置き去られた者の順番
御手洗勝男は、始発より早く目を覚ます。
枕元の目覚ましよりもはるかに正確な、身体に刻まれた時報が彼を起こす。首筋のこりを右手で揉み、薄いカーテンの隙間から差す青い朝を見やる。大阪に生まれ、景気が跳ねた時代に青春を過ごした。五十五。百年企業の製造課長。
「今日も八時より前に打刻や」
誰に言うでもなく、口の中で転がす。
家は静かだ。妻は顔を上げずに「いってらっしゃい」。娘は大学生で、半開きの扉の向こうに視線だけ寄越す。昨夜、風呂の湯船から立ち上がった彼の背を見て、娘は無言で栓を抜いた。湯を替える音は、目に見えない汚れに判を押すように、確かな響きを残した。
「汚れてへんのに」
と呟いたが、声は浴室の蒸気に吸われて消えた。
会社に着くのはいつも八時前だ。打刻機の角は長年の指先に磨かれて艶がある。紙の勤務表とタイムカード、出社印の朱は彼の律義さを語る唯一の赤色だった。
御手洗が入社した頃、デスクには鉛筆削りと黒電話、そして複写式の納品書。先輩に認められるまでの二年は、窓際の灰色の空と、指先の墨汁だけが同僚だった。それでも食いしばった。三年目、初めて夜勤を任され、黒々とした基盤の上に小さな半田の銀色を落とすたび、胸の奥に灯がともった。
時代は勝手に進む。MS-DOS、Windows3.1、95、98、ME、XP、Vista、7。上書き保存のショートカットを覚えたときの指の速さは、今も身体が覚えている。C言語もC++も、独学で噛み砕いた。Visual Studio 2010までなら、まぁ何とか――そう言えるだけにはなった。
「うちはシェア七十や。わしらの技術が支えとる」
事実の端に、自分の努力も少しは混ぜる。混ぜなければ、この三十年に名前が付かない。
紙の会社だ。古いが、その古さが信頼だった。取引先の多くは基盤工程の老舗で、手書きの指示は職人の合図だった。PCは最初、ファミコンの親戚のように見えた。金持ちの玩具や、と笑ったこともある。だが笑ってばかりだと置いていかれる。御手洗は置いていかれたくなかった。
だから、古いものを守った。旧式の制御ボード。稼働し続けるライン。十年以上動き続けたシステムは、彼にとって子ども同然だ。
「古いからこそ信じられる。人間も、製品も、価値観も」
言葉に出すたび、胸の板が少しだけ厚くなる気がした。
そこへ――新人が来た。
日本人でもない。黒髪に癖があり、目は疲れを知らない湖のように澄んでいる。四十二だというのに、三十に見えた。痩せているのに、芯のある体つき。日本語も英語も中国語も、おまけのように滑らかだった。
「なんでも書けます。PythonでもGoでも、Cでも。Rustは最近触ってます」
苦笑い混じりにそう言い、過去のプロジェクトの数々を、仕様書の行間ごと暗唱してみせた。
社長が頷き、部長が手を打った。
「君には、クラウドサービスを任せよう」
クラウド。御手洗の舌では、まだ濁点がうまく乗らない響き。
その夜、風呂で湯を足そうとして、娘の表情が脳裏に浮かんだ。嫌悪というより、遠いという表情。御手洗は湯面に映る自分の額の皺を撫でた。
「国に帰れ」
心の底で黒い言葉が泡立ち、湯面に出ず、また沈んだ。
言葉の先に、誰の国か、どの国か、輪郭はなかった。ただ、自分の居場所が狭くなる予感に、言葉が勝手に刺を持った。
翌朝、新人は御手洗の下についた。もう一人の部下、森田は三十そこそこで、要領のいい男だった。返事はいつも早く、場の空気もよく読む。だが、御手洗から見ると、その素直さの裏に計算高さも透けて見える。だからこそ、逆に扱いやすい。
「森田、今日からおまえが先輩や。ちゃんと面倒見てやれよ」
「はい、わかりました」
流石森田、言葉通りに従う姿勢を見せる。こういう若造こそ、育て甲斐がある――御手洗はそう信じていた。
