滅びた国の絶望王女が勇者を探していたので、俺(勇者)も一緒に探してみることにした件
Gaku
第1話:灰色の空、硝子の涙
完璧な世界だった。
少なくとも、王女シルフィアにとっては。
うららかな初夏の陽光が、磨き上げられた白亜の大理石の上で、まるで生き物のように踊っている。王城の東テラス。そこは、世界からありったけの幸福を摘み取り、丹精込めて作り上げた箱庭のような場所だった。風は、庭師がシルフィアのためだけに育てた純白の薔薇「プリンセス・ティアーズ」の、蜂蜜のように甘く、それでいて朝露のように清らかな香りを運んでくる。
「アラン。紅茶が冷めてしまいましたわ。淹れ直してくださる?」
シルフィアは、まだ半分も残っているティーカップを指さし、わざとらしく唇を尖らせた。プラチナブロンドの髪が、風に戯れてきらきらと光の粒子を振りまく。彼女の小さな気まぐれは、この世界では絶対的な法則だった。
「かしこまりました。姫のお口に合わぬものは、この世にあってはなりませんから」
向かいの席に座る騎士団長、アラン・グレイフィールドは、困ったように眉を下げながらも、その口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。深い森の色をした瞳が、慈しむように、愛おしむように、シルフィアだけを見つめている。
彼は黙ってカップを手に取り、新しい茶葉を用意し始めた。その流れるような所作、シルフィアの好みを寸分違わず理解している完璧な手順。それら全てが、彼女の世界が、彼女のために秩序正しく動いている証だった。
「それから、アラン。今度の建国祭、わたくしのダンスのお相手、務めてくださるのでしょう?」
「それは……光栄ですが、私のような一介の騎士が姫のお相手など」
「わたくしがいいと言っているのです。あなた以外の殿方と踊る気など、毛頭ありませんわ」
断られることなど、微塵も考えていなかった。彼女が望めば、それが現実になる。昨日と同じように今日があり、今日と同じように、もっと素晴らしい明日が来る。それが、この世の揺るぎない真理なのだと、何の疑いもなく信じていた。
アランは、一瞬だけ言葉に詰まった後、幸せそうに、そして少しだけ照れたように微笑んだ。
「……生涯の、誉れでございます」
その言葉に満足し、シルフィアは三段トレイのスコーンに手を伸ばした。サクッとした歯触り、バターと柑橘の豊かな香り、甘酸っぱい木苺のジャム。味覚が幸福を告げ、耳には小鳥のさえずりが届き、肌には心地よい風が触れる。そして視界には、ただ一人、愛する人の姿がある。
ああ、なんて完璧な世界。
この幸福は、この温もりは、この愛は、決して失われることのない、永遠のものなのだと。
彼女は、まだ知らなかった。
世界とは、人の願いを最も残酷な形で裏切るために存在する、巨大な悪意の塊であることを。
そして幸福とは、失う瞬間の絶望をより深く味わわせるために用意された、甘く香る毒の前菜に過ぎないということを。
その、最初の亀裂は、音もなく訪れた。
さえずっていた小鳥たちが、一斉に口をつぐむ。風が、ぴたりと止んだ。まるで、世界が息を止めたかのように。
シルフィアが異変を感じて顔を上げた、その瞬間。
ゴゴゴゴゴゴゴ……!
