決算報告書と死神の午後 1巻、2巻、3巻、最終巻

奈良まさや

第1話

第一章 死神の午後


梶山徳昭、五十五歳。大手お菓子メーカーの部長職。結婚二十五年。

妻の聡子は五十歳、リモートと出社を半々に織り交ぜながら経理派遣社員として日々を繋ぎ、一人息子は二十歳の大学生。

——そんな、どこにでもある家庭の風景を背後に持つ男にしては、今はあまりに非日常的だった。


夏の午後、焼けたアスファルトの匂いが立ちのぼる新宿駅前。

梶山は、歩道の片隅に座り込んでいた。

左足のふくらはぎに矢が突き刺さり、血が滲んでいる。どうやら通り魔的に放たれた矢の流れ弾を食らったらしい。警察も救急車もまだ来ない。


痛みよりも先に、なぜか笑いがこみ上げてきた。

「なんで矢?……大ピンチにも程があるな」

徳昭は乾いた笑いを浮かべながら、心の中でリストを反芻する。まるで地獄の営業報告書を読み上げるような気分だった。


——貯金二千八百万円が、株と土地と仮想通貨の暴落で一気に十五万円に。

——健康診断で肺癌、ステージⅢと宣告された。

——三年間続いた浮気相手の輝美が、今まさに自宅を訪ねているはずだ。

——会社では派閥争いの煽りを受け、次の辞令は北センチネル島とかいう絶海の孤島にある子会社への左遷と囁かれている。

——そして今、矢が刺さり、身動きが取れない。


絶望的な状況のはずなのに、なぜだろう。心の底に、妙な安堵感があった。もう隠すものは何もない。失うものももうない。


そこに「第六の不運」が重なった。

目の前に、黒い影が立っていたのだ。


長い外套の裾が、熱風に揺れる。

顔は骨の仮面のようで、しかし瞳だけは妙に人間めいて、いたずらを考える子供のようにきらきらと光っている。


「やあ」

その影は、軽い口調で話しかけてきた。

「死神、って呼ばれてる。ちょっと暇でね。あんたが面白そうだから、寄ってみた」


徳昭の心臓が、一瞬止まりそうになった。しかし次の瞬間、なぜか心が軽くなった。ついに来たか、という安堵感だった。


徳昭は、荒い息のまま笑った。

「死神……か。そうか。なら、迎えに来たんだな?」


死を前にして、初めて本音で笑えている自分に気づいた。


「うーん」

死神は首を傾げる。

「迎えるかどうかは、まだ決めてない。ちょっと気まぐれなんだ。

……で、あんた、どうしたい?」


問いかけは、不思議なほど柔らかく響いた。

死の宣告というより、夏の喫茶店でアイスコーヒーを勧められるような調子だった。


徳昭は血で湿ったズボンの布地を押さえながら、思考を巡らせた。久しぶりに、誰かが自分の意志を聞いてくれている。上司の命令でも、妻の小言でもない。純粋に、自分がどうしたいかを。


生きるか、死ぬか。

いや、その前に、どうありたいか。


——死神の眼差しは、真っ直ぐにそれを問うていた。


第二章 棚卸しの夏


「どうしたい?」


死神の問いは、梶山徳昭の胸の奥に、ずしりと沈んだ。五十五年間、誰も本気で自分の気持ちを聞いてくれなかった。家族も、会社も、みんな自分に何かを求めるだけだった。


五十五年。

たかが五十五年、されど五十五年。

答えを出す前に、自分の棚卸しをするべきだと彼は悟った。営業出身の彼だが、小売店での棚卸しは得意である。


「……俺は、群馬の製菓工場の長男として生まれた」

徳昭は、乾いた笑いとともに語り始めた。不思議と、恥ずかしさよりも解放感の方が強い。

「子どものころは、将来ケーキ屋になりたいって思ってたよ。だが実際は、就職氷河期の波に揉まれて……気付けばお菓子メーカーの営業部。結局、甘い夢も苦い現実も、両方食ったようなもんだ」


幼い頃の自分を思い出す。母の手作りケーキを食べながら、「お母さんより美味しいケーキを作る!」と宣言していた小さな自分。あの時の純粋な喜びは、どこに消えたのだろう。胸の奥が、じんわりと温かくなった。


死神は、腕を組みながらうんうんと頷いている。

「悪くない滑り出しだ。続けて?」


死神の興味深そうな表情に、徳昭は意外にも嬉しさを感じた。こんなつまらない人生の話を、真剣に聞いてくれる相手がいるとは。


「二十五で聡子と結婚した。安定を選んだ結果、安定は一度もなかった」

「ははっ」死神が愉快そうに笑う。


その笑い声に、徳昭は救われたような気持ちになった。自分の人生の皮肉を、誰かと共有できる喜び。


「四十で部長になったが、派閥争いの中じゃ"駒"でしかない。五十で浮気に逃げ、五十五で癌だ。……どうだ、笑える人生だろ?」


言葉にしてみると、確かに笑える。悲惨すぎて、逆にコメディーのようだ。


「うん、いいね」死神は目を細めた。「悲惨な人生ほど、ワインみたいに熟成して味が出る」


「だがな」徳昭は虚空を見上げる。息子の顔が浮かんだ。二十歳の誕生日に、照れながら「ありがとう」と言ってくれた翔太。その瞬間だけは、父親として誇らしかった。「結局のところ……息子が成人した。それだけで、まあ……十分かもしれん」


その瞬間——ヒュッ、と風を裂く音。

「ぐあっ!」

右腕に矢が突き刺さった。


「いってぇええ!」

激痛が腕を駆け抜ける。しかし、痛みと同時に、なぜか怒りがこみ上げてきた。


死神は腹を抱えて笑っていた。

「ごめんごめん! "十分かもしれん"って発言、つまらなすぎて耐えられなかったんだよ! ほら、もっと予想外のこと言ってよ!」


徳昭は、脂汗を流しながら呻いた。この死神、完全に遊んでいる。しかし不思議と、憎めない。久しぶりに、自分の反応を心から楽しんでくれる相手に出会った気がした。


「……お前、遊んでるだろ」


「うん。人の"死に際の言葉"ってさ、最高にエンタメなんだよ。だから続けて。ほら、棚卸しの次の品目を出してみなよ」


徳昭は血に濡れた手で額を拭った。脳裏に、過ぎ去った五十五年の風景が、次々と浮かんでくる。初恋の相手、麻美ちゃんの笑顔。就職面接で落とされた時の絶望感。上司に怒鳴られた夜の屈辱。妻に呆れられた時の孤独感。息子に背を向けられた時の悲しみ。


そして今、死神に笑われている自分。不思議と、全てが愛おしく感じられた。


「……俺の人生の在庫は、不良品だらけだ」


「それは最高のセリフ!」

死神は声をあげ、楽しそうに舞い踊った。

「もっとちょうだい、もっともっと!」


梶山は、奇妙な気配を感じながら悟った。死神にとって、自分の"棚卸し"はただの見世物。しかし、自分にとっては最後の決算報告書。そしてそれが、なぜか清々しい。

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