【Episode24】知識と無知のあいだ

夜の応接室は、灯火に淡く照らされていた。

積み上がる本の影が壁に揺れ、机の上には閉じられた一冊が置かれている。


瑠見は読んでいた本をそっと伏せ、指先で栞を撫でた。柊は窓辺の椅子に腰をかけ、背を預けて天井を眺めている。その横顔には、思考の影が濃く落ちていた。


沈黙を破ったのは、柊の低い声だった。

「……前から気になってたんだけど」


瑠見が顔を上げる。

柊は視線を動かさず、ただ淡々と続けた。

「君は子どもが欲しいって言うけど…どうやって子どもができるか、本当に分かってる?」


言葉の響きに、瑠見の笑みがふっと止まる。

瞳がわずかに揺れた。

「当然、存じていますわ」


答えは淀みなく返る。

けれど瑠見の口から紡がれたのは、まるで授業で暗記した内容をそのまま反復しているような響きだった。


「男女が結婚をして……その、性行為によって……男性の精子が女性の体内に入って……卵子と受精し……受精卵となって……」


言葉は途切れ途切れに、ぎこちなく続く。

「そのあと子宮内膜に着床して、胎児となり……十月十日を経て、出産……」


一文ごとに区切られ、医学用語だけを並べるような説明。

そこには体験や感情の影はなく、ただ“覚えていることを言っている”だけだった。

柊は静かに耳を傾けていたが、最後まで聞き終えると視線を伏せた。

どこか遠いものを眺めるように、吐息が夜の静けさに溶ける。


「……やっぱりな」

乾いた一言。

その響きに、瑠見の胸にむっとした熱が灯る。


「……からかっていらっしゃるのですか」

声は静かだったが、わずかな怒気が滲んでいた。


柊は何も答えず、ただ無言でいる。

彼が無意味な問いを投げるはずがないことは分かっている。だが自分の無知をあえて突かれたことが、どうにも癪だった。


瑠見は呼吸を整え、微笑を取り戻す。

けれどその瞳には、意地の色が混じっていた。

「では……本当にご存じなら、教えてくださいませ」


書斎に沈黙が落ちた。

柊は視線を逸らし、珍しく口を閉ざす。


長い間ののち、ようやく絞り出すように声を落とした。


「……そのうち」

あまりに歯切れの悪い返答だった。


瑠見は追及しない。

ただ隙のない笑みを形作り、その内側に広がるざわめきを悟られまいとする。


揺れる灯火の下、二人を包むのは言葉にならない沈黙だった。

夜は静かに更けていく。


***


数日前のことだった。

柊は何冊かの本を瑠見に手渡し、自分のいないところで読むようにと言い含めた。

装丁は静かで上品だが、綴られているのは女性の視点から描かれた、情の濃い物語だった。甘美な言葉で編まれた描写の中には、男女の交わりを淡く、しかしはっきりと想起させる場面もある。

自分の口から説明する代わりに、彼はそうした本を選んで渡したのだ。


そして今。

瑠見はすでにそれを読み終え、応接室へと姿を現していた。


夜気を含んだ廊下を抜け、扉が静かに閉じられる。

窓際の椅子に座っていた柊は、入ってきた彼女を一瞥すると、淡く視線を逸らした。


瑠見は一歩、二歩と進み、深く息を吸った。

頬に朱がさし、指先は衣の裾をぎゅっと掴んでいる。


「……先日は、言いにくいことを尋ねてしまって……申し訳ありませんでした」


小さな声だったが、確かな響きがあった。

視線は机の縁に落ち、柊の顔を見ることはできない。


柊は短く息を吐き、目をそらしたまま答える。

「……うん」

言葉と同時に、指先で肘掛を二度だけ叩いた。何の意味もない仕草に見えたが、その無音の間に言えないものが滲んでいた。


瑠見はそれ以上追及せず、ただ静かに頷いた。


沈黙を破ったのは、柊の低い声だった。

「……顔に出すぎ」


唐突な指摘に、瑠見は思わず瞬きをする。

「そちらが無表情すぎるのです」


即座に返した声音はやや強めだったが、そこには苦笑めいた色も混じっていた。

柊は小さく肩を竦める。

「まあ、そういうことにしとくよ」


軽口めいたやり取りが落ち着くと、柊は卓の端に置かれていた別の本を指先で軽く叩いた。

「こっちも読んでみたらどう。歴史書だから安心でしょ」


「……わざと話題を逸らしていらっしゃいますわね」

瑠見は目を細め、しかし声には柔らかさがあった。


柊は視線を上げず、ただ淡々と返す。

「そっちの方が気楽に話せる」


互いにそれ以上言葉を重ねずとも、卓の上に漂う空気は、以前よりずっと柔らかだった。

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