第32話 知勇の融合
劉備の檄が、凍りついた兵たちの心を溶かした。
それは単なる叱咤激励ではない。
絶望の淵に差す一筋の光であり、進むべき道を示す標であった。
我に返った兵たちは、祝宴の残骸もそのままに、慌ただしく撤収の準備を始める。火は踏み消され、食料は手早くまとめられ、武具を整える金属音が夜の闇に響き渡る。
先刻までの安堵と弛緩は跡形もなく消え去り、宿営地は再び戦場の空気に支配されていた。
その喧騒の中心で、張飛は黙々と動いていた。
彼は誰に命じられるでもなく、最も重い武具や食料を馬に積み、緩んだ馬具を点検していく。
その手際は普段と変わらぬ迅速さであったが、纏う空気は明らかに違っていた。
仲間と交わす言葉はなく、その横顔は石像のように硬い。
だが、その瞳の奥には、消えぬ羞恥の炎と共に、自らの過ちを戦場で挽回することへの渇望が燃え盛っていた。
その様子を、劉備は痛ましげに見つめていた。
弟の誇りが、いかに深く傷つけられたか。それを思うと胸が詰まる。
彼はそっと孔明の隣に寄り、声を潜めて尋ねた。
「孔明。曹操の追っ手は、いつ、どこから来ると思うか」
孔明は揺れることなく、手にした木の枝で地面に描いた地図の一点を指し示した。
「おそらく一時間と経たず、この森を抜ける間道に、曹操軍の精鋭が姿を現しましょう。我らが通ってきた街道よりも遥かに近道。我々の退路を断ち、一気に殲滅する算段かと」
「なっ……。では、もはや逃げ切れぬと申すか!」
劉備の顔に焦りの色が浮かぶ。しかし、孔明は静かに首を振った。
「いいえ。むしろ、その一本道こそが、我らにとっての活路となり得ます」
孔明は立ち上がり、張飛をまっすぐに見据えて声を張った。
「翼徳殿!」
びくり、と張飛の肩が揺れる。
彼はゆっくりと振り返り、複雑な表情で孔明を見返した。
その視線には、反発、疑念、そしてわずかながらの期待が入り混じっていた。
孔明は構わず、張飛に近寄り、深く頭を下げた。
「この窮地を脱するため、再び貴公の武勇をお借りしたい。我ら全軍の命運を左右する、最も危険な役目を、貴公にお願いしとうございます」
張飛の眉がぴくりと動く。
この状況で、最も危険な役目。それは一つしかない。
「……殿(しんがり)を、この俺にやれと申すか」
「御意」
周囲の兵たちが、息を呑んだ。
一度ならず二度までも、同じ男に死地へ行けと命じるのか。
しかも、その男はつい先ほど、軍師に己の失策を全軍の前で暴かれたばかりなのだ。
誰もが、張飛の怒声が再び響き渡るだろうと身構えた。
だが、張飛の口から出た言葉は、皆の予想を裏切るものだった。
「……指図を。軍師殿」
短く、重いその一言。
そこには、己の感情を理性で押さえつけ、組織の勝利という大義に身を捧げるという、猛将の新たな決意が込められていた。
孔明の目に、かすかな安堵の色が浮かんだ。
彼は、張飛の前に膝をつくと、地面に新たな図を描きながら、策を授け始めた。
「殿(しんがり)軍の兵は三百。ただし、率いるのは翼徳殿、貴方お一人。他の者は副将の指示に従わせてください」
「何?」
「貴方の役目は、敵を討ち果たすことではございません。あくまでも、足止め。この先の隘路(あいろ)にて敵の先鋒を阻み、我らが川を渡る時間を稼いでいただきたい」
孔明の枝は、地図上の一点を力強く指す。
そこは、両側を崖に挟まれた、馬が数頭並んで通るのがやっとの狭い道だった。
「敵が現れたら、存分に暴れてください。ですが、決して深追いはせぬこと。そして、我らが対岸から狼煙のろしを上げましたら、それが退却の合図。いかなる状況であろうとも、一目散に川まで戻ってきていただきたい。……よろしいですな?」
それは、張飛が最も苦手とすることへの挑戦状であった。
敵を前にして退くこと。
手柄を目前にして、それを捨て去ること。
