〇〇のために
彼女は、ずっと自分が正しいと信じていた。
「敵国の圧政に飲み込まれるか、それとも平和を守るか」――候補者の叫びは、彼女の心に火を点けた。朝は弁当を詰め、夕方は駅前でビラを配り、夜は子どもたちを寝かしつけてからSNSに投稿した。近所の主婦仲間のグループチャットにも、彼女は書いた。「子どもたちの未来のためよ。平和のためよ。」それを繰り返すたび、彼女の信念は形を持って硬くなっていった。
駅前のマイクは、彼女の喉の震えを増幅した。 「政治参加しないと、カルト信者と同じです! 黙ってるのは加担と同じ!」 拍手。通りすがりの若者が顔をしかめ、幼い子の手を引く母親が足を速めた。彼女は気づかない。いや、気づかないふりをした。正しい言葉は、多少の痛みを伴うものだと信じていたから。
やがて、その候補者は本当に大統領になった。
政権が始まるや否や、国の要職は身内と出資者で埋め尽くされ、テレビは毎日「敵国の陰謀」を叫び続けた。彼女は画面に頷きながら、同時にスマホを打った。消防や警察の職員たちが労働組合を作るというニュースに、彼女はこう書いた。「そんなの敵の手先よ。中の人から国を崩すつもり?」既読が並び、スタンプが飛ぶ。正義は早く広がるほど、正しさを増す――彼女はそう思っていた。
ある午後、学校帰りの子どもの列に、彼女はビラを配った。ランドセルの三年生が立ち止まり、彼女の顔を見上げる。 「おうちの人に言ってね。罷免に反対したら、戦争に行って死んじゃうかもしれないって。大事な話だから」 少年の目が泳いだ。彼女は微笑み、頭を撫でた。怖がらせてはいけない――そう思いながら、言葉は口を離れ、風に乗っていった。
別の日、地図の紙を抱えた男が町内を歩いていた。役所の委託調査員だという。電柱の番号を書き留め、路地の幅を測っている。彼女は仲間を呼んだ。「怪しい」「撮っておこう」「証拠が必要」。彼らはスマホを構え、男の胸ポケットの身分証をズームで撮った。警察にも電話した。「最近こういうの多いんです。安全のために」――電話口の向こうのため息に、彼女は気づかなかった。
憤った若者たちは街に繰り出し、道ゆく人々を問いただし、店を壊し、誰彼かまわず「スパイ」と呼んだ。彼女は怯えながらも、胸の奥では頷いていた。 「必要なことよ。未来を守るための代償なのよ。」 商店街の老舗が「政治ポスターは掲示しません」と貼り紙を出すと、グループチャットは騒然とした。「不買しましょう」「敵と同じ」「独裁政権の加担者」。彼女は「正しい情報」を拡散した。それは確信に満ちた推測で、事実と並べて置かれたとき、見分けがつきにくかった。
夫は、別の戦争にいた。昼夜を問わず薄暗いリビングに仲間が集まり、パソコンの画面にかじりついた。LANケーブルが床を這い、UPSの唸りが低く響く。彼は言った。「サーバーを麻痺させれば、奴らの宣伝は止まる」「非常電源を確保できれば、停電でもネットは死なない」「メッシュネットで自主通信網を――」「ハム無線の免許、取ったほうがいい」 机には半田ごて、プリント基板、Raspberry Pi、3Dプリンタで出力したアンテナの治具。モニタには黒い画面と白い文字、カーソルが高速で点滅する。グループ内で付けた作戦名が、ホワイトボードにいくつも並んだ。彼は髪をかきあげ、彼らは頷き、缶コーヒーの空き缶が塔を作った。彼女はその塔を見て言った。「天才だわ。ほんとうに、あなたは天才だわ」 彼の指が止まるのは、彼女が差し入れるカップ麺の蒸気のときだけだった。彼女はカードでポータブル電源を買い、ソーラーパネルを買い、非常食を買い、領収書を丁寧に封筒に入れて「作戦費」と書いた。彼の背中が少し猫背なことに、彼女は気づかなかった。あるいは、気づきたくなかった。
言葉は、静かに衣替えを始めていた。 「戦争を避けるため」に始まったはずが、いまは「平和のために戦わねばならない」へと。彼女の口から自然とそう漏れるようになった。愛国は誇り、犠牲は義務――そう信じるほかなかった。
夜、台所で皿を拭いていると、窓の外に新しい防犯カメラが光った。向かいの家だ。通りの角にも1つ増えた。自治会は見回りの回数を増やし、チャットでは「怪しい人」の写真が次々と共有された。彼女自身が撮った写真も、誰かが撮った彼女の写真も、同じフォルダの中で並んだ。疑いは、均等に降る雨のようだった。
