう書き残し、世界に宣言した。だがそれは弁解でしかなく、真実はただの孤独だった。酔いに沈みながら彼は時に空想した。「どうせ死ぬなら、インドの砂漠で一人朽ち、砂に埋もれて終わるのがいい」と。


 数年が過ぎ、ついに上司との激しい衝突を起こした。会議室の机を叩き、声を荒らげ、顔を真っ赤にして言い募る彼を、上層部は冷ややかな視線で見下ろした。その結果、ベトナムでの任務は打ち切られ、彼は不本意ながら帰国を命じられた。


 少なくとも、口ではそう言い張った。だが実際には、彼は帰国が決まった瞬間、胸の奥に抑えきれぬ高揚を覚えていた。心の底で「やっと国へ戻れる」と喜びに震えながら、それでも「ベトナムこそが俺の真の故郷だった」とSNSに堂々と書き続けた。矛盾は彼にとって何の問題にもならなかった。


 帰国の途につくまでの数か月、彼は毎日のように投稿した。「帰国まであと百三日」「残り七十二日」「あと三日」。カウントダウンは赤裸々で、フォロワーたちは半ば呆れ、半ば興味本位で眺めた。


 ある者がコメントを残した。「ベトナムが真の故郷だって言ってたじゃないか。どうしてそんなに帰国を喜ぶんだ?」

 彼は即座に反論した。「俺のせいじゃない。ベトナムが俺を拒んでいるんだ。俺は望んでいた、でもあの国が俺を受け入れなかった」


 そう書き込んだとき、彼はあたかも自分が運命に翻弄された英雄であるかのような酔いを覚えた。矛盾を突かれても、答えはいつも同じだった。「俺は悪くない、世界が俺を拒んだんだ」と。


 それでもベトナムへの執着は消えなかった。帰国してからも言葉を忘れまいと若いベトナム人の家庭教師を雇った。清新な佇まいのその娘は、彼の拙い発音を辛抱強く正し、旅行談義を明るく語ってくれた。峴港の海辺や胡志明市のカフェを語る笑顔に、彼は久しく失った火を取り戻す思いがした。


 同時に、社会人科学サークルにも顔を出した。ある日の集まりで、彼と同年代の男と出会う。その男は失恋の痛手を抱えて日本に渡り、職場で挫折して帰郷したという。二人は瞬く間に意気投合し、彼は「魂の兄弟を得た」と宣言した。互いに「いつか祖国に帰ろう」と語り合い、夢と浪漫を再び燃やした。


 彼の心は再び熱を帯びていた。若い家庭教師の存在が、沈みかけた彼の胸に残り火を吹き込んだのだ。


 最初に彼女の容姿を見たときから、目を奪われていた。黒髪は肩で揺れ、声は澄んでいて、発音を正すたびに白い指先が彼のノートを軽く叩いた。その仕草ひとつひとつが彼には特別に見えた。彼女が笑えば、自分だけに向けられていると信じた。


 「先生、また来週もお願いします」

 彼女がそう言った瞬間、彼の心は跳ねた。「これはきっと脈がある」と。


 二人きりで食事に行こうと誘ったのも自然の流れだと思っていた。安いチェーンのファミレスだったが、彼にとっては恋人同士の晩餐に等しかった。料理を前に彼女は楽しげに未来の夢を語った。「いつか、もっと大きな街で働きたい。国を出て、いろんな景色を見たいんです」

 彼は頷きながら、頭の中で都合よく書き換えた。彼女は自分と同じ放浪者だ。帰る場所を持たない孤独な魂だ。だからこそ、自分と共にいるはずだ、と。


 帰り道、彼は勇気を振り絞って手を伸ばした。暗がりの中で彼女の指先に触れようとしたが、彼女は笑みを崩さず、そっと手を引いた。「すみません、ちょっと……」やんわりとした拒絶。それでも彼は受け止めず、「照れているだけだ」と自分に言い聞かせた。


 その後も彼は諦めなかった。彼女が通っているベトナム語塾の宣伝を手伝い、SNSに写真を載せて「みんな来てやれ」と呼びかけた。彼女に必要以上にメッセージを送り、いつか二人でベトナムに帰ろうと熱っぽく語った。彼女が繰り返し「私はベトナムから離れたいんです」と言っても、彼の耳には届かなかった。彼女の夢を自分の幻想に塗りつぶし、彼は一方的に未来を描き続けた。


 毎晩、薄暗い自室で、彼はベッドに横たわり、汗ばんだシーツに体を沈めた。部屋にはタバコの残り香と湿った空気が淀み、窓から差し込む街灯の光が壁にぼんやりと影を落とす。そこに、彼女の姿が浮かぶ。ベトナム人の家庭教師、黒髪を肩に垂らし、白いブラウスがわずかに透けて肌の色を覗かせる彼女。授業中の穏やかな笑顔は、妄想の中でより親密な微笑みに変わる。


 彼は目を閉じ、彼女が部屋に入ってくるのを想像した。ドアが静かに開き、彼女はためらいなく近づき、ベッドの端に腰を下ろす。細い指が彼の胸を撫で、ゆっくりと下へ滑り落ちる。「先生、教えてください」と囁く声は、授業の時より甘く、息が熱い。彼は彼女を抱き寄せ、ブラウスを脱がせ、柔らかい肌に触れる。彼女の体は温かく、授業では見せない大胆さで彼に応える。


 妄想は加速する。彼女の黒髪が乱れ、汗で光る肌が彼の体に絡みつく。彼女の声が耳元で響き、ベトナム訛りの日本語で「一緒にベトナムへ……」と呟く。彼は彼女を強く抱きしめ、頂点に達する瞬間、現実のシーツを握りしめ、荒い息を吐く。


 そんな夜が続き、彼の目はくぼみ、昼間の授業で彼女の仕草を見るたび、妄想の残滓が体を熱くした。現実の拒絶など、こんな幻想の前では色褪せるだけだった。


 だが現実は残酷だった。ある夕暮れ、彼は偶然その光景を見た。塾の前に黒塗りのベンツが停まり、筋骨たくましい男が運転席から降りて彼女の荷物を軽々と持ち上げた。彼女は嬉しそうに微笑み、そのまま助手席へ乗り込んでいった。彼の胸に鋭い杭が打ち込まれたようだった。


 怒りと焦りが渦を巻き、彼はその夜、塾へ押しかけた。授業が終わり、戸締まりをしていた彼女に詰め寄る。「あの男は誰だ? お前は俺に嘘をついていたのか?」

 彼女は怯えた顔で言った。「彼は……ただの友人です。どうか帰ってください」


 その瞬間、背後から低い声が響いた。「彼女に何をしている」振り向けば、あのベンツの男が立っていた。作業着姿にもかかわらず、背筋は雄々しく、鋼のような腕が蛍光灯の下で光っていた。男は彼女を庇うように前に立ち、「俺の女に近づくな」と言い放った。


 その言葉は鋭い刃となり、彼の骨の髄までを抉った。怒鳴り返すこともできず、胸の奥にわき上がった羞恥と惨めさが全身を支配した。最後には男に肩を押され、塾の外へと追い出された。


 冷たい夜気の中に立ち尽くしながら、彼はなおも自分の妄想を手放せなかった。だが現実は、彼を容赦なく突き放していた。

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