何も悪くない(後半)(END)
その日を境に、私はスケジュール帳をできるだけ「遊び」で埋めるようになった。
一週間、七日あれば七日間すべて。相手は男女を問わず、毎日誰かと出かけた。
別に、越智さんを嫌いになったわけじゃない。ただ――誰かと一緒にいたかった。彼がしてくれないことを、誰かと一緒にしたかった。それだけだった。だって、私たちは正式に恋人になったわけでもないのだから。
職場の後輩の男の子と、千葉のディズニーランドへ行ったこともある。彼をからかって、ソフトクリームでわざと間接キスをして、慌てふためく姿に笑った。楽しかった。
心のどこかで考える。――もし上海のディズニーランドに行ったら、越智さんとも同じことをできるのだろうか、と。
私はまだ若い。落ち着くつもりなんてなかった。
だから、越智さんからの晩ご飯の誘いには、「ごめんね、もう七月まで予定が埋まっているの」「また今度、一緒に行きましょう」とやんわり断った。彼は困惑した表情を見せながらも、理解しようとする姿勢を取ってくれた。――その様子が、なぜか心の奥で苛立ちに変わった。
それでも、私は何も言わなかった。理解してくれない相手が悪い。私は、何も悪くない。
そんなある日、もんじゃ焼きの店で、ささやかな打ち上げが開かれた。メンバーは、私と越智さん、都留さん、そして篠原課長。
席は2つのテーブルに分かれ、私と越智さんがペア、都留さんと篠原課長がペアになった。後から思えば、それは課長なりの気遣いだったのかもしれない。
私が海鮮を苦手としていることを、越智さんはちゃんと覚えてくれていた。けれど、都留さんはそんなことお構いなしに、こちらには海鮮のお好み焼きを、自分たちのテーブルにはベーコンのものを勝手に注文した。越智さんは心配そうに私の表情をうかがったけれど、私は気にしないふりをした。――食べなければいい。ただそれだけのこと。だって、私が選んだわけじゃない。私に責任はない。私は悪くない。
結局、私は都留さんが焼いたベーコンのお好み焼きを分けてもらい、越智さんには海鮮のお好み焼きを任せた。彼はもともと焼くのが得意ではないのに、私のために鉄板に向かってくれた。けれど、食べないものは食べない。皿の上で冷めていく海鮮の香りを、私はただ避けるだけだった。
都留さんのベーコンのお好み焼きは、驚くほどおいしかった。
帰り道、私は越智さんを置き去りにして、都留さんと肩を並べて歩いた。目的地なんてなかった。ただ、並んで歩きたかったのだ。誰かと、何かと。
運用ラインは相変わらず慌ただしかった。私は越智さんから毎日のように差し入れを受け取りながら、同じ高校出身で都留さんの後輩でもある大野くんにも差し入れをするようになった。
少しジャニーズ系を思わせる整った顔立ち。けれど、いつもどこか退屈そうな、だるげな表情をしている――その気怠さが、逆に魅力的に映った。
夜勤明けの彼に温かいパンを手渡すたび、胸の奥に小さな灯がともる。「いいこと」をした気分。そう、私は悪くない。むしろ善いことをしている。
そう信じるたびに、日々の選択がすべて正しいものに思えてくる。私は何も間違っていない。その確信の積み重ねこそが、私の日常を支えていた。
その夜、越智さんから長いメッセージが届いた。
〈避けてるなら言ってくれ。もう誘わない〉
〈上海旅行の話も、なかったことにしよう〉
スマホの画面を閉じた。返さなかった。未読のまま、枕に顔を押しつけて、息を止める。――返信してしまえば、何かが確定してしまう。確定することが、わたしは何よりも苦手だった。
三日後、私は一階のカフェにいた。わざと「見せる」ことに決めていた。隣に大野くんを座らせ、メニューの写真を見せ合いながら、わざと声を立てて笑った。視界の端で、越智さんの影が揺れているのを知りながら。
わたしは悪くない。――だって、彼自身が「もう誘わない」と言ったのだから。
その日を境に、越智さんはもう私を見なかった。廊下ですれ違っても、壁の火災報知器を見るみたいに視線を逸らし、イヤホンを耳に差し込んだまま足音を速めて去っていく。残るのは会議室のドアが閉まる乾いた音だけだった。
しばらくして、彼はいなくなった。最初はリモート勤務になり、やがて退職し、大手へ移り、結婚した――そんな噂が会社の配線を伝う電流みたいに天井裏を走り、ある日突然スピーカーから降ってきた。
「池袋の高級レストランでプロポーズしたらしいよ。奥さん、すごい美人なんだって」
「えっ、あの夜景が有名なフレンチ?いいなぁ、夢みたい」
給湯室でさざめく女子社員たちの声を、私は聞こえなかったふりで通り過ぎた。
――勝手にすればいい。もう赤の他人だし、私は悪くない。何も悪くない。
そう言い聞かせながら、越智さんからクリスマスにもらったマグカップに、会社支給の安いインスタントコーヒーを注いだ。もう、机の上にミルクティーを置いてくれる人はいない。