大統領は在野党を解散させ、批判者を次々と「敵国の手先」と断じ、戒厳令を布告した。議会では拍手が鳴り響き、街角では「自由を守れ」というスローガンが渦巻いた。彼女も声を合わせ、駅前で再び叫んだ。
「政治参加しないとカルト信者と同じ! 無関心は犯罪です!」
その足元で、ビラを拾った小さな手が震えていた。誰の子かはわからない。彼女はマイクのノイズにかき消されるその震えを、雑踏のひとつとしてやり過ごした。
やがて台風が襲った。停電した家の中、彼女は蝋燭を一本灯し、子どもたちに絵本を読んでやった。「大丈夫よ」と自分に言い聞かせる。むしろ、停電は――ハイテクに頼りすぎた時代への、家族に立ち返る静かな贈り物。そう思おうとした。
同じ夜、別の家でも蝋燭が灯った。だが、そこは幸せな時間では終わらなかった。停電した農家で、年老いた母が夜半に用を足しに立つたび転ばぬよう、息子が置いた蝋燭から火が広がり、納屋ごと家は燃え、母は戻らなかった。
数日後、政治家が弔問に現れ、告別式の席で遺族の手に火災予防ポスターを握らせ、記者会見を始めさせた。参列者の怒号が飛ぶ。「葬式の最中だぞ! 嫌がらせより、壊れた屋根を直してくれ!」
政治家は顔をしかめ、吐き捨てた。「そんなの自分で直せや。何でも政府に頼るな。そもそも在野党が施政を邪魔するから災害対策も進まないだろうが」
一方で、前政権の名が付いた道路の名称変更には、湯水のように予算が注がれ続けていた。
毎週、決まった夜刻になると、全てのテレビ局は同時に中断し、大統領の「団結演説」を流すようになった。画面の中の彼は言う。「敵に機会を与えるな」
市街戦を想定した新戦術の発表では、民間車両に偽装した機甲運用の導入が誇らしげに語られた。「民間人を巻き込むな」「予算は野党に凍結されたと繰り返すのに、どこから金が出ている」と疑問を口にした人は、すぐさまネットで見つけ出され、叩かれ、晒された。
トンネルや海岸線を背景に写真を撮っていただけの観光客が、唐揚げ屋台の親方が、次々と「スパイ」認定された。「写真を敵軍に送るつもりか!」「地元の方言が喋れない、怪しい」――若い連中がスマホを掲げ、生配信しながら取り囲み、殴る音がコメント欄に流れていった。
さらにひどいことに、「敵国」で大きな天災が起きたとき、こちら側のネットは押し寄せ、「ざまあ」「天罰だ」「思い知ったか、侵略者め!」と心なき言葉で荒らした。やがて向こうの政府も、国内に高まる憤りを無視しきれなくなっていった。
そして、空が裂けた。
警報が鳴り響き、空に火線が走り、街は炎に包まれた。長距離ミサイルの残光が、空を真紅に染めていた。彼女は泣き叫ぶ子どもたちの手を握りしめ、崩れ落ちるビルの影に身を寄せた。数日前、彼女が通報した地図調査員が、同じ路地で測っていた場所だった。足元の砂塵の匂いが、妙に懐かしかった。あのときの正義は、今も正義のままだろうか――そんな問いが喉元まで来て、そこで止まった。
リビングのホワイトボードは、部屋の隅で倒れていた。缶の塔も、半分ほど崩れていた。夫は姿を消した。逃げたのか、捕まったのか、もう誰も知らない。椅子の座面にはコーヒーの輪染みが2つ、重なっていた。片方は濃く、片方は薄い。乾いた輪は、指でなぞっても消えなかった。
グループチャットには、まだ通知が届く。「敵性店舗リスト更新」「夜九時から緊急の集会」「不審者共有」。誰かが古い写真を再掲している。駅前で彼女がマイクを握る写真だ。コメントが並ぶ。「勇気」「正しい」「ありがとう」。画面の向こうは、いつでも彼女を肯定した。画面のこちらでは、子どもが啜り泣いていた。
彼女は唇を噛みしめ、震える声で呟いた。 「悪いのは侵略者よ。私は正しかった。子どもたちの未来のために、できることはすべてやったのだから。」 その言葉を確かめるように、彼女は何度か頷いた。耳の奥で、駅前の反響がまだ続いていた。政治参加しないと――カルト信者と――同じ――。
その瞬間も、瓦礫と煙の中で、彼女はまだ信じていた。 自分は間違っていない、と。
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