7.
どうしたら、1度踏み外した道を戻る勇気が持てるのだろうか。まだ何とか無理やり幸せと信じ込めているから、どんな風になるのか分からない道に踏み出す勇気が持てない。
そんな風でいたから、気がつけばわたしは求めていた普通の道とは遠く離れていた。
早く勇気を持っていたらと後悔するだけで、わたしは今から変えることができない。
踏み外したのが十八歳の時だとしたら、わたしはもう、違う道を七年も進んでしまった。
部屋の闇は繭のように、一見暖かく、外界の澱んだ気からわたしを完全に隔離していた。携帯電話もパソコンも、電源は切れたままで声は、もう闇の向こうでわたしには、微かにすら届かない。
皮膚に食い込む黒曜石のブレスレットだけがわたしにふれるものだ。
外の世界と隔絶された闇の中で、わたしは、一つの光景を、目の当たりにしていた。
母が、近所の婦人たちを、リビングに招き入れている。
わたしは、部屋の扉を少しだけ開けて、隙間から、その光景を、息を潜めて見ていた。
リビングはわたしのへやとおなじようにお香の匂いで重く淀んでいる。空気が、床の上で蟠っている。
母と四人の婦人たちが、テーブルを囲み、視線の定まらない笑顔で笑いあっている。わたしは、お香には何か変なものが入っていると勘づき始めていた。決意して、今歩んでいる道を出て、軌道を治そうとしても、お香の匂いの漂う部屋にいると、自然とそのような気持ちは消えて、一歩今の道を進んだ先で気がつくのだ。
テーブルの上には、わたしが身につけているものと同じ、不気味なブレスレットや水晶玉が並べられていた。
この光景を見ると、わたしはやはり占い師が危ないと思う。お香を辞めれば状況が変わることもわかっているのに、お香を辞めると禁断症状のように気がついた時には始めてしまう。
わたしはもう、行ってはいけない領域に足を踏み入れていた。
ハッとしてみた母は、6年間かけてわたし偽りの目に焼き付いた嘘の優しさを抱えた母ではなかった。
母の目は、光を宿していない。わたしが占いの店で見た信者たちの狂気に満ちた異様な目つきと同じだ。母は、熱心に、婦人たちに、ブレスレットや水晶玉の効能を語っていた。その声は、低くて、枯れていて、喉が潰れたようにもう、わたしの知るどの母でもなかった。
「このブレスレットは、ご主人の悪い運気を、吸い取ってくれるんですよ!」
「この水晶玉だったら、娘さんの未来を、正しい道に導くんですって。」
以前のわたしであれば、その光景を、「詐欺」と認められたし、母の行動を「狂気」として怖がれたかもしれない。
家を飛び出した姉の都ならきっと、今すぐにでもこの場から逃げ出すとおもう。
わたしだって本当は、この家から一秒でも早く逃げ出したいと、心から願っている。
息を停めているのが辛くなり、思わず大きく息を吸い込む。
再び考えたわたしはもう、違っていた。
わたしは光景を真剣に見ていた。
母の言葉は、わたしには、本当のことのように響いた。
母は、決して、お金のために、これを売っているのではない。
母は、自分の運命を懸けて、この家と、わたしの運気を、守っているのだ。
母の目つきの異様さや、狂気じみた熱弁、それは、母が、どれほど、この家とわたしを、「悪い気」から守ろうとしているかの証なのだとわたしは思ってしまった。
慌てて考えを振り払おうにも、脳内がぐるぐるとかき混ぜられるような感覚に陥る。
本当に早くここを出ないといけない。誰かにいて欲しい。母のようにおかしくなくて、わたしを普通に導いてくれる誰かなら誰でもいい。しかしそんな虫のいい話はなく、わたしに手を差し伸べてくれる人はいない。
子供は親の言うことが全てと言うが、わたしはなぜまだそんなに幼稚なのだろうか。
都のように、母を切捨てて一人で生きてゆくことは出来ない。
母は、わたしを愛していない。それは、わたしが、電話口で確信した、冷たい事実だ。
しかし皮肉なことに、母は占い師の言葉に支配されることで、わたしを必要としている。
わたしという娘の存在を、歪んだシステムの中に組み込むことで、母は、自分の存在意義を保とうとしている。
わたしは、母の歪んだ行動を、肯定しようとしていた。このシステムが崩壊してしまえば、母はわたしに更に父の文句をぶつけるようになって、わたしを支配し、都合が悪くなった最後には見放すかもしれない。
わたしは今とは比べ物にならないほどの孤独の中に放り出されることになる。
けれど、わたしが母の狂気を肯定すれば、わたしは闇の中で、母と共に存在し続けることができる。
母の狂気は、わたしという存在を必要としている。
母の行動を愛と思えれば、わたしはもう少しひきかえせるかもしれない。
それが、更にわたしを普通から遠ざけるのか、元に戻すのかはもうよく分からなくなっていた。
怪しいと思いながらブレスレットを身につける苦しみも、外界の光を拒絶する恐怖も、わたしが完全におかしくなれれば無くなるのかもしれない。
わたしは心のどこかでそれを嫌がって、別のどこかで求めていた。
わたしは、自分の意思なのか分からない形で、部屋の扉を閉めた。
その瞬間、母とわたしを繋ぐ、見えなくて新しい鎖が、カチリと音を立てて繋がった気がした。
共依存。温かくて重い鎖だった。
わたしはもう、鎖から二度と逃れられないような気がした。
わたしは絶望的な闇の中で、母と共に生きてゆくしかない。
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