2.
わたしの身体は、砂でできた城のように、脆くなっていて、もう崩れ去る寸前だった。
ベッドから這い出し、どうにか自室の扉を開けたのは、水を飲むためだったのか、それとも、ただ、この闇から逃げ出したかったためだったのか、もう、自分でも判然としない。重い身体を廊下に引きずり出し、玄関とは逆のリビングに向かった。
廊下を数歩進んだところで、わたしの視界は、鉛色の濁流に呑み込まれた。
息が苦しい。
肺が冷たい石に変わってしまったように、空気を吸い込むことを拒否し、ズシンと重くなる。喉の奥が張り付き、声にならない悲鳴だけが、内側で木霊する。わたしは、居間の敷居をまたぐこともできず、そのまま、冷たい床に、バタリと、倒れ込んだ。
床に蟠ったホコリが舞い上がったのを見たと同時に、わたしの世界は、お香の匂いと、真っ黒の闇だけになった。
この濃密な匂いが、さらにわたしの呼吸を奪う。わたしは、ただ、ひたすらに、空気を求めて、藻掻いた。胸郭が激しく上下し、身体は魚が陸に上げられたときのように、激しく痙攣する。
もうすぐわたしは死ぬのだろうか。
わたしの脳裏に浮かんだのは、悲しみや抵抗ではなく、歓びだった。
苦しみの先に、わたしを待っているのは解放だ。
その時、闇の中で、一つの影が動いた。
暗転を繰り返す視界に捉えた姿は母だった。
母は、わたしが倒れていることに気づき、慌てた様子で、わたしに駆け寄ってきた。彼女の顔は、お香のふありとうきあがった闇の中で、歪んで見えた。しかし、母の目には、いつもの冷たさや万能感ではなく、明確な恐怖が宿っていた。
母は、わたしを抱き起こし、荒い息遣いで、わたしの背中をさすり始める。
「椿!しっかりしなさい!どうしたの、こんなところで…!」
母の声と手は、十年前のわたしをいじめた都の暴力とも、冷酷な支配とも違う純粋な混乱と生命への執着に満ちていた。
母にとって、わたしは文句を聞くための、愛する存在ではなく、絶対に必要な存在なのだ。
それがないと、母は壊れる。
母は、わたしに、何かの薬を飲ませ、わたしの顔に、冷たい布を当てた。
母の行動は、わたしを生かそうとする、強い意志に満ちている。
そして、その強い意志が、わたしを、絶望に、再び引き戻した。
肺に、生温い空気が、微かに流れ込んできた。呼吸が、不規則に再開する。わたしの身体は、母の必死な介護によって、死の境界線から、無理やり引き戻されたのだ。
生きてしまった。
あの時、音を立てていなければ、母に気付かれなかったのだろうか。
わたしは、心の中で、乾いた悲鳴を上げた。
わたしは、生きていた。
母の手によって、この絶望の世界に、再び、繋ぎ止められていた。
わたしの胸の奥に広がったのは、深い、深い、虚無感だった。
死という絶対的な解放を目前にして、それを拒絶され、再び黒いことばの檻の中に、戻されてしまった。
わたしには、もう、生きていたい理由など、微塵もない。
占いにも通えない。誰にも助けて貰えない。たとえ占いにいけても、わたしは騙されることが出来なかった。
外はもう、わたしから完全に離れて閉まっていた。外に助けを求める希望も、母が愛してくれる希望も、もう抱けない。
母は、わたしを愛しているのではなく、ただ必要としているだけだ。
そして、わたしという肉体は、わたし自身の願いすら叶えてくれない。
わたしは、母の腕の中で、重たい瞼を開けた。
そこには、安堵と疲弊が入り交じった、母の顔があった。
「よかった、椿……大丈夫よ。生きてたから」
母は、わたしを支配するための、いつもの嘘を、再び、囁いた。全然大丈夫では無い。もう大丈夫ではなくなって何年もすぎた。大丈夫という感覚も忘れている。
わたしは、ただ、心の中で、繰り返していた。
「もう、生きていたくない。もう、生きていたくない。」
その感情は、涙や怒りといった表面的なものではなく、わたしの存在の根幹から湧き出る、絶対的な拒絶なのかもしれない。
呼吸をするたびに、生温いお香の匂いを運ぶ空気わたしの全身に、染み渡ってゆく。
わたしは、自分の命すら、自分の手で終わらせることができない。
わたしは、母の支配からも、自分の身体からも、逃れられない。
わたしは、目を開けたまま生きているだけの存在になってしまったと思った。
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