第2話
第三章 決算報告書
「……俺の人生の在庫は、不良品だらけだ」
そう口にしたとたん、死神が手を叩いて爆笑した。
「ははは! 最高、最高! 決算赤字の部長なんて聞いたことないよ!」
徳昭は、死神の笑い声に包まれながら、不思議な高揚感を覚えていた。自分の失敗を笑い飛ばしてもらえる快感。こんな経験、人生で初めてだった。
徳昭は呻きながら続けた。
「実はな……俺、部長になってから何度か、接待費をごまかしたことがある」
言葉にした途端、罪悪感よりも解放感の方が強かった。誰にも言えなかった秘密を、ついに口にできた安堵感。
ヒュンッ! 矢が飛び、頬をかすめた。血が滲む。
「ぎゃあああ!」
痛みで意識が飛びそうになりながらも、徳昭の心の奥で何かが弾けていた。隠していた自分を、ついに解放できる喜び。
「そう来なくちゃ!」死神は興奮で跳ね回る。「もっと! もっと粉飾決算を聞かせて!」
「粉飾じゃねえ……!」徳昭は咳き込みながらも続けた。もう止まらない。抑えていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。「俺は……俺は……息子が……ほんとは自分の子じゃないんじゃないかって……何度も思った……!」
その瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。二十年間抱え続けた疑念。聡子の元カレに似ている翔太の顔立ち。DNA鑑定をしたくても、できなかった臆病さ。愛していながら、信じきれなかった自分の弱さ。
ズバンッ! 肩に矢が突き刺さる。
「がはっ!」
目の前が白くなりながらも、彼は笑った。痛みの向こうに、清々しいまでの爽快感があった。
「……ああ、言っちまった……」
「いやあ、面白い!」死神は床に転げ回っていた。「家庭崩壊のスパイスまで出てくるなんて! 棚卸しコントかよ!」
徳昭は朦朧としながらも、まだ舌が動いている。もうどうにでもなれ、という開き直りが、最後の告白を押し出した。
「俺は……浮気相手の輝美よりも……会社の後輩の男の方が……好きだったかもしれん……」
言葉にした瞬間、二十年間封印していた感情が蘇った。新入社員として入ってきた健太郎の、人懐っこい笑顔。彼と残業している時の、妙な安らぎ。女性への愛とは違う、でも確かに愛だった何か。
ヒュン! ヒュン! 二本の矢が同時に飛び、両足を射抜いた。
「ぎぃぃい!」
血の匂いがアスファルトに広がる。しかし痛みの中で、徳昭は初めて本当の自分に出会えた気がした。
死神は涙を流して笑っている。
「やめて、もう……! お腹痛い! まさか隠れた恋愛対象まで出すなんて……! こんなの予想外すぎる!」
「俺も……予想外だよ……」徳昭は荒い息でつぶやいた。自分でも知らなかった本音が、次々と口から飛び出していく不思議さ。「……こんな告白、死ぬ前にするとはな」
自分の人生の全てを受け入れた時、不思議な平安が心を満たした。
死神は肩を震わせ、ふと真顔になった。
「いいねぇ。あんたの決算報告書、最高のエンタメだ。さて……そろそろ締めに入るかい?」
——残りわずかな在庫。
徳昭は、血に濡れた決算書の最後のページをめくるように、唇を開いた。心の奥から、最後の本音が静かに湧き上がってくる。
第四章 決算のあと
徳昭は、口の端から血を垂らしながら、人生で初めて心の底から出てくる言葉を待った。恥も外聞もかなぐり捨てた時、本当に大切なものが見えてきた。
「……俺は……ただ……誰かに……本当の俺を……見てほしかったんだ……」
その言葉を口にした途端、涙が溢れ出した。五十五年間、仮面を被り続けてきた疲労感。誰にも理解されない孤独感。そして、ついに本音を言えた解放感。
静寂。
真夏の喧騒が遠のき、矢の飛ぶ音も止んだ。
死神は、黒い外套の裾を揺らしながら、ゆっくりとしゃがみこんだ。
その眼差しは、さっきまでの悪戯好きな子供のような光ではなく、深い理解と、どこか哀れみを帯びていた。
「……なるほどね。最後の最後に、正直になったか」
徳昭は虚ろな目で、ただ死神を見上げていた。不思議と、恐怖はなかった。ただ、深い安らぎがあった。
「梶山徳昭。あんた、まだ死ぬには惜しいよ」
死神はにやりと笑った。
「あと五年、生きな。血まみれの人生をさらけ出して、世間に恥かいてきなよ。それが罰であり……ご褒美でもある」
徳昭は、何かを理解したようにゆっくりと瞬きをした。生きる理由が、ぼんやりと見えてきた。本当の自分で生きること。それが、残された時間の意味なのかもしれない。
——死神は、笑いながら背を向け、アスファルトの陽炎の中へ溶けていった。
次の瞬間、徳昭の耳に、救急車のサイレンが近づいてきた。
炎天下の新宿。
人々のざわめきの中で、彼は血に濡れた身体を横たえながら、胸の奥でひとつだけ笑った。
心の底から、五年ぶりに希望を感じていた。本当の自分で生きる希望を。
「……あと五年か。なら、盛大に赤字決算を続けてやるさ」
夏の空は、容赦なく青かった。
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