第2話:瓦礫の中の伝承

意識が、冷たい石の床からゆっくりと身体を剥がすように浮上した。

最初に感じたのは、黴と埃、そして遠い場所で何かが腐敗していく甘ったるい死臭が混じり合った、淀んだ地下の匂いだった。次に、硬く冷たい石の感触が、背中からじわりと体温を奪っていくのを感じた。目を開けても、そこに光はなかった。完全な闇。ただ、すぐ近くで誰かが浅い呼吸を繰り返す音と、壁を伝う水滴が、忘れた頃にぽつり、と落ちる音だけが響いていた。


「……姫様……お気づきに……なられましたか……」


闇の中から、か細く、力のない声がした。年老いた侍従、バルフォアの声だった。しかし、その声にはかつての張りはなく、まるで燃え尽きる寸前の蝋燭の炎のように、か弱く揺れていた。

やがて、小さな火花が散り、松明に火が灯される。その頼りない光が照らし出したのは、王城の地下にある大貯蔵庫の一角だった。あの日、天から降り注いだ「罰」から、奇跡的に、あるいは悪夢の続きとして生き残ってしまった、十数人の人間たちの姿があった。

誰もが、煤と垢に汚れ、その瞳からは光が失われていた。彼らは王国の最後の臣下ではなく、ただの生存者だった。いや、死に損なった者たち、と言った方が正確かもしれなかった。


シルフィアは、何も答えなかった。声の出し方を忘れてしまったかのようだった。ただ、ゆっくりと上半身を起こす。身体の節々が軋むように痛み、頭の奥で鈍い痛みが鳴り響いていた。

何日、眠っていたのだろう。

それすら、どうでもいいことのように思えた。


その日からの日々は、色も、味も、音も、感情もない、ただ緩やかな死へと向かって時間が腐敗していくのを待つだけの繰り返しだった。

国は、滅びた。完全に、跡形もなく。

王は死に、民は死に、騎士団も、城も、街も、全てが灰になった。ここにいる十数人が、かつて栄華を誇った王国の、最後の遺物だった。

侍女が運んでくる水のようなスープは、何の味もしなかった。シルフィアは、ただ唇を湿らせるだけで、それ以上は頑なに拒んだ。生きるための栄養を摂るという行為そのものが、彼女には理解できなかった。なぜ、生きなければならないのか。この、何もかもが終わってしまった世界で。

バルフォアが語る言葉は、もはや再興の希望などではなかった。


「……北の貯水槽も、壁の亀裂から泥水が入り込み、もう飲めません」

「最後の干し肉も、あと三日で尽きますな」

「西の通路は、先ほどの崩落で完全に埋まってしまいました。もう、地上へ出る道は……」


それは、一つ、また一つと、生きるための選択肢が消えていくのを、ただ確認するだけの作業だった。誰も、もう泣かなかった。涙さえ、とうに枯れ果てていた。

シルフィアは、粗末なベッドの上で膝を抱え、ただ闇を見つめて過ごした。

時折、忘れた頃に、あの日の光景がフラッシュバックする。

燃え盛る街。狂気に染まった父の横顔。そして、目の前で、音もなく、光の粒子となって消えていった、アランの、最後の優しい瞳。

その映像が脳裏をよぎっても、彼女の心は、凪いだ水面のように、何の波も立たなかった。悲しみも、怒りも、絶望さえも感じなかった。感情を抱くための器が、あの日、彼の存在と共に、完全に砕け散ってしまったからだ。

彼女は、生きることをやめたのだ。ただ、心臓が動き、呼吸を繰り返しているだけの、美しい抜け殻になった。生きているという事実そのものが、耐えがたい罰となって、彼女の魂を静かに蝕んでいく。それが、彼女の世界のすべてだった。