あとになって気づく。越智さんという戦力を失ったことで、私たちは自動化ツールを作れる人も、サーバを一手に管理できる人も同時に失ったのだと。運用ラインα/βは人手不足に耐えられず、ほころびのように細部からちぎれ始め、やがてプロジェクトそのものが崩れ落ちた。
「再編」という言葉を篠原課長が口にしたとき、それはまるで片道切符を手渡されたような音に聞こえた。
渡されたリストラ通知は紙切れ一枚。驚くほど軽いのに、肩にのしかかる重さは慢性の凝りみたいにじわじわと沈み込んできた。
少し迷った末、わたしはガールズバーで働き始めた。――あの頃、若い自分が夢見ていた場所。ネオンが瞬きを繰り返し、氷がグラスの中で軽やかに跳ねる。酔った客たちの声にまぎれて、わたしの名前が呼ばれる。
「ミナちゃん、今日も可愛いね」
ある日の記憶が、不意に胸をよぎる。いつものように私が「器用貧乏だ」と愚痴をこぼしたとき、越智さんが笑いながら言ってくれた言葉。
「来栖は戦士でも魔法使いでもないけど、勇者になる素質があるよ」
「勇者は器用貧乏でいいんだ。その代わり、仲間を集める力がある」
――そう、私は勇者。選択しなくてもいい。悩みがあれば、誰かが解決してくれる。私には、そんな力があるのだ。なぜなら、私は自由で、悪いことなんてしていないから。
ちやほやの波は心地よかった。波に揺られながら、私はいつしか岸に戻る術を忘れていた。
三十代も後半に差しかかったある夜。鏡の前でリップを引きながら、ふと背後が広すぎることに気づいた。祝いの花も、推しのボトルも、写真に並んでくれる誰かの姿も――もうどこにも残っていなかった。
やがて、常連のひとりと結婚した。
プロポーズは――もちろん池袋の高級レストランなんかじゃない。場末のビジネスホテル、例のことを終えたあと。彼がベッドの端でタバコをふかしながら、吐き捨てるように言った。
「俺の女にしてやる」
上から目線で、当然のように。
「お前には、俺しかいないから」
結婚指輪なんてなかった。婚約指輪さえも、最初から用意されることはなかった。
彼は自己流が正しい人で、嫉妬深く、声が大きい。近所づきあいはなく、友だちもいない。彼の世界は、部屋の四隅みたいに決まっていて、床に落ちた紐は、わたしが結ぶ役目だった。駅のホームで些細なことで怒鳴られ、ファミレスで冗談めかして見下ろされる。
靴の紐がほどけるたび、彼は片足を突き出し、わたしはしゃがむ。結んだ輪はすぐ緩んだ。人差し指と親指の汗で、紐は硬くなっていった。
わたしは悪くない。悪いことは、していない。そう言い聞かせる声が、いつのまにか小さくなっていた。
ある日、散歩の公園で、越智に会った。
彼は年を取っていた。けれど、不思議に昔より若く見えた。隣の女性と手をつないで、短い足の犬が彼らの前をちょこちょこと歩いた。3つの影が芝生にやわらかく重なる。
わたしは、なぜか走った。足が勝手に芝を蹴っていた。
「……越智さん」
彼の眉が少しだけ動いた。ほんの少し。ほんの、刹那。
彼は隣の女性に微笑んで、わたしを見なかった。
「知り合い?」と彼女。
「いや、人違いかな。それより、今夜何食べたい?」
「なんでも。あなたのご飯、美味しいから。あ、でも」
「ネギはなし、ね」
「さすが」
二人と一匹は、笑い合って歩いていった。手と手がほどけずに、そのまま。
ポケットの中で、携帯が震えた。
「いつ帰ってくるんだ、腹減ったぞ、この役立たず」
彼の声はスピーカーの砂粒みたいにザラザラして、耳の奥に残った。
画面を伏せた。空がよく晴れているのが、腹立たしいぐらい見えた。
気づいたら、涙が出ていた。理由は、どこにも見当たらなかった。
わたしは悪くない。悪くないのに。
悪くない――はずなのに。
ベンチに座ると、芝の匂いがした。犬の足跡が、土に小さな星みたいな跡をつけていた。
わたしは、自分の靴ひもがほどけているのに気づいた。
しゃがみこんで、結び方を思い出す。うさぎの耳を2つ作って、交差させて、穴に通す。
きゅっと引く。輪が小さくなって、ほどけないように、もう一度、固結び。
指先が少し痛い。
風が吹いた。
もう一度、強く結んだ。
顔を上げると、越智の姿はもう見えなかった。
わたしはスマホを取り出して、夫の名前の横にある「通話終了」を押した。呼び出し中の赤い線は、意外なほど簡単に消えた。
ベンチの木目に手のひらを置く。ひんやりしている。
わたしは悪くない。
――それでも、これからは、わたしの責任で歩く。
きゅっと結んだ輪は、まだほどけない。
立ち上がる。
わたしは、歩き出した。
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