はぐれ者、その一

 彼が生まれたのは南方の海辺にある小さな都市だった。そこは秩序よりも熱気が先に立つ場所で、湿り気を帯びた空気の中に、魚市場の生臭さとバイクの排気が混ざり合っていた。昼間の通りは客引きの声と商人の怒号でざわめき、夜になればネオンの光がひしめき、カラオケスナックからは酒に溺れた男のしゃがれ声と、拍手をせがむような高音が響き渡る。貧しさが影のように街にまとわりついていたが、人々の眼差しには生き延びることへの執念のような明るさが宿っていた。彼の家庭は決して裕福ではなかった。父は市役所勤めの公務員、母は学校で臨時の事務をしていた。毎日の食卓に飢えることはなかったが、贅沢を夢見ることもできなかった。だが幼い彼にとって、その雑然とした世界は懐かしく、常に胸をざわつかせる未知の広がりを持っていた。


 幼少期の彼にとって最大の娯楽は、遊園地でも積み木でもなく、父が時折連れて行ってくれる古びた映画館だった。外壁のペンキは剥がれ、座席のスプリングは軋みを上げる。けれども銀幕に映る光の洪水は、彼にとって唯一無二の冒険への扉だった。『男たちの挽歌』でチョウ・ユンファが唇に煙草を挟みながら拳銃を抜く姿は、教科書の偉人像など足元にも及ばぬ迫力で彼の胸を撃った。『ゴッド・ギャンブラー』でカードを切るたびに見せる冷ややかな微笑は、まるで運命をも掌握するかのような威力を持って映った。難解な洋画『心の旅』でさえ、彼には言葉にならない深さを感じさせ、遠くを見つめる視線の在り方だけを真似して心に刻み込んだ。まだ背丈も低い子供でありながら、彼は銀幕の中で「大人の仮面」を手に入れた。誰より早く運命を意識し、誰より早く人生を芝居のように演じ始めていた。


 父は常に家の支配者であった。昭和の残滓を引きずった男尊女卑の価値観は、彼の家庭においては絶対的な法のように機能していた。幼い彼がプラスチックの戦隊ヒーロー人形で遊んでいると、父は無言でそれを奪い取り、無造作にゴミ箱へ放り込んだ。そして代わりに百科事典や分厚い伝記を机の上に積み上げ、理工系こそが未来だと教え込んだ。文系に進む者は負け犬になる、そう断言した。母が小さな声で「まだ子どもなんだから」と庇おうとすると、「女に何が分かる」と一喝され、彼女は押し黙るしかなかった。やがて母の声は細くなり、瞳の光も徐々に消えていった。


 両親は些細なことで衝突を繰り返した。父は母が稼ぎの少なさを責め、女は家庭にいればいいと突き放した。母は声を荒らげることもなく、ただ黙ってその言葉を飲み込み続けた。やがて争いが収まると、父は気まぐれに外食を買い、家族に差し出す。魚や鶏肉の中で、自分が食べたい身の部分を残し、骨の多い部分を「お前の好きなものだろう」と妻に渡した。ある夜、母は子供にそっと漏らした。「私は本当は魚の骨なんて嫌い。でもお父さんが食べたい身を残してくれるから、私も好きなふりをしてるのよ」。それを語る母の声は淡々としていて、怒りも涙もなく、ただ諦念の静けさが漂っていた。幼い彼は意味をすべて理解できなかったが、父の背中だけは英雄のように映り続けた。


 忘れられない光景があった。家に初めての中古車が来た日のことだ。真夏の高速道路で突然エンジンが止まり、炎天下で父は汗を滴らせながらボンネットを開け、スパナを握り締めた。その姿を少し離れた場所から眺めていた彼は、言葉にならぬ震えを覚えた。大地に踏みしめられた父の背中こそ、真の男らしさの象徴だと信じた。父は何も語らずとも英雄だった。彼の中でそのイメージは、映画館の銀幕と同じくらい強烈に焼き付いた。