腹の底を揺さぶるような地鳴りと共に、西の空が、ありえない速度で黒く塗りつぶされていく。地平線の彼方から、巨大な津波のように押し寄せる黒煙。それは、この世の終わりを告げる、巨大な絶望のカーテンだった。
「敵襲だ!総員、戦闘配置!」
アランの、今まで聞いたこともない、鋼のように鋭い声が響く。
完璧だった世界が、硝子のように砕け散る音がした。
***
どれほどの時間が経ったのか。一秒が一時間にも、一時間が一瞬にも感じられた。
シルフィアは、父である国王と共に、城の最上階にある謁見の間の、巨大な窓から眼下を見下ろしていた。窓ガラスは、絶え間なく吹き付ける熱風で、触れれば火傷をしそうなほど熱を帯びている。
彼女が愛した、宝石箱のように美しかった王都は、今や、阿鼻叫喚の地獄そのものだった。
視界の全てを埋め尽くすのは、燃え盛る炎の、狂ったような赤。そして、空を覆い尽くす、絶望的なまでに濃い黒煙。
風が運んでくるのは、もはや花の香りではない。人の肉が焼け、髪が燃え、骨が爆ぜる、 sickening な匂い。鉄が錆びつき、血が乾いた、不快な匂い。そして、文明が灰になっていく、乾ききった終末の匂い。
耳を劈くのは、鳥のさえずりではない。建物の崩れる轟音。何かが爆ぜる甲高い破裂音。そして、何万という市民の、助けを求める声、許しを乞う声、愛する者の名を叫ぶ声、それが断末魔の絶叫へと変わる、その瞬間の連続。
「父様……!」
シルフィアは、隣に立つ父の腕にすがりついた。いつもは威厳に満ちたその背中が、今は小刻みに震えている。
魔族。古の災厄。その軍勢は、もはや「軍」ではなかった。それは、ただ破壊し、喰らい、蹂躙するためだけに存在する、純粋な悪意の奔流だった。王国の誇る騎士団は、まるで嵐の前の木の葉のように、あまりにもあっけなく散っていった。
「もはや、これまでか……」
国王の乾いた唇から、絶望の言葉が漏れた。その瞳には、正気を失ったかのような、虚ろな光が宿っている。
「最後の、最後の手段を……使う」
「いけません!父様!それだけは!あれは、救いなどではありません!ただの、破滅です!」
シルフィアは父の意図を悟り、血を吐くような声で叫んだ。王家に伝わる最後の禁忌。天そのものに干渉し、巨大な隕石を召喚して、指定した領域の全てを、敵も、味方も、国も、民も、草木一本に至るまで、完全に消滅させるという狂気の秘術。それは救国ではなく、魔族との壮大な心中だった。
「黙れ」
父が、低い声で言った。その声には、何の感情もなかった。
「お前のような、幸福しか知らぬ子供に、この絶望がわかるものか。全てを失う王の痛みが、わかるものか」
その言葉は、鋭い氷の刃となって、シルフィアの心を容赦なく突き刺した。
思い通りにならない。
父の心さえも、今や彼女の願いが届かない、遠い、暗い場所へ行ってしまった。
父は、狂っていた。絶望が、彼の心を喰い破っていた。
彼は、窓の前に進み出ると、両手を天にかざした。詠唱が始まる。それはもはや言葉ではなく、世界の法則そのものを無理矢理に書き換えようとする、冒涜的な響きを持っていた。
空が、燃えるような赤から、死体が腐敗したかのような、病的な紫色へと変貌していく。
見上げた紫色の空の中心が、巨大な傷口のように裂けた。
その裂け目の向こう、漆黒の宇宙を背景に、一つの「罰」が姿を現す。
それは、絶望と憎悪と狂気を混ぜ合わせ、神が捏ね上げて創り出したかのような、巨大な岩塊だった。表面は不気味な赤黒い光を放ち、周囲の空間を陽炎のように歪ませている。城よりも、背後にそびえる山々よりも、遥かに巨大なそれが、ゆっくりと、しかし確実に、この世界に「死」を宣告するために落ちてくる。
シルフィ-アは、ただ、その光景を前に立ち尽くすことしかできなかった。
ああ、そうか。
世界とは、こういうものだったのだ。
どれだけ願っても、どれだけ叫んでも、何一つ、私の思い通りにはならないのだ。
そして、その「思い通りにならない」という事実は、常に、考えうる限り最悪の形で、私の前に突きつけられるのだ。
***
光。
世界が、思考が、感情が、存在の全てが、純粋な「白」に飲み込まれた。
次に、音が消えた。神が世界の電源を引き抜いたかのように、絶対的な無音が訪れる。悲鳴も、轟音も、何もかもが、その白い虚無の中に溶けて消えた。
そして、遅れてやってきたのは、音ではなく、純粋な「破壊」という名の暴力だった。
凄まじい衝撃波が、謁見の間の巨大な窓ガラスを、まるで砂糖菓子のように粉々に砕き散らし、シルフィアの華奢な体を、木の葉のようにいとも簡単に吹き飛ばした。
