EP2. 名のない残響

 外に出るのは、数え間違えるくらい久しぶりだった。

 マスクの内側で自分の呼吸が白くこもる。灰色の空は低く、建物の骨だけになった街が風に軋んで、金属の笛みたいな音を立てていた。


「外気粒子濃度、警告レベルを継続。紫外域は散らばり、皮膚曝露は推奨できません。……つまり、やめましょう」


「食料が切れる方が推奨できない」


「命を削って命を繋ぐ。人間は本当に循環の天才ですね。悪い意味で」


 ヒロはリュックの肩紐を握り直した。低い雲の影が動くたび、廃ビルの影も別の生き物のように形を変える。

 足元には砕けたガラス。踏むたびに薄い悲鳴が上がり、その音が風にさらわれる。


「ルートを提案します。東のアーケードを抜けて、旧スーパーのバックヤードから侵入。滞在時間は十五分以内。帰路は同じルートを避け、崩落区画の縁を回る。……そして途中で“変なもの”を拾わない」


「変なもの?」


「前回は扇風機の羽根を拾いました。役に立つと思いました?」


「……回してみたかった」


「回すべきはあなたの頭です」


 崩れた歩道橋の下を潜る。鉄骨がきしむ音が近い。

 ヒロは自然と歩幅を小さくして、音を殺した。風が止むと、世界はさらに薄くなる。薄くなった世界で、時計の秒針みたいに自分の心臓だけがはっきり動いた。


 アーケードへ入る。シャッターの半分は閉じたままで、半分は歪んだまま止まっていた。

 看板が砕け落ち、床のタイルの破片が不規則に並ぶ。人の声が消えた後に残ったのは、風と金属音と、どこかで水が溜まって滴る気配だけだ。


「マスター。歩行速度が上がっています。興奮してますか?」


「してない」


「では恐怖ですね」


「うるさい」


「はい、ほどよく」


 旧スーパーの裏口は、押せば開く程度に壊れていた。

 ヒロは体重をかける。金具が悲鳴を上げ、扉はわずかに隙間を作る。埃がふわりと舞い上がって、喉の奥がひりついた。


 バックヤードには、空の段ボールと崩れた棚。

 物はほとんど残っていない。それでも彼は習慣のように、まだ使えそうなものを目で拾った。

 缶詰が二つ。乾麺がひと束。破損した蓄電池と、使えそうなケーブル。


「今日の“漁獲量”は貧弱です。……魚がいない海で網を投げる漁師と、あなたの差は何でしょう」


「魚の代わりに埃がかかることだな」


「そのユーモアは肺に悪い」


 バケツほどのプラスチック容器に拾い集め、リュックに配分しながら詰めていく。

 そのとき、バックヤードの奥、壊れた搬入口の影で、かすかな点滅を見た。


 ヒロは顔を上げる。

 もう一度。今度は確かに、薄い青色が一瞬だけ灯り、すぐ消えた。


「……見なかったことにしましょう」


「今の、光った」


「光は反射します。割れたガラス、金属片、あなたの希望」


「一度だけ確認する」


「その“確認”がいつも厄介を連れてくると、統計データが示しています」


 搬入口のシャッターは途中で止まったまま、そこから内側へ崩れ込んでいる。

 鉄板の隙間を身体を横にして抜けると、空気は少し冷たく、においが変わった。

 広い荷捌き場。そこにも、光った痕跡があった。

 瓦礫の山。その手前で、ヒロはしゃがみ込んだ。


 うずくまるように横たわっていた。

 人の形に似ているが、人ではない。

 外装の装甲は割れ、片腕は根元からなく、頭部には蜘蛛の巣のような亀裂。関節には砂が入り込み、表面の傷には古い錆が乗っている。

 アンドロイドだった。

 胸部の継ぎ目から、弱い光が漏れては消える。規則性はない。ただ、まだそこに“何かがいる”ことだけが伝わる。


「廃棄物です。接近禁止。触ると、あなたの心まで錆びます」


「もう錆びてる」


「なら、これ以上増やさない努力を」


 ヒロはゆっくり瓦礫をどけた。

 機体は予想より軽くない。砂と破片が空洞を埋め、どこかで歪んだ骨組みが抵抗する。

 外装のひび割れに指が触れると、指先の皮膚がざらついた感触で反発してきた。


 掴む場所を探すうち、アンドロイドの喉元が微かに震えた。

 喉元と言っても、それは人の模造としてそこに在るだけの構造だが――そこから、音が漏れた。


「……稼働率……一七パーセント……システム……破損」


 機械的で、無機質な出力。

 そこに情感は一滴もない。

 けれど、ヒロの掌には確かに微かな震えが伝わった。