***


変化が訪れたのは、最後の食料が尽き、松明の油も底をつきかけ、誰もが死をすぐそこに感じ始めた、ある夜のことだった。

その日もシルフィアは、ベッドの上で、ただ闇を見つめていた。そんな彼女のいる空間に、バルフォアの、喘ぐような声が響いた。


「……姫様……最後に……これを……お聞き届けください……」


彼は、最後の力を振り絞るようにして、松明の燃えかすをシルフィアの近くに寄せた。その手には、ボロボロになった一冊の古文書が握られている。それは、彼が瓦礫の山の中から、たった一つだけ見つけ出した、王家の遺物だった。


「どうせ……皆、ここで果てる身。ならば、せめて……我らが国の始まりの物語を……聞きながら……」


それは、もはや慰めですらなかった。死にゆく者たちが、自らの墓標に刻むための、鎮魂歌にも似ていた。

バルフォアは、咳き込みながらも、震える指で羊皮紙の頁をめくり、かすれた声でその内容を読み上げ始めた。

天地創造の物語。女神から聖剣を授かり、この地に国を興した初代国王の英雄譚。その退屈な朗読が、死を待つ者たちのための、静かな子守唄のように、薄暗い地下空間に響き渡る。

シルフィアの意識は、その声を聞きながら、ゆっくりと闇の底へと沈んでいこうとしていた。もう、永遠に目覚めることのない、深い眠りへ。


「……第五章、最後の節……『――国の歴史、千の年を経て、大いなる災厄、天より来たりて地を裂き、人の子が流す血、川となりて国を覆う時……』」


その一節に、シルフィアの沈みかけていた意識が、針で刺されたかのように、ほんのわずかに反応した。


「『……民の嘆き、天に届き、女神の涙、灰色の雨となって降り注ぐ時、心せよ。それは終焉にあらず、始まりの兆しなり。古の契約に基づき、世界の理の外より、一人の来訪者が現れるであろう』」


バルフォアの声が、最期の力を振り絞るように、少しだけ強くなる。


「『その者、人の形をすれど、人にあらず。神の理不尽をその身に宿し、星を砕き、大地を揺るガす。その者の名は――』」


一瞬の、沈黙。


「『――"勇者"と、呼ばれる』」


勇者。

その、たった一言が。

まるで、死んだ心臓に直接、雷を撃ち込まれたかのように、シルフィアの身体を貫いた。

空っぽだったはずの心に、その言葉だけが、灼熱の鉄となって突き刺さる。止まっていたはずの何かが、軋むような音を立てて、無理矢理に動き始めた。


「……勇者……」


シルフィアは、何日ぶりかに、自らの声を発した。それは、ひどくかすれて、乾ききった声だった。


「『"勇者"は、世界の涙を拭うために現れる。その理不尽なる力をもって、歪みし因果を正し、絶望を希望へと塗り替えるだろう。ゆえに、諦めることなかれ。最後の王よ、希望を胸に、その者を待て』」


バルフォアが古文書を読み終えるのと、シルフィアがベッドから転がり落ちるようにして、彼の足元に這い寄ったのは、ほぼ同時だった。


「……それを……!」


抜け殻のようだった彼女からは、想像もつかないほどの力で、シルフィアはバルフォアの手から古文書をひったくった。羊皮紙の、ざらついた乾いた感触が、やけに生々しく指先に伝わる。古びたインクの、鉄錆のような匂いが鼻をついた。

彼女は、食い入るように、その一文を、何度も、何度も、繰り返し読んだ。

震える指先で、"勇者"という文字を、確かめるように、狂ったようになぞる。


「姫様……?」


バルフォアが、彼女のあまりの豹変ぶりに、怯えたような声を漏らす。

これだ。

これしかない。

この、どうにもならない世界。何もかもが思い通りにならない、この絶望的な現実。それを覆すことができる、唯一の可能性。

言い伝え?おとぎ話?