どれほどの時間が、意識の暗闇を彷徨ったのだろう。
シルフィアが次に気づいた時、彼女は瓦礫の山の中に倒れていた。
降りしきる灰が、雪のように静かに、音もなく、世界を覆い尽くしていく。先ほどまでの喧騒が嘘のように、あたりは不気味なほどの静寂に包まれていた。音という音を、この灰色の雪がすべて吸い込んでしまったかのようだった。
「……う……」
身体のあちこちが、焼けるように痛む。だが、そんなことはどうでもよかった。
朦朧とする意識の中、彼女は必死に身を起こし、周囲を見渡した。
父の姿はない。玉座も、美しいタペストリーも、何もかもが砕け散り、原型を留めていなかった。
灰色の世界。彩度を失った、死の世界。
その中で、彼女の瞳は、一点だけを見つめていた。
彼女から数メートル先。崩れ落ちた巨大な城壁の梁の下から、見慣れた森の色のマントが、覗いている。
「……アラン……?」
声にならない声で、彼の名を呼ぶ。
シルフィアは、這うようにして、彼のもとへ近づいた。足を引きずり、瓦礫に手を切りながら、ただ一心に。
アランは、そこにいた。
彼は、崩れ落ちてくる梁から、咄嗟にシルフィアを庇うように突き飛ばし、その下敷きになっていたのだ。身体の半分以上が、無慈悲な瓦礫に押し潰されている。
「アラン!しっかりして!」
シルフィアは、彼の肩を掴んで揺さぶった。彼はゆっくりと、本当にゆっくりと、その顔を上げた。額からは血が流れ、鎧は砕け、しかし、その深い森の色をした瞳だけは、いつかテラスで見た時のように、穏やかな光を宿していた。
「ひ……め……ご無事……で……」
かすれた声が、彼の唇から漏れる。彼は、何かを伝えようとするかのように、ゆっくりと手を伸ばした。その手は血と泥に汚れ、痛々しいほどに震えている。
「喋らないで!今、助けますから!だから……!」
シルフィアが、彼の震える手に自分の手を重ねようとした、その瞬間だった。
ピシッ。
まるで、凍てついた湖面にひびが入るような、乾いた音がした。
アランの伸ばした指先に、光の亀裂が走ったのだ。
「え……?」
シルフィアの思考が、完全に停止する。
亀裂は、隕石がもたらした未知のエネルギーによって、彼の存在そのものを蝕んでいた。それは、彼の指先から始まり、腕を伝い、肩へ、胸へと、瞬く間に広がっていく。彼の肉体が、内側から光の粒子へと変換され、世界の法則から「消去」されていく。
アランは、自らの身体が消えゆくその中で、最期の力を振り絞るように、シルフィアに向かって、優しく微笑んだ。そして、彼の唇が、音もなく動いた。
『ア・イ・シ・テ・ル』
その言葉が、音になることはなかった。
彼の唇が、言葉を紡ぎ終える直前に、光の粒子となって霧散したからだ。
次の瞬間、彼の身体は、形を保つことができず、内側から崩壊した。
砂よりも細かく、陽光に舞う埃よりも儚く。
ついさっきまで、そこに確かな温もりと生命を持っていたはずの彼の身体が、サラサラと、音もなく、灰色の塵となって風に溶けていく。
シルフィアが触れようとした指先は、空を掻いた。彼女の指の間を、彼だったものが、名残を惜しむようにすり抜けていく。
温もりも、重さも、匂いも、声も、存在したという事実さえも、何もかもが、一瞬で「無」に還った。後に残されたのは、彼がいた場所の、完全な空虚だけだった。
愛する国も。
尊敬する父も。
そして、今、この腕の中で、想いを寄せていた人さえも。
自分の意志とは、願いとは、全く無関係に。あまりにも理不尽に、あまりにも残酷に、失われていく。
シルフィアの心の中で、何かが、ぷつりと切れた。
それは、世界と自分を繋ぎとめていた、最後の細い糸だったのかもしれない。
硝子が砕け散るような、幻聴が聞こえた。
ああ、そうか。
これが、答えだったのだ。
この世界に、神様なんていない。
この世界に、永遠なんてない。
そして、この世界は、私が最も大切だと思うものを、私が最も望まない形で、私の目の前で、粉々に砕き散らすように、最初から設計されているのだ。
私の思い通りにならないのではない。
私の願いと、正反対のことが起こるように、できているのだ。
その絶対的な、悪意に満ちた真理だけが、灰色の灰となって、彼女の砕け散った心の上に、静かに、どこまでも静かに、降り積もっていく。
涙は、一滴も出なかった。感情を抱くための器が、もう、どこにもなかったからだ。
シルフィアは、ただ、アランがいたはずの「無」を、大きく見開いたままの瞳で、いつまでも見つめ続けていた。
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