【Episode23】小休止
夜の帳がすっかり降り、応接室はランプ一つの灯りに包まれていた。
炎のゆらぎが棚の影を長く伸ばし、頁をめくる音だけが規則的に響く。外からは風に混じって虫の声がかすかに届き、部屋の静けさをさらに際立たせていた。
柊は読み終えた本を閉じ、膝の上に置いた。青い瞳がちらりと横に流れる。
「……筋書きは平凡だね。予想を裏切る場面もないし、人物造形も薄い」
静かに言いながら、指で背表紙を叩く。
瑠見は手を止めて顔を上げた。
「そんな言い方をしては、作者が泣きますわ」
からかうように微笑みを浮かべつつも、声には柔らかさがあった。
柊は肩をすくめる。
「事実でしょ。ただ、この書き手は筋よりも思想を伝えたかったんだと思う。共同体の理想像を押しつけるように描いている。結末の幸福も、まるで模範解答みたいだ」
そこで一息置き、ページの一節を軽く指で叩く。
「現実を知らない理想主義者か、あるいは信仰を持つ誰かだろうね。娯楽というより、説教書に近い」
瑠見は一拍置いてから、小さく笑った。
「あなたは物語よりも書き手を読むのですね」
「人の感想なんて、結局は自分の主観だ。だったら、書き手の思考を拾ったほうが確かだろ」
そう言ってカップに口をつける仕草は、相変わらず淡々としている。
瑠見はその様子を見つめながら、指先で頁の端を撫でた。
「わたしなら、ただ好きか嫌いかで済ませてしまいますのに」
「それでいいんだよ。君は偶像なんだから、好きだと言えば誰も逆らえない」
柊は軽口のように言ったが、その声音に棘はなかった。
瑠見はしばし黙し、炎に照らされた横顔を見つめる。
やがて、隙のない笑みを崩さずに囁いた。
「……では、あなたは。今ここで、わたしと過ごす時間を“好きだ”と思ってくださいますか」
本を置いた柊の指が、かすかに止まる。
青い瞳が横に向き、短く息を吐いた。
「そうだね」
あまりに何でもなさそうな返答に、瑠見の胸が小さく震える。
重さを避けるような調子なのに、否定ではないその一言だけが、確かな余韻を残した。
瑠見は声にせず、ただ静かに微笑みを返した。
炎の影が二人の輪郭を壁に揺らし、その影は触れそうで触れ合わず、沈黙の奥に淡い熱だけを宿していた。
***
夕刻、柊が屋敷に訪れると、ちょうど瑠見の夕食の時刻にあたっていた。
「よろしければ、ご一緒に」と促され、彼は案内を受けて小食堂へ向かう。
この部屋は大人数の食事に使われる食堂とは別に、来客をもてなすための場所で、二人きりで腰を落ち着けるには十分な広さを持っていた。窓の外には夜の庭が広がり、揺れる灯火がグラスの水面に反射している。
柊は背を軽く椅子に預け、卓に並んだ皿へと目を落とした。
だが箸を伸ばすのは、決まって甘いものばかり。前菜やスープにはほとんど手をつけず、デザートに近い皿から順に口へ運んでいく。
「……偏っていらっしゃいますわね」
瑠見が穏やかに笑いながら言う。指先でカップを支え、その仕草は変わらず優美だった。
「食べたいものから食べてるだけだよ」
柊は何でもなさそうに返す。
「身体を壊してからでは遅いのですよ」
「大丈夫。壊れるほど食べてない」
あまりに即答され、瑠見は一瞬だけ言葉を失った。普段なら軽い挑発で返してくるはずの柊が、今はただ素直に淡々と告げる。その響きに、心配を口にする自分が妙に滑稽に思えてしまう。
「……心配しているのです」
そう言葉を重ねると、柊は小さく目を瞬かせた。
「ふーん」
彼は再びスプーンを動かす。だが今度は甘味に手を伸ばす前に、残っていた温野菜を口に運んだ。
瑠見は目を細め、微かに笑みを深めた。指摘を受け入れたような、しかし本人にその意識はなさそうな自然さがあった。
「柊さんのお家でも、そんなふうに召し上がるのですか?」
何気ない調子で瑠見が問う。
柊は手を止め、少しだけ考える素振りを見せた。
「いや…そもそも、家族と食事をすること自体がまれだよ」
「まれ、なのですか」
「父は忙しいし、兄弟たちはそれぞれに予定がある。俺も帰るのが遅いしね。揃った時は普通に食べるよ。偏食もしない」
さらりと答える口調は淡白だが、瑠見は答えが出るまでのほんの少しの間が気になった。
「……少し、寂しいように聞こえます」
「別に。気楽でいい」
柊はそこで軽く肩を竦める。
やがて食事が進み、最後に小ぶりなケーキが一皿だけ残った。
柊は手を伸ばしかけて、ふと動きを止める。視線を瑠見に向けると、何でもない調子で言った。
「食べる?」
瑠見は一瞬きょとんとしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「……いただいても?」
「俺は甘いもの、いつでも食べられるからね」
そう言って皿を差し出す柊の表情には、冗談めいた軽さが混じる。
互いに多くを語らずとも、同じ卓を囲み、ひとつの皿を分け合った時間。
その静けさが、何よりも確かに二人を結びつけていた。
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