第6話 はんごう雑炊の湯気、心をほどく夜

第6話 はんごう雑炊の湯気、心をほどく夜


 夕方の会議を終え、坂井は繁華街の雑踏を抜けていた。

 昼の天ぷらの余韻はもう消え、代わりに心の奥に疲れが積もっている。明日は高瀬悠子のサイン会の打ち合わせ。本人が「人前に出るのが怖い」と言っていた顔が思い出される。


 ——今夜は、自分もあの人も、やさしいものを食べるべきだ。


 足を止めた路地に、木の看板が掛かっていた。

《はんごう雑炊処 ひなた》

 煤けた文字。暖簾の隙間から、白い湯気がもくもくと立ちのぼっている。鍋の蒸気とは違う、どこか懐かしい匂い——米と出汁が混じる柔らかな香り。


 坂井は迷わず暖簾をくぐった。



 店内は十人も入ればいっぱいになる小さな空間。木のカウンターがL字に伸び、壁には古びたはんごうがいくつも並べられていた。

 年配の店主が顔を上げる。頬には深い皺、だが眼はやさしく光っている。


「いらっしゃい。おひとり?」

「ええ。鶏雑炊をお願いします。あと、ウーロン茶を」

「はいよ」


 店主は小鍋にはんごうをのせ、火にかけた。湯気が一気に立ちのぼる。

「ここは全部、はんごうで炊くんです。鍋より手間がかかるけど、湯気の立ち方が違うんですよ」


 坂井は頷いた。確かに、はんごうの縁から立ちのぼる蒸気は、まっすぐではなく柔らかく揺れている。



 やがて蓋が外され、白い湯気が一斉に広がった。

 鶏肉と米、卵が溶け合い、青ねぎが鮮やかに浮かんでいる。香りは出汁と米の甘さが混じり、鼻の奥に温度が広がる。


「どうぞ。熱いから気をつけて」

 店主が器を差し出す。


 一口すする。

 卵のとろみが舌を覆い、出汁の旨みが喉をすべる。鶏肉は小ぶりだが、噛めば甘い脂が溶け出す。米粒はほどけながらも芯をわずかに残し、歯に触れる感触を与える。

 ——胃にやさしい。だが、決して薄くはない。輪郭がありながら、攻めてこない味。



 坂井はふと、店主の手の動きを見た。

 鍋の蓋を置くと、店主は少し遠くを見つめてから口を開いた。

「震災のときね、ここで炊き出しをやったんですよ。被災地に行って。大鍋じゃなく、はんごうを並べて」

「……はんごうで?」

「ええ。あれなら一度に何十個も用意できる。湯気を吸うと、人は少し落ち着くんです。誰も笑えなかったけど、湯気の中では泣けた。そういう場所を作りたかったんです」


 坂井は黙って雑炊を口に運んだ。湯気の向こうで人が泣き、そして生き延びた光景を想像する。



 隣の席に、女性が腰を下ろした。

 高瀬悠子だった。

「……来てくださったんですね」

「胃にやさしいものがいいと思って」

「ありがとうございます」


 彼女も鶏雑炊を頼み、湯気の中でスプーンを握る。

 少し食べてから、静かに言った。

「人の前に出ると、胃が縮むんです。拍手の音も、視線も、全部が壁みたいで」

 言葉は小さいが、確かに震えていた。


 坂井は雑炊をすすりながら考える。

 ——雑炊は、胃だけでなく言葉までほどく料理だ。



 店主が笑った。

「視線なんてね、湯気みたいなもんですよ。立ちのぼって、やがて流れて消える。吸い込んでしまえば、体の熱になる」


 高瀬は驚いたように顔を上げた。

「湯気……」

「そう。湯気を恐れる人はいないでしょう? 同じですよ」

 店主の言葉に、坂井は頷いた。



 雑炊の器を持つ手が軽く震えている。それでも高瀬の頬は、ほんの少し赤みを帯びていた。


 坂井は心の中で呟く。

 ——孤高とは、一人で立つことじゃない。誰かが差し出した湯気に包まれることも、孤高の一部だ。



 湯気の向こうで、高瀬の目が潤んでいた。

「拍手の音が……どうしても苦手なんです」

 箸を置き、彼女は震える指先を組んだ。

「昔、朗読会で読んだとき、終わったあとに拍手があった。でも、それが祝福じゃなくて、試されているみたいに聞こえて……。以来、人の前に立つと胃が痛くなるんです」


 坂井は頷いた。彼女の恐怖は、抽象ではなく具体だった。拍手の音。目に見えない圧力。それが胃を締めつける。

 彼は雑炊を口に運び、熱で舌を火傷しそうになりながらも、あえてすする。

「湯気に包まれれば、人は泣けると店主は言った」

「……」

「拍手の音も同じです。受け止めすぎなければ、ただの空気の揺れだ。湯気のように、吸い込んで流せばいい」


 高瀬の肩がわずかに揺れた。

「……吸い込んで、流す」

「そう。湯気は人を温め、同時に消える。視線も音も、そういうものです」



 店主が追加の雑炊をよそってくれた。今度は梅干しを添えてある。

「うちの名物ですよ。梅の酸味で、胃がさらに楽になります」

 真っ赤な梅干しが白い米の中で鮮やかに映える。


 高瀬は恐る恐るひと口すくい、口に入れた。酸味が広がり、瞳が少し丸くなる。

「……やさしい」

「梅は、酸っぱさで不安を散らす。だから炊き出しのときは必ず入れました」

 店主の声は柔らかかった。


 高瀬は小さく笑った。

「言葉より、梅干しのほうが効きますね」

「言葉も梅も、誰かが差し出すものだから」

 坂井はそう返した。



 ふと、カウンターの端に貼られた紙が目に入った。

《夏祭り 炊き出し企画 はんごう雑炊一杯100円》

 筆ペンで書かれた文字が揺れている。

「祭りに出すんですか」

「ええ。今度は悲しい炊き出しじゃなく、楽しい炊き出しを」

 店主の皺が深く笑みに刻まれる。


 高瀬がその紙を見つめた。

「……いいですね。楽しむための炊き出し」

 その声は、先ほどより少し強かった。



 食べ終える頃には、彼女の頬に赤みが差していた。胃だけでなく、顔色まで変わっていた。

「もう少しやってみます。サイン会」

「やってみる、でいい。完璧を目指さなくていい」

「……はい」


 坂井は胸ポケットのスタンプカードを出した。

「押しましょうか」

 店主がにこやかに、雑炊鍋の朱印を押す。これで五つ目。蝶、稲妻、そば丼、天ぷら鍋、そして雑炊鍋。


 カードを見つめ、坂井は心の中で呟く。

 ——孤高は、ひとりで立つことじゃない。誰かの湯気に包まれても、輪郭は失われない。むしろ、強くなる。



 外に出ると、夜風が頬に心地よい。路地の向こうから祭りの準備の音がかすかに聞こえる。木槌の音、太鼓の試し打ち。

 高瀬は空を見上げた。

「湯気みたいですね。見えたと思ったら、すぐに消える」

「だからいいんだ。消えるから、また欲しくなる」


 二人は短い沈黙を分かち合った。夜空の下に、はんごう雑炊の湯気の余韻がまだ漂っている気がした。



 坂井はポケットのカードを指でなぞる。五つの印が、確かに重みを増している。

 孤高は孤独ではない。

 湯気に包まれるように、人と人が寄り添うこともまた、孤高の一部だ。


 次の一皿が、自分と街をどう結びつけるのか。

 その思いを胸に、夜道を歩き出した。


(つづく)

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