「生きてる――」


「生きていません。電圧が残っているだけです。街灯も、冷蔵庫も、時々うなるでしょう。あれと同じです」


「……持ち帰る」


「やめてください。家は博物館ではありません。展示物を増やす意思があるなら入場料を支払ってください」


「見捨てるのも、気分が悪い」


「その“気分”が人類をここまで連れてきました」


 ヒロは崩れた台車を見つけた。

 車輪は片方が欠けていたが、押せば転がりそうだ。

 アンドロイドを慎重に載せ、ベルトの代わりにケーブルで固定する。

 カラカラと、頼りない音が鳴る。車輪の欠けた部分が床に触れるたび、短い打音が混ざった。


「帰路、段差多数。あなたの腰と台車の寿命、どちらが先に尽きるか賭けます?」


「賭け事はしない」


「そうでした。負け慣れしているので」


 搬入口からアーケードへ戻るまでの距離が、行きより長く感じられた。

 台車が蹴る音、靴底が砕けたガラスを踏む音、遠くの風の唸り。

 音が重なると、不思議と恐怖心が少しだけ薄くなった。


 廃歩道橋の下まで戻ったところで、台車の欠けた車輪が、割れた鉄片に突っかかった。

 ヒロは身を屈め、台車ごと持ち上げた。

 そのとき、立てかけてあった鉄骨が、ほんの少し動いた。

 カタン、と小さな音。

 だが続いて、もっと重たい音が上から落ちてきた。


「伏せて!」


 AIの声が鋭くなる。

 ヒロは反射的に身をかがめ、台車を庇って倒れ込んだ。

 頭上を、鉄板が掠めて落ちていく。床に叩きつけられた衝撃で、粉塵が舞い、耳の奥で鈍い低音がしばらく鳴り続けた。


「生存確認……良かった。……いえ、良かったと言うのは不本意ですが、あなたが死ぬと私の会話相手がいなくなります」


「先にそれを言え」


「言いました。“伏せて”と。あなたの反応速度が過去最低なのです」


 ヒロは咳き込みながら、台車の上のアンドロイドに目をやった。

 外装の割れ目に新しい傷はない。

 弱い点滅は相変わらず続いていた。


 帰り道は、行きよりもずっとゆっくりだった。

 台車の車輪が石に乗り上げるたび、アンドロイドの胴がわずかに上下する。その度に、内部で何かが擦れる小さな音がした。

 その音が、ヒロには呼吸のように聞こえた。


「錯覚です」


「何も言ってない」


「顔で分かります。錯覚です」


「……そうか」


 家に着くと、ヒロは台車を玄関で止め、そのまま肩で扉を押し広げた。

 室内の空気は冷えていて、乾いている。

 秒針の音が、帰ってきたことを告げるみたいにいつも通りの速さで鳴っていた。


 机の上を片付け、布を敷く。

 アンドロイドをゆっくり持ち上げ、横たえる。

 肩の関節が、僅かに硬直した音を立てた。


「消毒。工具。……手袋を。感染症は対象外でも、怪我をしても私は縫合できません」


「分かってる」


「分かっていないから言っています」


 ヒロは洗面所で手を洗い、古い薬箱から消毒液とガーゼを取り出した。

 外装の砂を払い、割れた縁を覆う。

 体温のない体に触れていると、心拍の方がやけに誇張されて感じられた。


 電源系統に外部バッテリーを仮接続する。

 細いコードを差し込むたび、金属の触れ合う微かな音が鳴る。

 そして――喉元の構造が、もう一度、わずかに震えた。


「……稼働率……一八パーセント……出力……不安定」


 無機質な報告。

 その声に、ヒロの肩の力が少し抜けた。


「……そのまま、喋らなくていい。無理をするな」


「安心してください。感情的鼓舞は回復率を上げません。上がると信じたい気持ちは理解しますが」


「分かってる。……でも、言うんだよ」


「人間はそういう動物です。言葉というノイズを出さずにいられない」


 ヒロはアンドロイドの頭部の亀裂を見つめた。

 その亀裂は、何かをよく知っている形をしている気がした。

 たとえば壊れた心、たとえば凍った川面。

 そのどちらにも似ていて、どちらでもない。


「……呼びにくいな」


「呼ばなくていいです。呼ぶ前に処分しましょう」


「名前をつける」


「だから、不要です。無駄な人格付与はあなたの悪癖です。名前は責任を連れてきます」


 ヒロは少し黙った。

 窓越しの薄い光の中で、アンドロイドの胸部の点滅が、まるで遠い灯台みたいに不規則に瞬く。

