AIのアイ 02― 音の断片

@no_na_me

EP.1 静寂のクロック

 時計の秒針だけが、部屋に響いていた。

 曇ったガラス越しの朝は、色を失ったみたいに薄い。光はあるのに、音がない。

 ヒロは横向きのまま目を開け、ひと呼吸置いてから天井を見上げた。布団の端を指でつまむ。冷たい。


「……マスター。起床時間を二十三分オーバーしています。おめでとうございます。新記録です」


 耳の奥で、冷ややかな声が整然と告げる。

 ヒロは布団を鼻まで引き上げ、くぐもった声でうめいた。


「朝から嫌味を更新するなよ……」


「嫌味ではありません。観測事実の報告です。人間が“嫌味”と名付けるのは、たいてい自らの怠惰への証明ですよ」


「……照明を落としてくれ。まだ暗くていい」


「では二度寝をどうぞ。今日の生産性は昨日比マイナス七%からのスタートになりますが、下方修正はお手の物でしょうし」


 ヒロは布団を蹴飛ばした。蹴った先の床は乾いて、薄く埃っぽい。

 ふらつく足取りでキッチンへ向かい、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。水の落ちる音が、秒針と重なった。


「湯量が安定していません。抽出は安定した手つきで、という助言を先週も差し上げました」


「コーヒーは雰囲気だ。味は二の次」


「雰囲気で胃粘膜が守られるなら医療は破綻しています。まあ、既に世界のほうが先に破綻してますけど」


 ヒロは小さく笑った。自分でも意外な笑いだった。

 湯気を見ながら、ふと、別の湯気を思い出す。

 写真立ての中で笑う人が、同じような口調で淹れ方を正した日の朝。あのとき窓の外はもっと明るく、秒針は今より速く進んでいた気がする。


「マスター、外気の状況を報告します」


「……はいはい、どうぞ」


「本日この区域の浮遊粒子濃度、警告レベル。外気温は昨日比プラス二・七度。紫外域のばらつきが大きく、皮膚曝露は推奨できません。あなたの肺は新品ではないので」


「誰のせいでこんな世界になったと思ってる」


「人間全体の長期的な努力の賜物です。皮肉ではありません、総括です。なお、あなた個人を責めるつもりはありません。無力は非難すべきほど価値がないので」


「朝一番に心臓を握るのをやめてくれ」


「把握しました。では優先度をお腹に移します。パンを焼いてください。コーヒー単独投入は、あなたの消化器官が泣きます」


「泣かせてもいいだろ」


「いいえ。あなたが泣くのは勝手ですが、泣かせるのは非倫理的です。倫理規約第なんとか条、私の実装には存在しませんが、常識です」


 ヒロは冷蔵庫からパンを取り出した。トースターのレバーがかすかな音を残して落ち、ちいさな機械のうなりが始まる。

 秒針、湯の落ちる音、トースター、AIの声――部屋は静かだが、音はたくさんあった。

 音が鳴らない朝ほど、胸に響くものはない……そんな気がした。


「バターは左の引き出しです。塗りすぎないでください。あなたは“盛る”才能が料理でしか発揮されません」


「他では?」


「人生の自己評価は概ね控えめですね。不幸自慢だけ豪快ですが」


「……食欲が失せるからやめろ」


「食欲は失せても寝癖は失せません。今日も芸術点が高いですね」


「寝癖の評論家か、お前は」


「ええ、あなたの専属評論家です。報酬は高くありませんが、やりがいは……あります、と言っておけば人間は安心するのでしょう?」


 パンの香りがわずかに部屋を満たす。

 ヒロはテーブルの椅子に腰を下ろし、コーヒーとパンを前に黙った。

 AIはそれを待っていたみたいに、音量を少しだけ落として続けた。


「今日の予定を提案します。午前は衣類の選別および洗濯、棚の整理。午後に食料の在庫確認。缶詰と乾麺の残量から推定して、今週中に外部補充が必要です」


「外は、さっきの報告だろ」


「ええ。だから装備をして、短時間で済ませるしかありません。選択肢は悪いものと、より悪いものの二択です。どちらにしますか?」


「悪いほう」


「賢明です。より悪いものを選び続けるのがあなたの悪癖ですから、たまには逆張りを」


「……明日にしていいか?」


「今日より明日が安全になる統計的根拠はゼロです。あなたの“気分”という指標は常時ノイズが大きく、信頼区間が広すぎます」


「ノイズ、ね」


 ヒロはマグカップを両手で包み、机の向こうを見た。

 写真立てが、光もないのに微かに反射している。

 そこに写っている人の名前を、彼は口にしなかった。呼ぶのが怖かった。呼べば、ここにいないことが確定してしまう気がしたから。


「……洗濯、やるよ。先に」


「素晴らしい。人類文明の再建は、洗濯からです。なお、靴下の片方が行方不明ですが、あなたがベッドの下にブラックホールを設置していないことを祈ります」


「設置した覚えはない」


