第33話  将の器、軍師の器




夜が明け、追撃を振り切った劉備軍は、とある寂れた村で束の間の休息を取っていた。




誰もが泥にまみれ、疲労の色は濃い。


しかし、その瞳の奥には、死線を越えた者だけが宿す強い光が灯っていた。




兵たちは、傷を洗い、わずかな食料を分け合い、黙々と武具の手入れをしている。


その輪の中で、張飛は負傷した兵の腕に、手際よく布を巻いていた。




「騒ぐな〜。この程度の傷、唾でもつけておけば治るわ」




口ではぶっきらぼうに言いながらも、その手つきは驚くほど優しい。




その姿を、兵たちはこれまでとは違う、畏怖と親しみの入り混じった眼差しで見つめていた。


昨夜の殿(しんがり)での働き、そして何より、あの誇り高い猛将が、軍師の命令に己を殺して従ったという事実が、彼の評価を決定的に変えていた。




ただの勇ではない。


大義のために激情を抑えることができる、真の将へ。


張飛翼徳は、その将としての器の変化を、静かに、しかし確実に周囲に示し始めていた。




その夜、劉備は一人、村はずれの焚き火を見つめていた。


傍らには、阿斗を抱きかかえ、その寝顔を静かに見守る趙雲の姿がある。




(雲長は今頃、江夏の水軍を率いて漢水を下っているだろうか……。我らがこの苦境を乗り越え、再び合流する日を、弟も待ちわびているに違いない)




劉備の脳裏に、義弟関羽の顔が浮かぶ。


孔明の策は、常に先の先を見据えている。


関羽を先に行かせたのも、この絶体絶命の状況を予見してのこと。その深謀遠慮を思うと、改めてこの若き軍師を得たことの類い稀なる幸運を感じずにはいられない。




だが同時に、兵たちの疲弊は限界に達していた。


その懸念は、現実の問題としてすぐに表面化した。


兵糧が、いよいよ底をつきかけていたのである。




「このままでは、江夏に着く前に飢え死にだ」


「軍師殿は、この状況をどうお考えなのだ……」




不安は不満となり、小さな囁きとなって陣中に広がる。


特に、劉備の義弟であり、古参の将である糜芳(びほう)は、苛立ちを隠せないでいた。




「我らは疲れ切っているのだ! この状況で曹操の別動隊にでも見つかってみろ、今度こそ終わりではないか! 若き軍師殿は、ちと兵法書を弄もてあそびすぎではないのか!」




その声が、ちょうど通りかかった孔明の耳に届いた。


しかし、孔明は表情を変えず、ただ静かに劉備の本陣へと向かう。




「殿、ご報告いたします」




孔明は表情を引き締め、劉備に一礼した。




「先ほど、私が放っておりました『隆中雀(りゅうちゅうじゃく)』より急報が。兵糧の問題、解決の策が見つかりました」




劉備が目を見開く。




隆中雀――孔明が草廬にいた頃より各地に配し、情報を集めさせているという密偵網の名である。


その神出鬼没な情報収集能力が、今この窮地で活路を開くというのか。




孔明は地図を広げ、一点を指し示した。




「隆中雀の報告によれば、三日後、この道を通る曹操軍の輸送部隊がございます。これを奇襲し、糧秣を奪取いたします」




その言葉に、同席していた糜芳が血相を変えた。




「危険すぎます! 我らはもう戦える状態では……」




糜芳の言葉を遮り、轟くような声が響いた。




「黙れ、糜芳!」




張飛であった。




彼は、不満を漏らす古参の将を、射抜くような鋭い視線で睨みつけた。




「軍師殿の策に、これまで一点の曇りがあったか! 己の臆病さを、軍師殿への不信にすり替えるな! 疑う前に、まず己の働きで信を示してみせよ!」




それは、かつてのような感情任せの怒声ではなかった。


確かな論理と実績に裏打ちされた、将としての叱咤であった。




張飛の一喝に、糜芳はぐうの音も出ず、押し黙るしかなかった。


静まり返った陣中で、孔明は作戦の概要を語り始めた。




「趙雲殿には、精兵を率いて伏兵となり、敵の退路を断っていただきます。翼徳殿には、正面から奇襲をかけ、敵を混乱させていただきたい」




二人の猛将は、力強く頷く。


そして、孔明は意外な人物に視線を向けた。




「そして、この作戦の要となる陽動は、糜芳殿にお願いしたい」




「な……、私がですか?」




思いがけない指名に、糜芳は目を丸くした。


孔明は静かに頷いた。




「いかにも。糜芳殿は慎重なお方。無茶な深追いは決してなさらないでしょう。決められた刻、決められた場所で、鬨(とき)の声を上げ、敵の注意をこちらに引きつけてくださればよいのです。敵を深追いせぬ、その『慎重さ』こそが、この作戦の成功には不可欠なのです」




(この若き軍師は、人の弱さすらも、勝利への駒として使いこなすのか…)




己が短所とさえ思っていた臆病さを、作戦の要となる「慎重さ」という長所として評価され、最も重要な役目の一つを与えられた。




糜芳は、戸惑いの中にじわりと広がる熱い感情を抑えきれなかった。


軍師への不満を口にした己への恥じらいと、認められたことへの高揚感が、その胸中で激しくせめぎ合っていた。




劉備は、その一部始終を満足げに見つめていた。




張飛の成長、そして糜芳の抜擢。


ばらばらになりかけていた者たちが、孔明という一つの軸を得て、再び強固な組織へと生まれ変わっていく。




「孔明、そなたを得て、我が軍は新たな命を得たようだ」




劉備の言葉に、孔明は静かに一礼する。




その涼やかな目の奥には、奪取する兵糧の、さらにその先が見えている。


目的地、江夏。


そして、義弟・関羽が待つ漢水の岸辺は、もう遠くない。




だが、その地には、病に倒れた劉琦と荊州の覇権を狙う者たちの、武力だけでは決して断ち切れぬ、複雑な思惑が渦巻いている。




本当の戦いは、これから始まるのだ。




劉備軍は、それぞれの決意を胸に、兵糧奪取という新たな戦場へと、静かに動き出した。

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