そんなことは、どうでもいい。

今の彼女には、これ以外の「意味」が存在しないのだ。生きる意味も、死ぬ意味も失った彼女の空っぽの世界に、たった一つだけ投下された、絶対的な「命令」。


彼女の虚ろだった瞳に、初めて、明確な光が宿った。

しかし、それは希望の輝きではなかった。

それは、何かに憑かれた者の、どこまでも冷たく、そして狂信的な光だった。


***


その日を境に、シルフィアは別の生き物になった。

彼女は、生きるためにではなく、「勇者を探し出す」という、ただ一つの目的を遂行するためだけに動く、精密な機械と化した。


朝、彼女は自ら起き上がると、残された最後の水と、壁に生えた苔を口にした。味など感じない。ただ、この身体を動かすための「燃料」として、無感情にそれを摂取した。

昼、彼女は闇の中で、身体を動かし始めた。筋力を取り戻し、剣を振るうための訓練。その動きには、一切の迷いも感情もなかった。ただ、目的のためにプログラムされた動作を、正確に繰り返すだけ。

夜、彼女は松明の残り火を頼りに、古文書を隅々まで調べ上げた。"勇者"に関する記述が、他にないか。どんな些細な情報でもいい。手がかりが欲しかった。


その姿に、バルフォアをはじめとする生存者たちは、喜びではなく、静かな恐怖を覚えた。

姫様は、生きる気力を取り戻されたのではない。

何かもっと、恐ろしいものに、その身を乗っ取られてしまったのではないか、と。

彼女の口から出る言葉は、ただ一つ。


「勇者を、見つけなければならない」


それは、希望の言葉ではなかった。

それは、死ぬことさえ許されない者に課せられた、絶対的な「使命」。

それは、彼女の心を永遠に縛り付ける、新たな呪いの言葉だった。

「もし、勇者が見つからなかったら?」

その問いは、もはや彼女の中には存在しなかった。見つける。それ以外の未来は、彼女の世界には設定されていなかった。


そして、三日後。

シルフィアは、決意を固めた。

生存者たちが眠る中、彼女は静かに動き出す。彼らが生き延びるために残しておいた、最後の水袋と、残りわずかな干し肉を、何の躊躇もなく自分の鞄に詰めた。罪悪感など、一欠片もなかった。彼らは、ここで死ぬ。自分は、使命を果たすために、生きなければならない。ただ、それだけのことだった。

粗末な革の鎧を身に着け、腰には父の形見である長剣を差す。


「……姫様……お待ち、ください……」


か細い声で、バルフォアが彼女を呼び止めた。彼は、全てを察していた。


「……どうか……ご無事で……」


それが、老いた忠臣が、最後に絞り出した言葉だった。

シルフィアは、一度だけ、彼の方を振り返った。しかし、その瞳には、何の感情も映っていなかった。彼女は小さく頷くと、踵を返し、瓦礫で半ば埋まった通路の、その先の暗闇へと、一人、消えていった。


地上へと続く、長い長い、闇。

一歩、また一歩と進むたびに、死を待つ者たちの気配は遠のき、外の、灰の匂いを含んだ冷たい風が、彼女の頬を撫でた。

やがて、見慣れた城門の前に立つ。

かつては壮麗な彫刻が施されていたはずの門は、半分が崩れ落ち、無残な骸を晒していた。門の向こうには、どこまでも続く、灰色の荒野が広がっている。

シルフィアは、一度だけ、自分の故郷を振り返った。

崩れ落ちた王城。静まり返った街。そして、すべてを覆い尽くす、鉛色の空。

彼女は、その光景を目に焼き付けると、唇をきつく結んだ。


「……見つけ出す」


その誓いは、誰に聞かせるでもない、彼女自身の魂に刻み込んだ、絶対的な命令だった。

それは、この国を救うための、希望の言葉ではない。

自らの心を縛り、この先の長い旅路で、彼女を人間でなくさしめるための、重い、重い呪いの言葉だった。


夜明け前の、最も暗い時間。

冷たい風が、彼女のフード付きのマントを、亡霊のように揺らした。

王女シルフィアは、たった一人、灰色の荒野へと、その小さな一歩を、踏み出した。

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