 やがて思春期を迎えると、彼もまた血が騒ぎ出した。中学校は男女別学で、廊下には粗暴な言葉が飛び交い、彼は仲間たちとつるんで女生徒を冷やかし、大声で笑った。「おい姉ちゃん、スカート短けぇぞ!」と囃し立て、振り向いた女子が顔を赤らめて逃げれば、「ビビってんじゃねえよ!」とさらに声を張り上げた。煙草を回し飲みし、校門をよじ登って外へ抜け出し、夜の駄菓子屋の裏で安物のライターをカチカチ鳴らした。教師に呼び止められれば、「うるせぇジジイ、関係ねぇだろ!」と吐き捨て、体育館裏ではちょっとした肩のぶつかり合いをきっかけに拳を飛ばした。「てめえ調子乗ってんじゃねえぞ!」と叫び、血が出るまで殴り合い、仲間が「もうやめとけ!」と止めに入ってようやく終わるのが常だった。


 夜の公園では缶ビールを片手にベンチに座り、空き缶を蹴飛ばしながら未来を語るふりをした。「俺、将来はバイクで全国回ってやる。教師も親も全部ぶっちぎってな」そう豪語すると、仲間は「お前マジで伝説になるかもな!」と笑い合った。恋人を持つ仲間が武勇伝めかして「この前、あいつとラブホ行ってさ……」と語れば、彼は羨望と焦燥で胸を焼かれ、缶を一気にあおった。「チッ、俺だってすぐにそうなるさ」と虚勢を張った。


 その熱気こそが、彼にとって生の証しだった。夜風に煙草の煙を吐き、缶を投げ捨てる瞬間だけ、自分が確かに「存在している」と実感できた。彼の心の奥では、青春とは不良じみた喧騒と衝突の中にこそ宿っているのだと信じ込まれていった。後年になっても彼はその記憶を繰り返し語り、酒席でもSNSでも「俺の青春」として何度も蘇らせた。


 しかし彼は勉学を完全に捨てたわけではなかった。地頭の良さと負けず嫌いな性分が功を奏し、成績は常に上位を維持した。やがて高校進学を控え、彼は不良の仮面の下で勉強に励む二重生活を強いられた。地域で最も進学校とされる高校に合格したとき、旧友たちは散り散りになり、彼だけが「不良で優等生」という2つの顔を持つ存在に変わった。制服の襟を少し崩し、ポケットに煙草の匂いを残しつつも、試験では誰よりも高得点を取る。周囲からの視線は憧れと羨望、そして嫉妬を含んでいた。


 彼が惹かれるのは決して成績優秀な女生徒ではなかった。図書館に籠る清楚な彼女たちは退屈で、魅力を感じなかった。彼の目に焼き付いていたのは映画のスクリーンから飛び出してきたような女性だった。艶やかに笑い、流れる髪を風に踊らせ、バイクの後ろに跨って共に走り抜けることができる存在。それが彼にとって理想の「女」だった。


 図書館の片隅で彼はチェ・ゲバラの伝記を開き、革命家の激情に心を震わせた。南米の地図に赤鉛筆で線を引き、アジアを越え、遠い大陸を横断する空想に耽った。父の平凡な人生をなぞるのではなく、自分はもっと大きな舞台に立つべきだ。世界を旅し、名もなき英雄となるべきだ。そう信じた。


 そして望み通り、国内でも指折りの大学に進学した。専攻は化学。頭脳の冴えと端正な容姿は周囲の目を引き、入学早々に年上の女子学生と親しくなった。彼女は同じ理工科に籍を置きながら、数式だけに縛られる人間ではなかった。


 最初の会話は実験室の前だった。白衣の袖をたくし上げた彼女が微笑んで言った。「あなた、ちょっと雰囲気が他の子と違うわね。理系なのに、目がどこか遠くを見てる感じ」

 彼は思わず笑って返した。「映画のせいかもしれない。チェ・ゲバラみたいに、世界を駆け抜けたいと思ってるんだ」

 すると彼女は少し目を細め、「ゲバラ? いいわね。じゃああなたは革命家? それとも浪漫主義者?」とからかうように聞いてきた。

 彼は迷わず答えた。「浪漫主義者だ。でも革命家の心も欲しい」


 それから二人は一気に距離を縮めた。大学の食堂の片隅で、彼女は戦争史の話を持ち出した。「ノルマンディー上陸作戦って、ただの軍事作戦じゃなくて、兵士一人ひとりの人生の集積なのよ。あなたなら、どう戦場を歩いたと思う?」