己の激情を、ただひたすらに抑え込むこと。
張飛は、ごくりと唾を飲んだ。
孔明の目は、策の成否を問うているのではない。
お前にそれができるかと、その器量を問うているのだ。
「……この張飛、今度こそは、軍師殿の策を寸分違わず遂行してみせる。兄者、皆のことは頼む」
力強く頷く張飛の肩を、劉備は固く、強く叩いた。
「頼むぞ、翼徳。お前の勇と、孔明の知があれば、我らに越えられぬ道はない」
その言葉を背に、張飛は三百の兵を率いて闇の中へと駆けだしていった。
その背中は、もはやただの猛将のものではなかった。
組織の駒として、己の役割を全うせんとする、真の将の背中であった。
果たして、孔明の予測は寸分の狂いもなかった。
夜の闇を切り裂き、曹操軍の精鋭騎馬隊が、虎のように隘路(あいろ)へと殺到する。
その先頭に立つのは、曹操が誇る歴戦の将、曹仁であった。
「者ども、続け! 劉備の首はもう目の前ぞ!」
だが、その行く手を、一本の長大な矛が塞いだ。
月光を浴びて鈍く輝く刃。そして、その矛を構える仁王のごとき巨漢。
「この先は、一歩も通さぬ!」
張飛であった。
彼は三百の兵を隘路(あいろ)の両脇に伏せさせ、ただ一人、道の真ん中に立ちはだかった。
曹仁は鼻で笑った。
「まだいたか、長坂の匹夫(ひっぷ)め。橋を燃やして逃げた臆病者が、今更何を粋がるか!」
その挑発に、張飛の額に青筋が浮かぶ。
だが、彼は怒鳴り返さなかった。
脳裏に、孔明の冷静な声が響いていた。
――役目は、足止め。
張飛は、蛇矛(だぼう)を大地に突き立て、地響きのような咆哮を上げた。
その声は、個人的な怒りではなく、全軍の命を背負った将の覚悟の雄叫びであった。
曹仁の部隊が殺到する。
張飛は、孔明の策通り、決して前に出なかった。
隘路(あいろ)という地形を盾に、左右から襲い来る敵を、最小限の動きで、しかし確実に屠ほふっていく。
彼の蛇矛(だぼう)は、もはや怒りのままに振り回される凶器ではない。
敵の勢いを削ぎ、時間を稼ぐための、精密な防壁と化していた。
何度かの突撃が、ことごとく阻まれる。
曹仁は舌打ちし、焦りを募らせた。
この男一人に、これほど時間を食わされるとは。
その時、遠くの川岸から、一条の狼煙が天へと昇った。
――退却の合図。
張飛は、目の前の敵を薙ぎ払うと、大きく息を吸った。
まだ戦える。
むしろ、ここからが本領発揮だ。
だが、彼は唇を噛み締め、踵きびすを返した。
「退くぞ! 全員、川へ走れ!」
部下たちも、戸惑いながらも主君の厳命に従う。
背後から浴びせられる曹仁の罵声が、矢のように突き刺さる。
それは、張飛にとって、敵の刃を受けるよりも辛い屈辱であった。
しかし、彼は歯を食いしばり、ただひたすらに走った。
軍師との約束を、守るために。
対岸にたどり着いた時、劉備と孔明が彼らを出迎えた。
張飛は、孔明の前に進み出ると、泥だらけのまま、無言で膝をつき、深く頭を垂れた。
その行為が、全てを物語っていた。
孔明は、穏やかに微笑むと、自ら張飛の手を取って立たせた。
「見事な殿(しんがり)でした、翼徳殿。貴公が稼いでくださった時間が、我ら全員の命を救いました。……感謝いたします」
その労いの言葉に、張飛の目頭が熱くなった。
武勇を褒められることには慣れていた。
だが、己の理性が、自制心が、軍の勝利に貢献したと認められたのは、生まれて初めてのことであった。
この夜、劉備軍は確かに変わった。
一人の猛将が、知の重みを知り、己の勇を正しく使う術を学んだ。
それは、百万の援軍を得るにも勝る、大いなる前進であった。
目指す江夏はまだ遠い。
しかし、彼らの瞳には、もはや揺るぎない希望の光が灯っていた。
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