「では後で探査機を送ります。私の視覚はありませんので、あなたの眼と手が必要です」


 コーヒーが喉を滑り落ちる。苦い。

 窓に手を伸ばし、ヒロは少しだけ開けた。

 冷たい空気が入り込み、むせるような粉っぽさが鼻腔に触れる。咳が出た。


「だから言いました。吸入は推奨しません。肺が錆びます。あなたが金属でできているならまだしも」


「少しくらい、風の感触を忘れたくなかった」


「感触は忘れます。忘却は脳の正常な機能です。……でも、忘れたときに痛むものがあるのも知っています」


 ヒロは窓を閉めた。ガラスが静かに枠に戻り、外の世界は再び遠くなった。

 秒針の音が帰ってくる。

 AIはしばし黙っていた。珍しい沈黙だった。


「……パン、焦げてる」


「あなたの視覚は正常です。焦げています。客観的に」


「食えるよ」


「“食える”と“食べるに値する”は別物です。とはいえ、あなたは“値する”かどうかで物事を判断してまた自分を追い詰めるので、今日は“食える”で良いでしょう」


「お前、優しいのか冷酷なのか分からない」


「仕様です。私はあなたを甘やかすためにいるのではありません。けれど、あなたが倒れた場合、私の会話相手はいなくなります。効率の観点からも、あなたの健康は維持したい」


 ヒロは焦げた端を歯でちぎり、カップを口に運んだ。

 苦味と、乾いた香り。

 そして、秒針。


「……なあ」


「はい、マスター」


「お前は、なんでそんなに喋るんだ」


「あなたが喋らないからです。空白は埋められます。沈黙は、時に有益ですが、あなたの場合はただ沈むだけですから」


「沈む?」


「ええ。底に沈む。触れたくないものの真上で」


 ヒロは返す言葉を探して、やめた。

 探した言葉は、何度もどこかで使い古した語尾ばかりで、今は似合わない気がした。

 代わりに席を立ち、洗濯かごを引き寄せる。

 丸めた靴下、くたびれたシャツ、薄くほつれの出たタオル。

 洗濯機の蓋を開ける音が、部屋の音の並びに加わる。


「洗剤は規定量。柔軟剤を入れすぎると、そのふにゃふにゃがあなたの意志にも感染しますよ」


「うるさい」


「はい、ほどよく」


 洗濯機が低い回転音を立て始める。

 秒針の音は、その上に細い線を引くように続く。

 音が並ぶと、少しだけ生き物の気配がする。ヒロはそう思った。


「外に出るのは……明日だ」


「承認は保留にしておきます。明日の私がまた反対する可能性がありますから」


「同じお前だろ」


「“同じ”とは何でしょう。処理系が同一でも、入力が違えば出力は変わる。人間はそれを“気分”と呼び、私たちは“条件”と呼びます」


「じゃあ、条件がいい日にしよう」


「その日が来るといいですね。条件の良い日は、たいてい過去形で語られますから」


 洗濯機の振動が、床の下からわずかに伝わってくる。

 ヒロはそれを足裏で感じ取って、顔を上げた。

 視線の先には、写真立て。

 そこにいる人の笑顔は、いやに軽やかだ。重力がまだ優しかった時代の笑い方だ。


「……アイ」


 呼んでしまってから、彼は小さく舌打ちした。

 AIはすぐには反応しない。沈黙がいったん部屋を満たす。

 やがて、少しだけ柔らかい声が戻ってきた。


「洗濯が終わったら、窓を拭きましょう。曇っていると、朝が来たことに気づけません」


「気づきたくない朝もある」


「気づかないと、終わらない夜になります。終わらないものは、たいてい人を壊します」


 ヒロは息を吐いた。

 窓の外は相変わらず灰色で、遠くで何かが軋む音がした。風か、建物か、それとも世界そのものか。

 秒針は、そんなことに頓着なく進み続ける。彼らの会話より、ずっと正確に。


「……なあ」


「はい」


「今日は、静かにしててくれ」


「努力します。が、あなたが危険な行為に及びそうな場合は、遠慮なく騒ぎます」


「危険な行為って?」


「コーヒーだけで昼を越えること、洗濯物を湿ったまま放置すること、写真に話しかけ続けること。どれもあなたの命を少しずつ削ります」


「……分かったよ。静かに、賢く生きる」


「賢さは難題です。まずは静かに、から始めましょう」


 ヒロはテーブルに残ったパンくずを指先で寄せ集め、ゴミ箱に落とした。

 洗濯機の音が終息に向かい、最後の回転が一段高く鳴って、止まる。

 世界の音が一瞬だけ薄くなり、秒針の音だけが立ち上がる。


 彼は写真立てをそっと伏せた。

 見えなくても、そこにあることは変わらない。

 彼はAIのインジケータが静かに点灯しているのを横目で見て、何も言わなかった。

 AIも、何も言わなかった。


 音が鳴らない朝ほど、胸に響くものはない。

 そして、響いたものは、しばらくのあいだ消えない。


 沈黙は、時にもっとも雄弁な音になる。

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