 彼は真顔で考え、冗談めかして答えた。「俺なら……たぶん敵陣に煙草くわえて突っ込むさ。チョウ・ユンファみたいに」

 彼女は声を上げて笑い、「あら、あなた本気で言ってるの? でも、そんな無茶な男、嫌いじゃないわ」と頬を染めた。


 やがて二人は授業が終わると連れ立って校門を出て、彼が買った中古のバイクに跨った。春の夜風が頬を撫で、ヘルメット越しに彼女が囁いた。「ねえ、スピード上げて。もっと高い場所まで連れて行って」

 彼はアクセルをひねり、街の灯りを背に坂を駆け上がった。丘の上にたどり着くと、眼下には無数の光が川のように流れ、遠くの高層ビル群が瞬いていた。彼女は息を呑み、「きれい……こんな景色を、誰かと一緒に見るなんて初めて」と言った。

 彼は横顔を見つめながら、胸の奥で言葉が熱を帯びていくのを感じた。「俺は運命を信じてない。でも、今だけは信じる。これは運命だ」

 彼女は驚いたように彼を見返し、やがて小さく笑った。「大げさね。でも……嬉しい」


 星明かりが彼女の瞳に映り、風が二人の間をすり抜けていく。その瞬間、彼は全身で理解した。——これは運命の恋だ。


 恋は激しく燃え、大学を卒業すると彼は老舗の化学メーカーに就職した。白衣に袖を通し、工場の配管の間を歩き、巨大なタンクの計器を点検するたび、少年時代に夢想した「世界の舞台」に立っているのだと胸を張った。毎月の給料は安定し、同僚からも信頼を得て、彼の歩みはまるでレールの上を走る列車のように順調だった。


 やがて二人は結婚した。写真館で撮影された婚礼写真には、タキシード姿の彼と純白のドレスに包まれた彼女が並び、眩しいほどの笑顔を浮かべていた。アルバムを開けば、キャンドルライトの下でグラスを合わせる場面、親族から祝福の嵐を受けて笑う場面が、ページごとに溢れていた。蜜月旅行はイタリア。ローマの石畳を肩を並べて歩き、フィレンツェの大聖堂で鐘の音に耳を澄ませ、ヴェネツィアのゴンドラに揺られながら、彼女は「一生忘れない」と囁いた。夜の広場で撮った写真には、月明かりに照らされながら抱き合う二人の姿が映り、彼は「俺たちの人生は映画のクライマックスみたいだ」と何度も言った。


 だが、その輝きはある日、医師の一言で粉々に砕けた。「不妊症ですね」


 彼は耳を疑った。診察室の白い壁が歪んで見え、指先が冷たくなった。それでも、彼は笑みを作り、妻の手を握って言った。「子どもがいないなら、それでいい。僕たちの愛は永遠に二人だけのものだ」


 しかし妻は俯いたまま、唇を震わせた。「……それは逃げてるだけよ。治療をすれば、望みはあるのに」

 彼はなおも「大丈夫だ、子どもがいなくても僕らは幸せだ」と繰り返したが、妻は首を振った。「あなたがそう言うたび、私には現実から目をそらしているようにしか聞こえないの」


 彼にとっては愛を守ろうとする必死の言葉だった。けれど妻の耳には、現実を拒む仮面のように響いてしまった。


 そんな折、会社から海外赴任の打診が来た。行き先はベトナム。彼は迷わず承諾した。それはかつて地図に赤線を引いた夢の延長であり、映画の主人公のような冒険に思えた。ベトナムの大地をオートバイで駆け抜け、自由と浪漫を体現する自分を彼は想像した。だが妻は首を振った。「私たちは恋人じゃない、家族なの。あなたはまだ夢を追いかけているだけ」。涙混じりの叫びは、彼には理解できなかった。彼の頭の中では、銀幕のように美しい未来だけが鳴り響いていた。やがて机に置かれた離婚届のインクが、現実の冷たさを突き付けた。


 彼はなおも幻想を抱いた。ロマンが現実を救うと信じ、妻が戻る日を夢想した。だがそれは決して叶わなかった。こうして彼は一人、越境することになった。ベトナム行きの飛行機の窓に映る自分の顔は、かつて銀幕で憧れた英雄の面影ではなく、孤独と未練に縛られた一人の男の姿だった。

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