御手洗は新人にも向き直った。
「最初は仕事、ないぞ。二年くらい下積みや。基礎からやらなあかん。これがうちの流儀や」
言いながら、自分の二年を思い出す。窓際に追いやられ、黙々と紙を数え続けた日々。
新人は真顔で頷いた。
「わかりました」
二日目の昼、部長が新人にクラウドの調査を依頼した。その日の夕方、新人は御手洗に報告する前に、ホワイトボードに「やること」を箇条書きし始めた。アクセス権の申請、料金体系の比較、プロトタイプの構成案――英語と日本語が交互に並ぶ。
御手洗は胸の中で火がつくのを感じた。
「おい」
会議のあと、フロアに居る全員が聞こえる声量で、新人を呼んだ。
「年功序列も知らんのか。まず上長に報告や。勝手に動くな。勉強からやと言うたやろ」
教育のつもりだった。昔、彼が受けたように。叱られ、飲み込み、覚える。
新人は黙って頷いた。反論もしない。
その夜、部長からメールが来た。
――公開叱責はコンプライアンス違反になり得る。注意喚起の方法を見直すこと。
御手洗は画面の光を睨んだ。
「何やそれ。今の若いのは、ストレス耐性ゼロか」
窓際の席に新人のデスクが移された。進捗報告書の提出先から御手洗の名前は外された。開発環境の申請は、「順番」が理由で通らない。
それでも、新人はメモ帳でプロトタイプを書き始めた。RESTだのJSONだの、御手洗にはすべて横文字の霧に見えたが、夕方には動くものができていた。営業部長がそれを持って顧客の前で見せると、先方の技術担当は目を丸くした。
「ええやん」
技術部長は素直に言った。
御手洗は、自分の立っている床が傾ぐ感覚を初めて味わった。
「仕事は与えへん」
自分でも驚くほど低い声が、喉の奥から出た。
「勤怠も見直しや。承認済みでも、見直し。八時の打刻でも、八時半に合わせろ」
ルールの名を借りた、制裁。御手洗の中の何かは、古い神棚のように埃をかぶっていた。
新人の顔に、一瞬、影がさした。
それを見て、御手洗は、少しだけすっきりした。
数日後、総務から呼び出された。
「パワーハラスメントの申告が出ています。公開での叱責、正当性のない業務外し、勤怠の不正な切り上げ指示。あと、出張交通費の不払いの件です」
「昔はみんなやっとった」
御手洗は言った。
「昔は昔です。今は違います」
担当者の声は冷たくもなく、だが決して温かくもなかった。
内線の受話器を置いた瞬間、足の裏から氷を噛むような感覚がせり上がってくる。
――待てよ。出張交通費? あの新人にはまだ出張なんぞ振ってへん。
怪訝に思い、御手洗はふと森田のほうを見た。
森田は、目が合うや否や、すっと視線を逸らした。反応の早い男のはずが、その瞬間だけ、答えを隠すように遅れた。肩口の小さな動きが、「俺じゃありませんよ」と言いたげだった。
――こいつか。いや、こいつもか。
森田だけじゃない。亀井、沼本、冴島……ずっと一緒に戦ってきた仲間たち。苦楽を共にしたはずなのに、誰一人として彼の味方になる気配はなかった。
御手洗は、胃の奥がじわじわ熱を持つのを感じた。
――裏切られた。
社内一斉メールで、御手洗の名を冠した謝罪文が流れた。文面は法務の整えた無風の言葉で埋め尽くされている。
「みみっちいわ」
御手洗は誰にともなく吐き捨てた。
交通費ぐらい、自腹でええやろ――その言葉は、もはや声に出せない。出した瞬間、何かが完全に壊れる予感があった。
夜、居間のテレビの音だけが元気だ。妻は洗濯物を畳みながら、御手洗の視線から器用に逃げる。娘はスマホを撫で、御手洗が近づくと、猫背の角度を変えた。
「お母さん、明日、昼外で食べて帰るから」
娘の声は、御手洗の入社一年目に先輩が出した声と似ていた。あのときも、灰色の窓際で、声はいつも遠かった。
