エピローグ第一話【椿】
1.
部屋の闇は、深い海の底のようだ。外の光は一筋も届かなくて、お香の重たい匂いだけが、わたしの周囲に澱んでいた。
ブレスレットの冷たい感触を確かめることだけが、わたしに残された、唯一の動きだ。占い師の言葉に行動だけ支配されたわたしは、もうここから抜け出せないのだと、信じたくなかった。わたしは、変われる気がしない。
逃げ出したいのに、体が言うことを聞かない。少しでも光に当たると目がくらみ、倒れそうになる。身体が軋む。
太陽の光を浴びない生活と、たまにしか食事をしない日々が、わたしの身体を、内側から、徐々に蝕んでいった。
肌は青白く、和紙のように薄くなり、少し触れただけで、すぐに内出血の跡ができた。頭は常に重く、思考の速度は、深い泥の中を歩いているように遅くなった。
朝、わたしは、ベッドから起き上がろうとすると、身体が、鉛のように重い。無理に立ち上がろうとすると、目の前が真っ白になり、激しい吐き気に襲われた。わたしは、そのまま床に崩れ落ちた。床に顔を押し付けると、お香の匂いが、一層強く、鼻腔の奥まで入り込んできた。その匂いは、もうわたしを守る繭ではなく、わたしを窒息させる毒のように感じられた。
わたしはもう、何も信じられなくなっていた。今まで裏切られても人を嫌いになれなかったのが、もう限界を迎えて、人を感情を持って見られない。
わたしは、恐怖を感じた。この体調の悪さは、占い師の言葉で解釈してきた「運命の試練」という枠を超えていた。
もう、占い師には依存するだけで信じることが出来ない。
これは、ただの崩壊だ。
わたしの体が、物理的に消え去ろうとしている。そして、その崩壊は、わたしに残された唯一の命綱を、無惨に切りおとした。
わたしは、もう、占い師の店へ通うことができなくなった。
部屋の扉を開けることも、日の光を浴びることも、気がつくと命懸けの行為になっていた。重い扉を開け、玄関までたどり着くことすら、激しい運動のように感じられる。一歩外に出れば、脆くなったわたしのからだは瞬く間に粉々に砕けてしまうような気がした。
わたしは、ベッドの上で、絶望に打ちひしがれていた。
占い師の店へ行かなければ、わたしに頼る人はいない。信じられないくせに、頼ることを辞められない。
ブレスレットを握りしめるだけでは、わたしはもう、安心できない。
気づいてしまっていた。もう、誰かを愛せない。
それでもわたしは、あの占い師の声を必要としていた。誰かの声を聞かないと、わたしは本当に孤独になってしまう。
動けない。
身体は砂でできた人形のように、脆くて、崩れ去る寸前だった。
この絶望は、母に見放された時や、姉に虐められた時とは、質が違っていた。あの時の絶望は、精神的なものだった。しかし、今の絶望は、肉体と精神の全てを巻き込んだ、根源的な崩壊を前にしている。
わたしは、窓の外を見た。厚いカーテンの隙間から、いまは僅かに光が漏れている。前は、まだ占い師の言葉を信じていると思えた頃は、危険な光と思った。
それも信じられなくなった今は、その光がわたしを見捨てた社会からの、冷たい嘲笑のように見えた。
社会は、わたしが崩れ落ちるのを、ただ見ているだけなのだ。
わたしは、声を出して泣くこともできなかった。涙腺が干上がったように、目からは、何も溢れてこない。ただ、胸の奥で、乾いた悲鳴が、響き続けていた。その悲鳴は、誰にも届くことなくお香の匂いと闇の中に、吸い込まれていった。
わたしは、誰にも頼れない。
母は、わたしを道具としてしか見ていない。
姉は、わたしも母もを拒絶して逃げ去った。
友人は、わたしが自ら断ち切った。
そして今、わたしの体は占い師に縋ることを許さない。
わたしは、自分で作った闇の中で、完全に一人になった。
わたしは、葦にも縋るように、ブレスレットを強く握りしめた。
石が、手のひらに食い込む。その痛みだけが、わたしがまだ生きているという、微かな証拠だった。
しかし、その証拠も、いつまで続くのだろうか。わたしは、もう、この闇から、二度と抜け出すことはできないまま、終わるのだろうか。わたしは、このベッドの上で、誰にも知られず、消えてゆくしかないのだろうか。
それが、わたしに残された、唯一の運命だった。
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