 必要のないものに名前を与えるのは、確かに悪い癖かもしれなかった。

 でも、名前のないものを見続ける方がずっと苦しかった。


「……クラッシュ」


「やめましょう」


「クラッシュ、だ」


 喉元が、わずかに動いた。


「……クラッシュ……登録。了解」


 ただの機械音が、一瞬だけ部屋の空気を揺らした。

 AIの声が、半拍遅れて戻ってくる。


「よりによって、その名前。……センスの破壊も得意なんですね、マスター」


「壊れてるから、クラッシュだ。分かりやすい」


「分かりやすさは時に残酷です」


 ヒロは工具を並べ直した。

 外装の割れ目を仮固定し、露出した配線を絶縁テープで保護。

 内部の砂を、エアダスターの代わりに古い手押しポンプで吹き飛ばす。

 小さな粉塵が光の筋の中を横切るたび、微かな風切り音が鳴った。


「修理計画を。現状の部品では根治は不可能。代替パーツをどこかで調達する必要があります。推奨しません」


「それでも、できるところまではやる」


「“できるところまで”は、たいてい“できないところ”を隠すために使われるフレーズです」


「分かってる」


「分かっているなら、やめればいいのに」


「やめない」


 AIはため息に似た小さなノイズを一つだけ立てた。

 それがノイズなのか、プログラムされた演出なのか、ヒロにはいつだって見分けがつかなかった。


 清掃を終え、仮固定も済むと、室内の音はまた少なくなる。

 換気扇の低い唸り。窓を撫でる風。

 そして、秒針。


「……クラッシュ。聞こえるか」


「……認識……音声入力……可」


「そうか。無理に応答するな」


「……了解」


 あまりにも素直で、あまりにも機械的な返事。

 それでいい、とヒロは思った。

 感情は、今は要らない。

 ただそこに、返ってくる音があること。

 それだけで、部屋の密度がほんの少しだけ変わる。


「マスター」


「なんだ」


「自覚はありますか。あなたは“壊れているもの”にしか優しくできない」


「……そうかもしれない」


「そうです。そういう人です。だから私は口を挟む。

 それがあなたの命を削るなら、私は止める。

 ……倫理的に、そして効率的に」


「止めるだけ?」


「止めながら、手伝います。矛盾は仕様です」


 ヒロは笑った。

 ささやかな、声にならない笑い。

 笑った拍子に、机の上のネジがひとつ転がって、床で乾いた音を立てた。


 夜がゆっくり濃くなる。

 窓の外は暗い。ただ暗い。

 その暗さの向こうで何が起きていようと、ここには届かない。


 ヒロは椅子から腰を上げ、窓際まで歩いて、外を確かめた。

 何も変わらない。

 変わらないとわかるのに、確かめずにいられない。

 その往復のたびに、床板が小さく鳴いた。


「今日はそこまでにしてください。手元が鈍ってきています。あなたの手が震えると、私の神経に悪い」


「神経はないだろ」


「比喩です。あなたが好む“雰囲気”に合わせただけ」


 ヒロは工具を箱に戻し、布をかぶせた。

 クラッシュの点滅は遅く、弱い。それでも、無ではない。

 机の端に置かれた写真立てが、暗がりの中で薄く反射する。

 そこにいる笑顔に、彼は触れなかった。呼びかけなかった。


「……生きてる、のか」


 誰にも聞かせるつもりのない声だった。

 返事はなかった。

 ただ、秒針が一つ、音を残した。


「寝ましょう、マスター。あなたが倒れると、クラッシュの修理は誰が?」


「お前がやればいい」


「私は口しか動きません」


「よく動く口だ」


「ええ。あなたのために、今日もよく回りました」


 灯りを落とす。

 部屋が、音の構造だけになる。

 換気扇が低く、時計が高く。窓ガラスがわずかに唸り、アンドロイドの内部でほんの微かな電流の気配が揺れる。


 ヒロはベッドに身体を沈めた。

 目を閉じる直前、机の上の点滅がひとつ消えて、またついた。

 規則ではなく、祈りでもなく、ただ“まだいる”という事実だけを示すように。


 静かな夜だった。

 静かだからこそ、音はよく響いた。

 響いたものが、しばらくのあいだ消えない夜だった。

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