第2話 鬼の副長、不器用な情を学ぶ
翌朝、夜明けと共に武具蔵の前に設けられた「刀改め」の場には、数百に及ぶ家臣が渋面で並んでいた。朝霧が立ち込める中、男たちの口からは白い息が漏れ、まるで不満を煙のように立ち上らせているようだった。その列は雑然として、信長に古くから仕える譜代の者、最近召し抱えられた直参の者、そしてつい先日まで鍬を握っていた農兵あがりの雑兵が、まるでひとつの大きな不満の塊のように、ぐちゃぐちゃに混じり合っていた。
ざり、ざり、と草履が砂利を踏む鈍い音が、苛立ちを伝える。土方から見て、彼らの身なりは、幕府の正規の人間と比べてあまりにみすぼらしい。刀の鞘は手入れが行き届かず、あちこちで木肌が擦れ、衣擦れの音がやたらと耳につく。誰もが一本ずつ刀を持ち、不満げな顔で若様の姿を待っている。
「また若殿様の新しい遊芸か」
「どうせ三日坊主よ。そのうち笛でも吹くのではないか」
「狐火に取り憑かれたかもしれん。以前とは人が変わったようよ」
「うつけめ、気まぐれに付き合わされるとは、たまらん」
陰口が耳に届く。その声は、土方の耳には、近藤さんを愚弄した壬生浪士組の連中の声に聞こえた。怒りが、血管をドクドクと脈打たせ、沸騰した湯が全身を巡るような熱を帯びる。
(……ああ、そうだ。あの頃もそうだった。局中法度を定めた時、連中は俺の背中に向かって笑っていた。不満分子が溜まり、やがては内側から崩れる。芹沢鴨がそうだった。その弱さが、新選組を…いや、この尾張を潰しかねない。)
土方の脳裏に、新選組時代の記憶がフラッシュバックする。
局中法度を定め、規律を厳しくした時、不満を漏らした隊士たちの冷たい視線。
池田屋で死闘を繰り広げた時、火花を散らした刀身が、敵の刀とぶつかり合った感触。
鳥羽伏見で、薩長軍の新式銃に仲間たちが次々と倒れていった絶望。
そして、五稜郭で、雪の上に転がった、血錆がこびりついた和泉守兼定。
その中心に、土方歳三は立っていた。
彼の傍らには、宿老の柴田勝家と、若き前田犬千代が控えている。
土方は一本ずつ、家臣たちの刀を手に取り、無言で検分していく。刀に触れるたび、ひやりとした冷たさと、油が乾ききった不快なぬめりが指先に伝わってきた。
一本目。手垢がこびりついた柄。
二本目。鍔が錆で斑に変色し、鯉口が割れて刃鳴りがする。
三本目。目釘が緩み、刀身がカタカタと音を立てる。
(こんな刀で、一体何を守れるというのだ。)
土方の苛立ちは募る一方だ。
その時、一人の家臣が差し出した刀に、土方の手が止まった。
その刀は、他の刀と比べてはるかに綺麗だった。刃こぼれ一つなく、油もさしてある。
土方がその男の顔を見ると、彼は小刻みに震え、顔を真っ赤にしていた。
彼の指先は、硬く分厚い豆がいくつも潰れて血が滲んでいた。泥だらけの草鞋の紐が、足元で解けかけている。
「…お前、名は」
「はっ、…木下藤吉郎にございます!」
藤吉郎と名乗る男は、緊張で声が上ずっていた。
土方は、藤吉郎の刀をじっと見つめ、問うた。
「なぜ、お前の刀だけが、これほどに手入れされている」
藤吉郎は、どもりながら答えた。
「わ、若殿の仰せの通り、刀は武士の命でございますから……」
土方は、藤吉郎をじっと見つめた後、刀を鞘に収め、彼に返した。
「……明日も、その刀を手に、この場へ参れ」
藤吉郎は、その言葉の意味が分からず、ただ呆然と立ち尽くした。
夜になり、土方は書斎で一人、刀番帳を付けていた。筆を走らせる音だけが、静かに響く。灯火が揺れ、土方の影が壁にゆらゆらと揺れる。
(近藤さんなら、この刀番帳に何と書いただろうか…)
土方の思考が、止まっていた水面に波紋を広げるように暴走し始めた。
(きっと近藤さんなら、刀の出来不出来だけでなく、その持ち主の人間性まで記していただろうな。「藤吉郎…この者は、貧しい出なのだろう。だが、刀への情は誰よりも深い。この男の目には、天下が見えている」なんて、俺の知らない視点で書いたに違いない。ああ、情けない。俺はまだ近藤さんの足元にも及ばない。)
その時、宿老の柴田勝家が書斎に入ってきた。
「若様、いくら何でも厳しすぎます。我ら織田家は、他家と比べて規律が緩い故、家臣は自由に振る舞っております。それを、いきなり御屋形様の如く振る舞われては……」
「規律が緩い? それが、尾張の弱さだ。刀の手入れもできぬ者が、天下など取れるか」
「若様、それでは家臣が離れますぞ。尾張は金も兵も乏しいのです。兵を統率するには、ある程度の自由が必要です」
土方は、筆を置き、冷たい目で勝家を見た。
「金も兵も乏しいからこそ、刀から改めるのだ。刀の手入れもできぬ者が、天下など取れるか」
勝家は、土方の言葉に反論できなかった。
その翌朝、刀改めの場に、土方は藤吉郎を伴って現れた。
「貴様ら、よく聞け」
土方は、藤吉郎に一本の刀を渡した。
「この男は、刀の手入れを怠らなかった。なぜか分かるか? 己が命を守るため、そして、殿の命を守るためだ」
藤吉郎は、土方の言葉に、顔を真っ赤にして震えていた。
土方は、家臣たちを見渡した。
「刀の手入れを怠る者は、己の命を軽んじ、ひいては殿の命を軽んじることだ。そのような者は、我らの仲間ではない」
家臣たちは、土方の言葉に、息をのんだ。
土方は、再び藤吉郎に声をかけた。
「藤吉郎、今日から、お前は我らが先鋒を務めよ」
藤吉郎は、土方の言葉に、ただ涙を流していた。
それは、土方が、前世の「不器用な情」を、この世で初めて、形にした瞬間だった。
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