翌朝、御手洗はいつもよりさらに早く会社に着いた。打刻機の前で立ち止まる。カードを押し込み、ガチャンという音に耳を傾ける。
指先の朱を袖口で拭い、ふと、壁の掲示に目が留まる。
――クラウド導入プロジェクト、キックオフ。
日付と時間。会議室の名前。主担当の欄に、新人の姓。
御手洗の名は、どこにもない。
午前中、古い制御盤の前で、御手洗は一人作業をした。コンデンサの膨らみを目視し、接点の焦げを嗅ぎ分ける。指先の技術。身体が覚えた言葉。
「変わらんものは、ある」
呟き、スイッチを入れる。緑のランプが点く。金属の冷たさが、指の腹から肘へ、さらに肩口へと上がっていく。どこか、懐かしい。
午後、部長に呼ばれた。
「勝男、しばらくラインの保全に集中してくれ」
それは、現場の誉れであり、同時に、会議室の外への案内でもあった。
帰りのバス停は、工業団地に吹く風が油の匂いを運ぶ。空は茜色で、背の高い街灯が順々に点り始める。御手洗は、肩に古びた鞄をかけ、手帳を取り出して明日の作業を書き込む。文字は丁寧だ。
背後で、靴音がひとつ止まった。
「すみません」
若い男の声。振り向く間もなく、背に、冷たいものが沈んだ。
痛みは思ったよりも静かだった。熱が皮膚の内側に広がり、膝が勝手に折れた。手帳が落ち、路面に開いたページに、今日の日付が笑っている。
御手洗は振り向いた。男の顔が近い。頬は痩せ、目は凍っているのに、水気を残していた。悲しみと、焦りと、うまく名前のつかない色が混ざっている。
「……なんで」
声は出たのか、自分ではわからない。男は唇を震わせ、言葉を探すように喉を動かしたが、結局、何も言わなかった。
視界がゆっくり低くなる。バスのヘッドライトが遠くからこちらへ伸びてきて、白い帯が地面を這う。
その白の端で、御手洗はふいに思った。
――あぁ、君も置き去られたんやな。
置き去られた者の順番。年功序列のように、目に見えぬ列がある。古いものを守る者も、新しいものを作る者も、その列の外に押し出される日が、どこかにある。
自分は、古い側から、新しい側を蹴り出した。蹴り出したつもりが、自分の足場が崩れた。
男の目の奥に、昼の自分の目がちらりと映る。あのとき新人を呼びつけたフロアの白い照明。娘が栓を引いた風呂の音。打刻機の、ガチャン。すべてが同じ距離で並んだ。
「すまん」
口がそう動いた気がする。
バスが止まり、運転手が降りてきた。誰かが叫び、誰かが救急車を呼ぶ。世界は急に慌ただしくなるが、御手洗の耳には、遠い工場のファンの音に似た低い響きしか届かない。
視界の端で、男が逃げ出すのが見えた。走り方は下手だ。足が地面をきちんと掴めていない。振り返らない。振り返れない。
走り去る背中に、御手洗は、自分の若い日の背中を重ねた。窓際の席。紙の匂い。先輩の怒声。頼りない靴音。
夜風が、血の匂いを薄めていく。
御手洗は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。古い糸を、指で一本ずつ解くように。
「古いからこそ、信じられる」
そう信じてきた。今も捨てるつもりはない。
ただ、信じる対象に、人間の痛みも含めるべきだったのだろう。昔は昔、今は今――それを許すための、もう少し柔らかい場所が、自分の中にも必要だったのだ。
救急車のサイレンが近づく。赤い光が回転し、工業団地の壁に浮かんでは消える。
御手洗は、最後に目を閉じる前、薄く笑った。
――そっか。
君も、俺も。
同じ列の、少し違う場所で、ただ順番を待っていただけや。
置き去られた仲間や。
そう思うと、背の痛みは波のように遠のき、代わりに、古い機械が規則正しく回り続ける、あの優しい音だけが胸に広がった。
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