第5話 立ち飲み天ぷら、大根おろし天つゆの夜g
第5話 立ち飲み天ぷら、大根おろし天つゆの夜
長い打ち合わせが終わった。時計は20時を少し回っている。書類の束を鞄に押し込み、坂井は繁華街の灯の中を歩いていた。
居酒屋の賑わいに入る気力はない。酒も飲めない。だが、胃は何かを欲していた。
——油、だ。
一日の疲れを吸い取ってくれる、熱い油の音が欲しい。
路地を曲がった瞬間、鼻を打つ匂いがあった。ごま油と白身魚が焼けるような香ばしさ。赤い提灯に「天ぷら」の文字。暖簾は少しほつれていたが、中からぱちぱちと油の弾ける音が流れてきた。
——立ち飲み天ぷら。
吸い寄せられるように足が止まる。
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暖簾をくぐると、L字のカウンターが小さな店をぐるりと囲んでいた。椅子はなく、立ち食いが基本。壁には短冊メニューが並ぶ。「海老 150円」「なす 100円」「ピーマン 100円」「盛合せ 600円」。
奥では店主が鍋に箸を入れ、衣をまとった食材を油の中へ落としていた。じゅわっ、と弾けた音が狭い空間を震わせる。
「いらっしゃい。何にします?」
「盛合せで。飲み物は……ウーロン茶を」
酒を頼まない客にも、店主は何も言わなかった。ただ頷き、手を止めずに油と向き合っている。
やがて、小皿が差し出された。白く盛られた大根おろしと、琥珀色の天つゆが注がれた小鉢。
「おろしは好きなだけ。足りなかったら言ってください」
声は短く、だが温かかった。
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最初に出てきたのは海老天。揚げたての衣が淡く光り、立ちのぼる湯気に油と海老の甘さが混じっている。箸でつまむと、衣がカリリと鳴った。
大根おろしをたっぷりと添えて、天つゆにくぐらせる。琥珀色の中で白いおろしがふわりと広がり、海老天をやさしく包む。
一口。
衣は軽く、舌に油を残さずに砕ける。おろしの清涼感が海老の甘みを引き立て、天つゆの塩気が全体をまとめる。油の重さをおろしが洗い流し、後味は驚くほど澄んでいた。
——油をやさしくする力。おろしは、孤高を守る盾だ。
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次はなす天。衣の下で紫の皮が艶やかに透けている。箸で割ると、じゅっと油がにじみ出した。
おろしをのせて口に運ぶ。熱でとろけた果肉が舌に広がり、油を含んだ甘さをおろしの辛みがきゅっと締める。
そのコントラストに思わず目を細めた。
ピーマン天はほろ苦さが強い。天つゆに浸すと苦みが和らぎ、おろしが加わることで瑞々しい香りが立ち上る。揚げ物のはずなのに、野菜の青さが生き返る。
——天ぷらは、油ではなく時間を食べる料理だ。
揚げた瞬間の数分を、逃さずに味わう。その短い時間をどう受け止めるかで、味は変わる。
おろしと天つゆがあることで、その数分がやさしく整えられる。
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隣の客が声をかけてきた。
「兄さん、ここは塩じゃなくておろし天つゆが定番なんだ」
「そうなんですか」
「そう。胃にやさしいからな。酒飲みも、最後はこれで締めるんだよ」
言いながら、その男は天つゆを啜った。油とだしと大根おろしが混ざり、独特の白濁色をしている。
坂井は頷いた。孤高であることは、決して強さだけではない。やさしさと調和があってこそ続けられる。
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壁のポスターに目がいった。
《商店街夏祭り 天ぷら串100円 大根おろし無料》
赤い文字が躍り、その下には手描きのイラスト。屋台の煙の中に、串に刺さった天ぷらが並んでいる。
——またここでも繋がった。
街の糸が、静かに自分の足元に伸びてくる。
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ウーロン茶を一口。油の余韻がすっと消えた。カウンターの奥で、また新しい食材が油に沈む。じゅわっ、じゅわっ、と音が立つ。
——この音を聞くために、ここへ来たのかもしれない。
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新たに出てきたのは、白身魚の天ぷら。衣の中に隠れた身は、ふっくらとしたキスだった。
箸で持ち上げると、油の熱でわずかに身が震える。大根おろしをのせ、天つゆに軽く浸す。
一口。衣の軽さの後から、柔らかい白身がほどける。淡白な甘さを、おろしの辛みとつゆの塩気が引き締める。まるで、静かな旋律にアクセントを打つような調和だ。
かぼちゃ天は厚みのある橙色。衣を割ればほくほくの甘さが広がり、熱で口の中が満たされる。おろしを添えると甘さがやわらぎ、甘味と辛味が押し合いながら舌の上で落ち着いていく。
レンコン天はシャクッと歯を受け止め、油の香りと野菜の土っぽさを残す。その後を追うおろしが口の中を掃き清め、次の一口を呼び込む。
——おろしは、料理の後片付け人だ。油を収め、余韻を整える。
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「おろし、おかわりどうぞ」
店主が白い器を差し出す。大根の粒が光を受けてきらきらしていた。
無料というのが、かえってありがたい。贅沢ではなく、日常の慈しみだ。
ご飯を少しもらい、その上におろしをのせ、天つゆをひとさじ。シンプルなのに、驚くほど箸が進む。
——これは天ぷらの脇役でありながら、別の主役だ。
街も人も、主役より脇役が支えている。そんな言葉が自然に浮かんだ。
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暖簾が揺れ、背の高い影が入ってきた。
「おや、坂井さん」
軽い声。中原純だった。
帽子を脱ぎ、にやりと笑う。
「やっぱり、こういうとこにいましたか」
「偶然だろう」
「偶然じゃないですよ。僕も油の匂いに呼ばれたんです」
カウンターに立ち、海老天とビールを頼む。
グラスが泡を立てる音が心地よい。
「ここ、配信映えしますね。おろしの白、つゆの琥珀、衣の金色。カメラに撮ったら絶対に綺麗ですよ」
「お前はすぐ配信に結びつける」
「だって祭りが近いじゃないですか。“天ぷら串実況”とか、“大根おろしチャレンジ”とか、絶対バズりますよ」
「……勝手に名前をつけるな」
「いいじゃないですか。坂井さんの声で“揚げたてをどうぞ”って囁けば、それだけでフォロワー増えますよ」
冗談半分だが、目は本気で輝いている。
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壁のポスターに再び目をやる。
《商店街夏祭り 天ぷら串100円 大根おろし無料》
赤文字が油の湯気で揺れている。
「ここも出店するらしいですよ。屋台で天ぷら串、おろしサービス」
中原が嬉しそうに言う。
「この流儀は、屋台でも生きるんですね」
「そうそう。僕はその場で食べて実況します。坂井さんも来ますよね?」
「……仕事次第だ」
「仕事って言いながら、絶対来ますよ」
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店主が声をかける。
「スタンプ、押しますか?」
差し出したカードに、朱色の印が加わった。4つ目。
蝶、稲妻、そば丼、そして天ぷら鍋。
紙は同じでも、重みは増していく。
ウーロン茶を飲み干す。油の余韻は、おろしで和らぎ、静かな満足感だけが残った。
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外に出ると、夜風が油の匂いをさらっていった。
坂井は胸ポケットのカードを指でなぞる。
孤独ではない。だが、群れなくてもいい。
油とおろしのように、強さとやさしさが共にあれば、それで輪郭は守られる。
街の灯が遠くでまたたく。夏祭りの糸が、確実に自分を引き寄せている。
(つづく)
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